蒼い鳥 +++ act.20


いずれ幸せになるために
ぼくたちにはその鳥が必要なのです

メーテルリンク「青い鳥」



他との違いを判断できるようになっている自分に軽く嫌悪しつつ、グレイに向き合う。グレイの目にもまた、真剣な光がある。何かがあった。ボリスが発砲するような何か。ボリスはナイトメアを探すと言っていた。ナイトメアはどうしただろう。多分、グレイもアリスと同じ事を考えている。
「音がしたのは、あっちよ」
焦燥が募る。ナイトメアを探さなくては。
アリスが指し示した方に二人して走りかける。しかし次の瞬間、空間が滲んだ。本当にその場が薄くなったようにアリスには見えた。元々、厚みなどあるはずもない空間が揺れ、歪み。そして、ナイトメアが現れた。何もなかった、いなかった場所から突如出現したといった様子だった。しかし、そんな異常な様を異常とも感じさせない。ナイトメアは常の如くナイトメアだ。慌てふためいたあまり、つんのめって転びかけて、地に手を突く。
「チェシャ猫にいきなり撃たれたぞ?!何だあれは!!チェシャ猫と撃ち合う時計にはなっていなかったはずだ!どうなってるんだ!!」
出会い頭に「動くな撃つぞ」と言い様、ボリスは撃ったらしい。得意の早撃ちで。咄嗟に夢の領域に逃げ込まなければ危なかったと、ナイトメアは青い顔で呟いた。
いきなりナイトメアが現れた事だって、もう何だってありだ。いちいち、気にしていたら負けな気がする。
アリスは無言で彼の背をさすった。勿論、そもそも塔から脱走などしたナイトメアが悪い。悪いのだが、しかし、ボリスのした事に対して、何某かの罪悪感を感じないでもなかったので。
「うう。アリス、君は優しいな」
そこでナイトメアは、ようやっとその場にアリスだけでなく、グレイもいる事に気がついた。
「うげ!」
奇声を発するなり遁走しかけたナイトメアの襟首を引っ掴む。瞬間、首が絞まったナイトメアは「ぐえ!」と更に蛙が踏み潰されるような声を発したが、勿論、今度は罪悪感など微塵も感じない。
「捕まえたわよ、グレイ!」
アリスは誇らしげに笑ってグレイを仰ぎ見る。
「ううう。前言は撤回する。アリス、君は非道い子だ」
ナイトメアはしくしくと泣いていた。



「大体、何であんたはこんなところに来たのよ」
それも仕事をほっぽりっ放しで、だ。いつもの事ではあるが、今回はいただけない。外にまで逃亡。部下の皆に広範囲を探し回らせた。
じっとりと睨むアリスに、ナイトメアが応じる。如何にも当然といったように。
「君がチェシャ猫と出かけたからだ」
あまりにも堂々と言い放たれて、アリスは一瞬、言葉をなくした。対するナイトメアは開き直りかふんぞり返って不満そうに唇を尖らせる。
「君は私のエスコートでは嫌だと言うし。ならば、グレイが『チェシャ猫ではなく、俺がエスコートする』と言えばいいのに、それもしないし」
この朴念仁め、とナイトメアがぶつくさと腐す。グレイは微妙に目を逸らした。そしてアリスは話に全くついて行けない。え。何。何を言っているの。何故グレイが、と言いかけて、しかし、そのまま口を閉ざした。
ボリスはアリスの友人であるけれど、今のボリスは森の統括者だ。ボリスは何も言わないが、領土には常に主人がおり、それによって場は安定するのだとアリスは知っている。森に属する実力者。もう一方のピアスはそうではない。彼は帽子屋にも属している。ならば、あの森の主人はボリスなのだ。遊園地の居候だった頃のようには、彼も気楽な立場ではない。塔は中立ではあったけれど、その庇護下にあるアリスが別勢力の主に当たる者と共に出かけるというのは、あまり好ましくないのかも知れない。それくらいなら、いくら多忙であってもグレイがアリスを監督した方が、と。
「ああ、違うぞ。今、君が考えているような理由じゃない」
すかさずナイトメアが首を横に振った。
「だから、あんたは、勝手に人の心を読むなと何度言ったら…」
その時、不意にドアが開いた。先程、ボリスが潜っていった木についたドアだ。今度は空間が歪んだりはしなかった。何の前触れもなく、ただ当たり前のようにドアは開き、当然の如く現れたのはボリスだった。きょろりと周囲を一渡り。見回して、アリスとグレイと共にナイトメアがいるのを目に入れて、にやりと笑う。
獲物。そんな単語がアリスの脳裏を過ぎった。
「つい急所を狙っちゃったんだよ。悪気はないって。…ごめんな?」
悪気はなくとも、本気であった。アリスにはそれが、手に取るように見て取れた。そして恐らく、ナイトメアにも。
「チェシャ猫、お前、お前は…」
ナイトメアは興奮のあまり、口も良く回らなくなっていた。危ない、とアリスは思った。アリスの思考を読んだかのようにナイトメアはごほごほと咳き込み、えずいて結局吐いた。吐いたのは血だ。いつもの如く、一体何処からと言いたくなるような量だった。
今、周辺に書類はない。それだけが救いだ。
アリスの視線は遠くを彷徨う。その一点だけでも、ここが執務室でなくてよかったと思うべきなのかもしれない。庭での騒動がレストランの中にも伝わったらしく、外にちらほらと人が顔を見せ始めていた。
「そろそろ退散した方がいいな」
てきぱきとナイトメアの介助をしていたグレイはそちらに顔を向け、冷静に呟いた。ナイトメアを軽々と背負って立ち上がる。
「私も一緒に帰るわ」
いいのか、と問うような視線をグレイはアリスへと向けた。もっとゆっくりしていってもいいのに、と。
しかし勿論、これ以上パーティを楽しむような気持ちになどなれない。ナイトメアを背負ったグレイの元に歩み寄り、そしてアリスは彼等を観察するように見つめる猫へと振り返った。
「ボリス、今日はありがとう」
帰り道は送ってくれなくても大丈夫。だから、今日はここでお別れ。
そういった諸々を含んだお礼の言葉。
「とても楽しかったわ」
「俺も楽しかったよ」
役得だったしね。
悪戯っぽく告げるボリスに微笑み返す。いつもの遣り取り。いつものボリス。
ボリスの歩みには常に音がない。しなやかに滑るようにアリスとの間の距離を詰める。いつの間にかといった様子でアリスの目の前に立ったボリスはアリスの頭上へと手を伸ばした。髪の毛にではなくて、彼が触れたのは天鵞絨のリボン。彼は気づいただろうか。前にボリスがくれたリボンだ。幾分かの恥じらいを隠したアリスの微笑みに対して、ボリスは嬉しそうににっこりと笑って、リボンにそっと唇を寄せる。
「お休み、アリス」
頭に息が掛かって、くすぐったい。アリスはくすくすと笑って応じた。
「お休みなさい、ボリス」
アリスと違って、ボリスは夜に休まない。けれど、アリスはボリスに「お休みなさい」と言う。
「良い夜を」
ボリスにとって、憩える優しい夜であるように。



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