蒼い鳥 +++ act.18


いずれ幸せになるために
ぼくたちにはその鳥が必要なのです

メーテルリンク「青い鳥」



世界中に己ほど愚かな者はいないとアリスは思った。気分はどろどろでろでろと地を這うナメクジの如きである。誰でもいいから、いっその事ひと思いに引導を渡してくれないだろうか。アリスをざっくりとてんこ盛りの塩で埋めてくれるとか。
この世界に初めて引き込まれた時に落ちた穴など比ではない。アリスは現在進行形で果てなき淵への垂直落下を継続中であったがしかし、アリスの状態などどうあろうと時間は進むし世界は動く。それを証し立てるかのように、一頻り笑った後のボリスは上機嫌となっていた。先程からグレイに威嚇するような態度を見せていた事など既に忘れたかのようだ。
「夢魔さん探すんだろ?俺も協力してあげるよ」
面白いものを見させてもらったから、とその面にでかでかと書かれている。アリスとグレイの返事を待つでもなく、ボリスが彼から最も手近な場所にあった立木を二回叩いた。軽く作った拳で、ドアをノックするといった様子で。ただそれだけで、そこにドアが現出した。森にあるドア。言葉を話すドアだ。
「じゃあ、ちょっと行ってくる。すぐ戻ってくるから、待ってて」
そして、何の気負いも躊躇いもなさげにドアを開くと、そこに消えた。
アレは何だ。一体、何だ。
あまりの事に気まずさも吹っ飛んだ。声の出ない口の開閉を幾度か繰り返し、アリスは唯一答えをくれそうな隣のグレイへと顔を向ける。グレイは居心地悪そうにアリスから微妙に視線を逸らしていたけれど、アリスの訴えかけるような視線を受けて、戸惑ったような顔をした。
「…あれ何?ボリスは何処に消えたの??」
それでようやっとアリスの反応に合点がいったのか、ああ、とグレイは息を吐くついでのように呟いた。
「彼がドアを呼んだんだ。彼はチェシャ猫だからな」
「チェシャ猫だとドアを呼べるの????」
どういう理屈だ。全く理解できないアリスの前、グレイは如何にも当然の事といった様子で頷いた。当たり前だろうと言いたげだったが、それでもアリスが余所者でありこの世界の事象には疎いのだと思い出したのか、更に付け加えるように言った。
「チェシャ猫はドアを使いこなす。ナイトメア様が夢の領域を行き来するように」
チェシャ猫は何処にも存在する。何処にも存在しない。消えるけれど、消えていない。消えていないけれど、消える。
マザーグースみたいだ。
不思議を不思議と思わない、呪文のような子供歌。
この世界ではなくても、例え友人同士であっても互いに知らない事はある。けれど、ボリスに関しては謎が多すぎるとアリスは思う。当人…当猫…の謎々好きはさておき。けれど、彼は自身を謎だなんて少しも思っていない。「俺、普通だから」とはボリスの言。最早、何度聞いたか判らない。職業マフィアでも城に所属してもいないという意味のみにおいては、確かに普通なのかもしれないが。
物思いに耽っていたアリスは、隣のグレイが妙にそわそわしている事に、だから暫く気づかなかった。気まずそうにアリスから目を逸らす。アリスは彼に何かしてしまっただろうか。アリスは最前までの己の言動を振り返る。お父さんネタの方は、相変わらずのアリスが馬鹿な子供であるという姿を晒しただけの話だ。だからもう一つ。それより前にボリスと話していた、ボリスと二人だけだと思っていたから口にできた話の内容は。
アリスは己の頭から、一気に血の気が引くのを感じた。
「多分、ボリスはすぐに戻ってくると思うの。ナイトメアの居場所の情報とか、何か持ってきてくれるかも知れないし、ちょっとの間待っててもいいんじゃないかしら」
早口に捲し立てる。グレイの顔は見なかった。見られなかった。今まで綺麗さっぱり、しでかした事を忘れ去っていた自分が信じられない。親切にしてもらって、庇護されて、迷惑を掛けて、なのにそれを僻んでいる。多分、庭にいたグレイにはアリスのそんな心情の吐露は聞こえていた。聞こえていなければいいなんて、自分に都合のいい夢想をして、勿論、グレイの耳には届いていたのだ。なんて根性の悪い。馬鹿な上に恩知らず、かつ根性まで悪いとは最悪だ。多分、アリスはいよいよグレイに愛想を尽かされた。長く保った方だったと思う。アリスだったら、こんな馬鹿な子供はもっと早く見捨てている。
「あの。…座っていて?私、何か飲み物を取ってくるわね」
アリスは近くのガーデンテーブルを手振りで示した。日が射している間は、木陰のカフェスペースとして利用されているのだろう席だ。グレイの返事は待たなかった。室内に戻れば、小皿の料理も飲み物もある。仕事中のグレイにアルコールは相応しくないだろうから、珈琲かノンアルコールのジュースを。アリスが飲み物を探す間に、ボリスが戻ってきてくれたらいいのにと思った。そうしたら、グレイと二人きりでいなくてすむ。
もう少し冷静でいられるようになるまで、グレイと二人になるのは避けた方がいい。そう、例えば仕事中なら、ナイトメアと3人で仕事をしている時なら、アリスはもう少しまともに、それ程馬鹿な子供ではないように振る舞う事ができる。そしてグレイはこれからだって大人らしく、仕事上のパートナーとしてアリスと接してくれるだろう。勿論、アリス個人とは距離を置かれてしまうだろうけれど、それでようやっとグレイには平穏かつ平静な生活が訪れる。これ以上、アリスがグレイに迷惑を掛ける事もない。
想像しただけで、きりりと胸が痛んだ。その事に驚く。グレイに迷惑を掛けなくなる事が辛いだなんて、アリスは本当に根性が悪い。多分、己は今、相当に混乱している。今は未だ冷静になれない。辛いと思う事を止められない。グレイにどんな顔をしていいのか判らない。作った笑顔で暖かそうな光の差す店内へと逃げ去ろうとしたアリスを、しかし、グレイの手が引き止めた。
グレイがアリスの手を掴んだ。その事にアリスよりもグレイ自身の方が驚いたようで、慌てたようにその手を離し、「すまない」と小さく呟いた。



「飲み物はいいから、少しここにいてくれないか?」









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