蒼い鳥 +++ act.17


いずれ幸せになるために
ぼくたちにはその鳥が必要なのです

メーテルリンク「青い鳥」



何だコレ。どういう事。
何が何だか判らない。グレイは何処から現れた。
クローバーの国は緑の国だ。街中の至る所にある街路樹ではない木また木。森の一部を切り開いて作られたといった風情で、如何にも立派な樹木が茂る。レストランのガーデンテラスもそれは同様で、幾本かの木立が大きく枝を広げテラス席に木陰を作る、そういった造りになっている。しかし、それでもあくまでも、レストランのガーデンだ。見晴らしは良くできているし、立木も鬱蒼と茂らせてはいない。風通しをよくするために枝は適度に落とされているし、隠れる場所など何処にもない。そのはずだ。
なのにグレイは確かに上から降ってきた。そして今は、目の前にいる。
言葉もなく、ぱくぱくと口を開閉させるのみのアリスに、グレイは酷く居心地悪そうにしている。
「……すまない。邪魔をする気はなかったんだが…」
目はうろうろと泳いでいた。



グレイが少し席を外した隙に、ナイトメアが執務室から脱走した。いつもの事だ。いつも、大抵は塔内部で発見される。塔の中を散歩。それ程にクローバーの塔は巨大で、それ故に散歩中の男ひとりを捕捉する事は難しい。けれど、今回は少し様子が違っていた。塔内にエリアマスターの存在を認められない事に、同じ塔に所属する役持ちであるグレイはすぐに気がついた。速やかにナイトメアを連れ戻さなければならない。しかし、大事にはしたくない。部下達には残る仕事の指示を出し、グレイは幾人かの人員だけを連れて、ナイトメアを捜索すべく塔を下りた。
塔から出たナイトメアは、果たして何処へ行ったのか。彼の立ち回りそうな場所に部下達を配置し、網を張って、後にグレイは思い出した。
パーティに出かけたアリスの事を、ナイトメアは頻りに気にしていた。
「だから、君の近くにいれば、ナイトメア様は現れるのではないかと…」
困ったようにすまなそうに語るグレイに、アリスは眩暈を覚える。
何やってんのよナイトメア、とか。言いたい事は多々あれども。
一体グレイはいつからいたのだろう。そして、何処まで見ていたんだろう。ずっと庭にいたのなら、レストランの中にいたアリスの事は見えないし、何も聞こえなかったはずだ。けれど、外に出てからはどうだろう。アリスは何かしただろうか。ボリスと一緒に散歩して、話をして。話。話の内容は聞こえていないだろう。聞こえていないはず。アリスは、体中からどっと冷たい汗が吹き出すのを感じた。もし聞こえていたとしても、塔の人達に悪い事は言っていない。勝手にアリスが僻んでいるという話をしていただけだから。
あうう、と呻いて、突っ伏した。もう消えたい。いっその事、消え去りたい。感情はぐるぐる回ってぐちゃぐちゃになって、何だか泣きたくなってきた。
ドツボに嵌った心境そのままに押しつけた額をぐりぐり擦り付けると、ボリスが「アリス、くすぐったい」と言った。顔を上げると、ボリスの顔。妙に近い。それでようやっとアリスは思い出した。今、己がどのような状態だったのか。
ボリスに抱き寄せられたまま、彼のドレスシャツの胸元を自分から固く握りしめ、頭をボリスの肩口に押しつけていた。慌てて手を離すと、先程までの拘束などなかったかのようにボリスはあっさりとアリスを解放した。勢い、ボリスから不自然に距離を取る。己が今、赤くなっているのか青くなっているのか判らない。グレイの前で、恥ずかしい様を晒してしまった。
「あの、これはその、あのっ」
何か言わなければと口を開いて、けれど言い訳など無意味だと気づく。自覚と理解は別物だと、アリスはグレイの前ではいつも思う。グレイはアリスの交友関係など気にしないと判っているのに、アリスはいつもグレイに何らかの言い訳をしたくなってしまう。
要するに、いつも何らかの言い訳をしたくなるような事をしでかしているという事だ。今回だって、結局アリスはグレイに迷惑を掛けている。アリスの行動がナイトメアを塔から脱走させて、そして、グレイは仕事を置いてもナイトメアを探しに来なければならなくなった。常にグレイに迷惑を掛ける、そしてグレイの前で恥を掻くというのは、これはもう、そういう運命なのか。星回りか?占いや呪術など非科学的なものは一切信じないアリスだけれど、最早呪われているような気にさえなってくる。
パーティに行きたいなんて、思わなければよかった。
アリスは熱くなった顔と熱が上がってせいでなく潤んできた目を隠すように俯いた。対して、ボリスは今回アリスにつき合ってくれただけだ。アリスと違って、心苦しく思うような謂われはない。けれど、種々諸々を目撃されて色々と気まずいのはアリスと同様であるはずなのだが、ボリスはそのような事を気にした風もない。
「どうでもいいけど。いや、よくないけど」
アリスとは対照的に不貞不貞しい態度で、ボリスはねちねちと言い出した。
「あんたら主従って、何だかんだ言っていっつもアリスにへばり付いてんのな。何なの?ストーカー?」
聞き捨てならない一言だった。その一言故に、アリスは瞬発的に復活した。
「ちょっと。誰がペーターなのよ」
一緒にしないでよ失礼ね!とぷんすか怒ったのはアリスだった。ハートの城の宰相は、既にアリスの中ではストーカーの代名詞だ。そして、彼との付き合いが長くなればなる程、ストーカーというものの生態については詳しくなる。アリスは既に専門家であると言っていい。
うっかり出会ったら、タックルをかます勢いで飛びついて、力任せにアリスをぎゅうぎゅうと締め上げる。「好きです愛しています」と誰に聞かせる気もない、聞く事を期待してもいない大きな独り言。「好きです愛しています」と何度となく言いながら、彼の前では常にアリスは不在だ。実際、アリスの代わりに人形を置いておいても彼は全く気にせず、愛を語るのではないかと思う。他者不在。完全な自分の世界。ストーカーとはああいうものだ。
異様に具体的かつ臨場感溢れるストーカー論を蕩々とぶったアリスは、「つまり」と厳かな様子で告げた。
「ナイトメアのアレは、ただの覗き趣味よ」
結論を述べた後、アリスは口を閉ざした。ボリスは圧倒されたように黙り込んだ。勿論、グレイも先程から同様、黙り込んでいる。いつの間にか『あんたら=ナイトメアとグレイ』から『ナイトメア単体』に主語がすり替わっていたが、誰も突っ込みはしなかった。
奇妙な沈黙が下りた。
「………お城の宰相さんも凄いけど、アリスもある意味、凄いよね…」
取り敢えず今だけは、猫と蜥蜴の心はひとつのようだった。



「………まぁ、アリスがいいってんなら、いいけどさー…」
胡乱げな様子で、ボリスはアリスをじろじろ見た。正確には、グレイを背に庇ったアリスとアリスに庇われた現状をどのように理解すればいいのか判らないといった風情のグレイを。
「でも、どうすんの?これからずっと蜥蜴さん、ここにいるつもり?」
それは勘弁してほしいな、と言いたいのが丸分かりの様子で、ボリスは言った。
「ちょっとボリス」
失礼でしょう、とアリスはたしなめるように言う。しかし、グレイはボリスの言を気にした風もなかった。
「いや。俺がいたら、ナイトメア様は姿を現さない」
言い様、グレイは先程降ってきた木に手を伸ばす。
「え。ちょっと待って。グレイ、何処に行くの」
「『何処に』と言われても…」
「いえ。言わなくてもいいわ。ごめんなさい」
グレイが当の木を見上げた。それだけで充分だった。
「君達は普通にしていてくれ。俺の事は気にせず」
「無理」
間髪入れずにアリスは返した。どうすれば気にせずいられるというのか。けれど、ボリスはアリスの肩に手を掛け、グレイの側から己の方へと引き寄せた。
「いいじゃん。さあ、アリス。続き続き」
「無理だって言ってんでしょ」
にこにこ笑ったボリスの手を、己の肩からはね除ける。そもそも『続き』ってなんだ。誤解を招くような真似はしないでほしい。ボリスは友人で、アリスにとっては親友といっていい程大切な存在ではあったけれど。
アリスは目を眇めて、じっとりとボリスを見遣る。
「あんた、さっきからグレイに対して妙に感じ悪いわよね。お父さん設定はどうしたのよ」
当のボリスが始めたお遊びだったのに、先程からのボリスの態度は、『ガールフレンド』の『父親』に見せるべきものではない。もう少し礼儀正しく接してくれてもいいのにと思う。アリスの友人として、きちんと紹介できるように。しかし、アリスは忘れていた。
「…『お父さん』?」
この場には、当の片割れであるグレイがいる事を。
藪を突いて蛇を出す。これを称して藪蛇と言う。絶対内緒にしたかったのに、アリス自身で言ってしまった。冷や汗を通り越して、アリスは脂汗を掻いていた。しかし、これ以上傷口を広げたくない。ボリスが話に乗っかって面白可笑しく展開させてしまう前に、せめて誤解の少ない方向に持って行くべきだ。アリスは説明を試みる。できるだけ軽く、なんて事のない話だと聞こえよう願って。
「あ。あのね。私、今、クローバーの塔でお世話になっているでしょう?だから、塔の人は私の保護者みたいなもので、でもナイトメアは全くそんな感じじゃないから、グレイがそうなんじゃないかって。役みたいなもので」
我ながら支離滅裂だと思った。流石にこれでは判らないだろう。しかも何だ、『保護者』って。まるでアリスが引率の必要な子供みたいだ。その上、アリスはつい最前までボリスが礼儀正しくしてくれたらいいのになんて思っていた。その事の意味に今更のように気づいて、強烈に恥ずかしくなった。いつの間にか、お父さんごっこに巻き込まれている。その気になっている。流されている。
本当に、自覚と理解は別物だ。アリスはグレイの前ではいつも思う。アリスはグレイの前ではいつもいつも間違える。
ボリスのごっこ遊びはあくまでも遊び、言葉遊びのようなものであり、ボリスとグレイは同等の役持ち同士だ。彼等はアリスの友人だったけれど、彼等同士は別に友人ではない。今現在、敵対はしていないようだが、味方でもない。馴れ合わない。隙は見せない。ボリスはその点、とても冷静だ。冷静じゃないのは、アリスだ。状況が見えていない。遊びの引き際が見えていない。なんて馬鹿なんだろう。
頭に血の上ったアリスは、馬鹿みたいな話だと笑い飛ばしたくて、冗談めかして更に言った。
「可笑しいわよね、私くらいの年齢の子供だなんて。グレイが13、4才くらいの時の子供って事になっちゃうじゃない?」
その時、その場で言ってはならない一言というのは、常に存在する。その時、その場に相応しい言葉を選ぶのは、淑女として大切な、基本技能のようなものだ。だから、アリスは淑女にはなれない。
グレイは何か飲み込み難い物を無理に飲み込んだような、そんな顔をしていた。ボリスは腹を抱えて、けらけら笑い出した。
「蜥蜴さん、身に覚えありまくりってヤツ?!すっげー!」
その場で転がりまくりそうな勢いだった。グレイを指差し爆笑するボリスの手を、アリスは思うさま引っぱたき落とした。
アリスはまたしても失敗した。



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