蒼い鳥 +++ act.21


いずれ幸せになるために
ぼくたちにはその鳥が必要なのです

メーテルリンク「青い鳥」



「君は、本当にチェシャ猫と仲がいいんだな」
突然に、グレイの背中から声がした。
クローバーの塔はこの国の中心にあって、この国の何処にいてもその位置を確認できる。塔下の街からは覆い被さるようにさえ見える巨大な姿はまさに今も目に映っている。塔までの道程をそう遠くはなく、故にしいて会話でもたせなくてはとも思わず、ただ黙々とグレイの隣を歩いていたアリスは虚を突かれた。反応が遅れた理由はそれだけだ。けれど、アリスはその間に先程のナイトメアの言葉を思い出した。ボリスと仲良くしてはいけないのだろうか。よくない事なのだろうか。
「さっきも言ったが、チェシャ猫と仲良くしてはいけない訳じゃない。そこまで君を縛ったりしないよ」
さっきも言ったが、心を読むのは止めて欲しい。
アリスは強く強く思う。ごほごほとグレイの背中からあまり重くない咳払い。でも、だったら何故だろう。ボリスと出かけてはいけない訳じゃない。けれど、出かけてほしくはない。アリスはナイトメアを見上げる。グレイの背中にいるナイトメアの顔はいつもよりも高い位置にあって、その顔が見たくて覗き込むようにして。けれど、ナイトメアはアリスの視線を避けるように顔を反対側に向けた。
「君が仲良くしている奴がいるというのが、ただちょっと面白くないだけだ。個人的にな」
だけど、それは他の連中だって同じだろうな。だから、チェシャ猫も双子も我々に八つ当りするんだから。
お互い様だと思えば、そんなには腹も立たない、と顔を背けたまま締め括ったナイトメアに、アリスは目をぱちくりさせた。まじまじとナイトメアを見つめるが、ナイトメアは依然としてそっぽを向いて、アリスの方に顔を向けようとしない。
「八つ当たり??」
先程のボリスは、ひどくグレイに失礼だったと思う。いきなり発砲したナイトメアに対しては言うに及ばず。そう、敵対勢力だからというだけじゃない。だってこれまでハートの城でも帽子屋屋敷でも、ボリスがあんな顔を見せた事はなかった。別れ際も、アリスの傍らにいるグレイとナイトメアを完全に無視して、まるでその場にアリスだけしかいないかのような顔。そつのないボリスらしからぬ対応だ。双子だってそうだった。
塔の玄関ホールに並び、アリスも主催者の代表として出席者を出迎えた。会合の始まりの時の事だ。双子にじゃれつかれたアリスをグレイが救い出し、替わりにグレイは双子から嫌がらせをされるようになったという。双子本人に確かめたから、本当の話だ。怒ったアリスに対して、「蜥蜴が僕達からお姉さんを盗ったからだよ」「そのくらいされて当たり前だよ」と双子は口々に訴えた。
「私は盗られてなんかいないわ」
今でも、貴方達の傍にいるでしょう?
アリスはそう言って、彼等を宥めた。グレイに嫌がらせをするなんていけない事だとそう言って。
八つ当たり。
友達が他の子と仲良くしているのが嫌だ、とか。初等科の子供みたいな事を彼等がしない、とは言い切れない。何しろ、この世界の住人は皆、とびきり子供っぽい。それでも、アリスがそれに呆れ返るのとは別問題だ。何を言っているのかと思う。ボリスも双子も、そしてナイトメアもだ。
じっとりとしたアリスの視線の前に、依然としてナイトメアの顔は見えない。そして、何故かグレイも。グレイまで微妙に目線を逸らしている。ように感じられる。
まさかね。
アリスの横を歩いているグレイの視線が合わないのは別におかしい事じゃない。というより、合う方がおかしい。だから、グレイがアリスの顔を見ないのはおかしくない。アリスはすぐに己を納得させた。
そんなアリスの心の中限定の小さな一幕に気づいた様子もなかったが、ナイトメアは殊更にあっさりと聞こえるようにと苦心の末とよく判る声音で言った。
「チェシャ猫とは付き合いも長いものな。確か、君がこの世界にやってきてすぐの頃か、知り合ったのは」
相変わらずよく知っている。
けれど、ボリスと仲良く見えるのなら嬉しい。実際、仲はいいと思う。少なくとも、アリスはボリスの事が好きだ。彼のように気安く付き合える友人は、元いた世界にもいなかった。
「この世界に来て、一番最初に友達になってくれたのがボリスだったの」
人に慣れないアリスの友達。帽子屋屋敷の双子とは、出会い方があまりにも悪かった。決して忘れられないインパクトではあったけれど。ボリスが彼等を友人だとアリスに紹介してくれていなかったら、多分、今でもアリスは双子と友人にはなれていない。双子と友達になったから、エリオットにも声を掛けられるようになり、ブラッドに夜の茶会に招かれるようになった。ボリスの居候先だった遊園地のオーナーとその従業員達。そして今では、ボリスと同じ森に住むネズミ。
アリスの友人関係の基本は、ボリスを中心に据えられている。
ボリスを介さない知り合いの方がアリスにとっては少ない。アリスをこの世界に引き込んだ白兎と、始めにアリスがこの世界に現出した、この世界の中心に位置する塔を仕事場にしていた男。
アリスは思いを振り払うように、息を吐きながら首を横に振る。
「だけど、ボリスと知り合ったのは、ナイトメアと夢で会ったのと同時期くらいよ。私はナイトメアの事は夢の登場人物だと思っていたけど」
でも、それを言ったらボリスも同じだ。アリスは当初、この世界は己の妄想からできたものだと思っていた。不思議な猫と友人となったのも、なれたのもアリスの願望を映したものだったのだろうと。ボリスは、全くアリスとは似ても似つかない自由な生き物。決してアリスにはそうなり得ない存在。
「ナイトメアだって、グレイとは長いんでしょう?」
「こいつと長くても、私はさっぱり嬉しくない」
即答だった。当の相手の背中で大威張りの一言である。
「ああ、もっと早く夢から出て、君に会いに行けばよかった…」
「ええ、是非ともそのようにお願いしたいところでしたね」
対するグレイも、打てば響くといった様子だ。この二人は本当に仲がいい。ちくりと胸に痛むものを感じて、そしてアリスは苦笑する。ああ、そうか、と。こういう事だ。
勝手に疎外感を感じて、勝手に傷つく。存外、自分だって子供っぽい。
「そうだ。言おうと思って、言い忘れていた」
しかし、アリスを感傷には浸らせてくれないナイトメアは、また唐突に言い出した。
「今日の君の衣装、とてもいいな。よく似合っている」
いつもの服装もいいけれどな、と続ける。この主従は時々、全く同じような事を言う。こんなところでまでも仲がいい。けれど、実際にはあまり似合っていない。先程のグレイの反応はアリスの記憶にも新しい。
「…ありがとう。お世辞でも嬉しいわ」
マナーとして褒められた事に、微笑みで返す。『貴女の事をきちんと見ています。気に掛けています』というサインなのだから、ありがたく受け取るのが、それこそマナーだ。
「世辞なんかじゃないぞ」
しかし、間髪入れず、ナイトメアは返した。丁寧に再びお礼を言って、グレイの時と同じように「ビバルディからのプレゼントなの」と告げる。褒められたと伝えたら、ビバルディは喜ぶだろう、と。
ナイトメアは少しの間、黙り込んだ。そして、深々とした溜息。
「君には夜の色が似合うと思ったが、そういった色も映える。ハートの女王は君を理解しているって事だな。ちょっと悔しいよ」
「…ナイトメアったら、ビバルディと同じ事言ってるわ」
くすりとアリスは笑う。
ナイトメアは、アリスに会合用としてドレスを贈ってくれた。それを着たアリスを見て、「よく似合っている」と褒めてくれたビバルディはだけど、すぐにその美しい眉を蹙めて「口惜しい」と吐き捨てた。そして、次に会った時に彼女はアリスにこのワンピースをくれたのだ。淡い薔薇色を身に纏ったアリスをうっとりと見つめ、気に入りの人形を愛でるようにそのワンピースが優雅に描いたアリスの体のラインを撫でて、「似合っているよ」と囁いた。「こちらの方がお前に似合う」
「娘らしい華やかな色合いを選べぬとは、ほんに夢魔も気の利かない」
このワンピースは、明らかに彼女がナイトメアのドレスに対抗して選んだ物だ。けれど、アリスにはとても嬉しかった。物自体がではなくて、ビバルディがアリスを気に掛けてくれる事が嬉しい。それが子供のような独占欲の発露だったとしても。
「…やっぱり、悔しいな。今ここにいない女王の方が君を上手に笑わせている」

チェシャ猫といい、女王といい、彼等は何故、そんなに上手く君を楽しませる事ができるのかな。

グレイの背中からナイトメアの声がする。その言葉がグレイの渋面と奇妙に重なって、まるでグレイもそう思っているような、そう思ってくれているような気がして、アリスはくすりと笑った。
変なの。
何とも自分に都合のいい話。自意識過剰な馬鹿な子供。けれど、そんな小さな夢はアリスの心を温めた。
グレイとナイトメアと共に、塔までの夜道を歩き帰る。結局、当初アリスが想像していた通りの結末となった訳だ。ナイトメアは相変わらずだし、グレイには迷惑を掛けてばかり。けれど、こうやって3人で歩く、それだけの事がとても嬉しい。正確には、ナイトメアは歩いてはいないけれど。
再び、ごほんごほんとわざとらしい咳払い。それに、目を眇めて視線を送って。

その夜の闇は、アリスにはとても優しかった。



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