蒼い鳥 +++ act.19


いずれ幸せになるために
ぼくたちにはその鳥が必要なのです

メーテルリンク「青い鳥」



何故、薄暗いガーデンテープルでグレイと二人、隣り合って座る事になってしまったのだろう。ただ二人して、黙り込んだまま。空気はひたすらに重くて、アリスは目をうろうろと泳がせる。何なのどんな嫌がらせ?…無論、そんなはずはない。アリスではないので、グレイはそんな真似はしない。だったら一体何なのだろう。グレイは何でアリスを引き止めたのだろう。周囲は暗いから、アリスにはグレイがどんな表情をしているのか判らない。光源はレストランの店内から洩れる明かりだけで、けれど隣にいる相手の顔も見えないという程に暗い訳ではない。けれど、アリスは自分に言い聞かせる。
暗いからよ。
だから、アリスはグレイの姿をまともに見られない。グレイと向かい合って座らなかった事が唯一の救いだ。見えない事の言い訳になるから。アリスはワンピースのスカートを揉み絞る。ああ、早くボリスが帰ってきてくれないだろうか。俯きがちに、けれど頑なにグレイへと顔を向けないアリスの横で、グレイは深々と溜息を吐いた。その事に体が震える。空気は更に重さを増した。それ以上のプレッシャーに耐えかねて、「やっぱり飲み物を持ってくるから」と席を立ちかけたその時、グレイは口を開いた。
「すまない」
己の台詞に被せられた溜息混じりのその言葉に、アリスは目を瞬く。一瞬、グレイが何を言い出したのか判らなかった。
「俺は本当にこういう事が苦手で。上手に話題を選ぶ事もできない」
つくづく自分が嫌になるな、とグレイは独りごちた。彼は何を言っているのだろう。呆然と、引かれるようにグレイを見つめた。暗くてもちゃんと見えた。難しそうな顔をして、悩んでいる。もっと言うなら、落ち込んでいる。そんな風に見える。
『自分が嫌になる』なんて、グレイが何故そんな事を思うのだろう。それはアリスだ。アリスはグレイに迷惑を掛けるだけの馬鹿な子供だけれど、グレイはそうじゃない。仕事ができて、心遣いもできる。優しくてしっかりした責任感のあるいい人。ちゃんとした大人だ。
「そんな事ないわ」
グレイがアリスの前で落ち込む事なんて一つもない。アリスのために悩む事なんかあってはならない。
「あのね。ごめんなさい」
言葉はするりと口をついて出た。グレイの前でどう振る舞っていいのか判らないと思っていた事が嘘みたいに。
「何がだ?」
「色々。色んな事、全部引っくるめて」
「俺には君に謝られるような心当たりがひとつもないんだが」
グレイは困ったように言ったが、やがて小さく笑いを洩らした。
「君は俺に謝ってばかりいるな」
それは本当の事だった。アリスも笑う。こちらはもっと自嘲を含んだものであったが。
「私、グレイに謝る事が一杯ありすぎだもの。例えば、今だってグレイの仕事の邪魔してる」
アリスが卑屈さ故に塔の皆の、グレイの親切に対して僻んでいるというのは、会話には乗せたくなかった。再度口にしたくはなかったし、どうやらグレイは聞かなかった振りをしてくれるつもりのようであったので。
いい人。本当に大人だ。
多分、グレイは関係の修復のために話をしようとしてくれている。このまま離れてしまったら、後日もどこかぎくしゃくとした関係になってしまうだろうから。業務上のパートナーで同僚であるアリスと円滑な関係を構築できないのは好ましくない。だから、これはグレイは何も聞いていなかった、何も気にしてはいないというサインだ。
嬉しいはずなのに、胸は痛んだ。この期に及んでも、グレイの優しさを大人故の包容力を悲しんでいる。どこまでも甘やかされるだけの子供に過ぎない自分に傷ついている。アリスは、どこまで卑屈なのだろう。唇を噛み俯くアリスに、グレイは「今?何かしているか?」と心底不思議そうに言った。
「ナイトメアが私を追いかけて脱走した事とか。私、パーティに来なければよかったと思って」
「それはナイトメア様が勝手にした事で、君のせいじゃないぞ?」
グレイは主君に対するざっくばらん過ぎる評価であっさりと返す。そして、続けた。どこか心配そうに。
「君は少し、自分で責任を被ろうとし過ぎているような気がする」
それは、とても危うい事だとグレイは言ったが、アリスにはよく理解できなかった。責任を取ろうとし過ぎる?どういう事だろう。黙り込んだアリスにグレイは苦笑する。判らないのならいいんだ、と呟いて。
「それに、パーティは楽しかったんだろう?だったら『行かなければよかった』なんて言わないでくれ。君が楽しめたのだったら、ナイトメア様はそちらの方が嬉しいだろう。勿論、俺も」
『勿論、俺も』
アリスは瞬間、眩暈を覚えた。椅子に座っていたお陰で、膝から力が抜けた事もグレイに気づかれなくてすんだ。周囲が暗い事と相まって、これもまたアリスにとっては恩恵といっていい。グレイの前でみっともなくへたり込む醜態を演じる事もなく、茹で蛸のように真っ赤になった顔を白日の下に晒す事もなくすんだ。何なの何なの何を言ってるの止めてよ変な事言い出さないでよ何なのよ。
勿論、変なのはグレイではなくてアリスだ。グレイには他意などない。言葉の間に挟まった、ほんの小さな心遣いの類だ。それに対して過剰に反応するアリスがおかしい。自分で自分がおかしいと思う。
「っええ、楽しかったわ。みんなとおしゃべりもできたし、お料理も美味しくてね。料理人さんが親切で、たくさんレシピも教えてもらったわ」
テンパって捲し立てた話し方からその内容まで、子供そのものだ。恥ずかしくなって俯いたアリスに、グレイは笑いの混じる声で言った。
「君は勉強家だな」
わざわざパーティまで来て、レシピの収集。思い返せば、何とも華がない。つまらない子だと思われただろうか。アリスは、手持ち無沙汰に弄っていたワンピースのスカートを固く握りしめる。ボリスに似たような事を言われた時には聞き流せたのに、グレイの言葉はその全てがアリスにはひどく重い。多分、自信がないからだ。グレイに受け入れられる自信。無論、そんなものは全くない。いつグレイに愛想を尽かされるかと怯えている。アリスはグレイに嫌われたくない。嫌われて当然の迷惑を掛け通しの馬鹿な子供には過ぎた望みだと判ってはいるけれど。
「ああ、違うんだ。こういう事を言いたかったんじゃなくて。いや、君が真面目で知識欲の旺盛な子だと知ってはいるが、そうではなくて」
俯いたまま動かないアリスの頭上に、困惑したような声が降る。アリスがグレイを困らせている。多分、グレイはアリスに悪い事を言ってしまったのかと思っている。気を遣わせている。
「うん、判ってるわ。私こそごめんなさい。私、勉強が好きなのよ。色々な事を知るのも好き」
だから、グレイの言ったのは本当の事だ。事実を指摘されてうじうじと悩むのは間違っている。自分の根暗な性分故と諦めず、少しでも前向きに考えるように努力していくべきだ。少なくとも、グレイの前では。
アリスが顔を上げて笑顔を作ると、グレイは安心したような顔をした。その事に、自分の対応が間違っていなかった事に安堵して、アリスも今度は心から微笑む。
「君はまた俺に謝ってる」
「ええ、そうね」
彼を悩ませたくない。困らせたくない。心配させたくない。大人であるグレイの優しさと親切心に傷つきながら、同時に確かにアリスはそう思っている。そのためにできる事なら何でもしたい。何でもできる。そう思う。
ぽつりぽつりと言葉を交わし、会話の間に挟まった沈黙もそう居心地悪いとは思わない。先程までの重さなど微塵もない。空気はひどく穏やかだった。
けれど、幾度めかの小さな沈黙の後、グレイは深い溜息を吐いた。
「やっぱり、俺は駄目だな。さっきから君に言いたかったのに、また言いそびれている」
グレイがアリスに向き直る。その空気を感じて、アリスは顔を上げる。グレイは真っ直ぐにアリスを見ていた。それはひどく真摯な様子に見えた。
「今日の君の衣装なんだが…」
衣装。何を言われるかと身を固くしていたアリスは拍子抜けしたが、いや、もしかしたら、何処かおかしかったのかもしれないと考え直す。いつものようにパニエでスカートを膨らませていない、ハイウエストに仕立てられた古風なエンパイアドレス風ワンピース。淡い薔薇色は華やかだけれど、そのデザイン故にとても品よく仕上げられている。アリスには少し上品すぎるくらいに。
不安でいっぱいになったアリスに、けれど、グレイは微笑んだ。
「よく似合っている」
アリスは再び、眩暈を覚えた。悪い想像ばかりしていた身にこれは予想外、想定外だった。グレイはいきなり何を言い出すのか。止めて欲しい本気で止めて欲しい。いやーっ、グレイが変になったーーーっ。
勿論、変なのはグレイではなくてアリスだ。
「…っそうかしら」
社交辞令社交辞令社交辞令社交辞令。
アリスは冷静になるための呪文を頭の中で唱え続ける。
勿論、社交辞令だ。そして、こういった場合、女の身なりを褒めるのはマナーでもある。グレイはこのワンピースを着たアリスの姿を先程初めて見て、それから後はマナーに沿って服を褒める事ができなかった。そんな状況ではなかった。だから、それをずっと気にしていた。それだけだ。
なのに、アリスの頭には勝手に血が上る。今頃きっと顔は真っ赤だ。耳から血でも吹き出しそうな気さえする。のぼせ上がったアリスはそのまま気すら遠くなったが、ふと、美しい人、アリスの知る中でも最も美しいかも知れない女性の声がその言葉が耳奥に甦って、アリスに涼風を吹きかけた。
『男はこういった服もまた、好ましいと思うものだからな。品のいい、少しの瑕疵もない娘に映るような』
うっとりと微笑み、アリスの試着したワンピースの襟口にかかったレースをそっと撫でたビバルディ。
品のいい、少しの瑕疵もない娘。
アリスには全くそぐわないイメージだけれど。
「あのね。このワンピースはビバルディからのプレゼントなの」
彼女自身が身に纏う見るも鮮やかな紅緋や猩々緋ではなく、「お前にはこちらの方が似合うよ」と用意してくれた柔らかな薔薇色。正直、こんなに綺麗な色は自分には相応しくないとも思ったけれど、アリスに似合うと思う色を彼女が選んでくれた事が嬉しかったから、アリスは素直にそれを受け取った。ビバルディからプレゼントされた服には珍しく、豪華な飾り類がついていなかったというのも理由の一つではあったのだけれど。
「『褒められた』って伝えておくわね?」
本当に似合って見えるのなら嬉しい。きっと彼女は喜んでくれるから。多分彼女は「だから妾が似合うと言うたであろう」と、ビバルディの審美眼を信じなかったアリスを責めるように睨み据える。けれど、すぐに満足そうに微笑むだろう。
恥ずかしそうに、けれど嬉しげに微笑うアリスに、グレイは黙り込んだ。先まで口元に掃かれていた微笑は既に拭ったように消えている。
アリスは氷を呑んだかのように、胃の腑に冷たい物が下りてくるのを感じた。調子に乗り過ぎた。浮かれ過ぎた。アリスが身につけるには、綺麗すぎる色。上品すぎるデザイン。グレイは気を遣ってくれただけなのに。
グレイは何か迷うように、言うべき言葉を探すように、幾度か視線を上下させ、そして口元にその手を添える。
困らせている。
「あの。気にしないで?私には不釣り合いだなって私も思ってたの」
だけど、ほら。服は綺麗でしょう?モデルが私っていうのは何だけど、服単体で鑑賞すると思えば、それはそれとして…。
どうにかその場を取り繕いたくて、取り敢えず喋る。そんな心情も丸わかりのアリスに対して、グレイがまた何事か言いかけた。その時。
どこかで銃声がした。軽いと感じられる発砲音が立て続けに2発、3発。
ボリスの銃の音だった。



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