蒼い鳥 +++ act.16


いずれ幸せになるために
ぼくたちにはその鳥が必要なのです

メーテルリンク「青い鳥」



料理人は快く味付けを教えてくれた。細かくメモを取るべくバッグから愛用の手帳を取り出したら、ボリスはいよいよ呆れ返ったけれど、アリスは一切気にしない。一通りのレシピを手に入れて、情報を整理して、満足感に満たされたら、他のパーティ参加者に話しかける余裕さえ生まれる。こんばんわ。初めまして。パーティを楽しんでいる?ええ、勿論。挨拶を交わし、どうという事もない話に興じ、それですぐに見知った顔の知り合いとなる。
元々の知り合いとはまた、ほんの少し深いおしゃべり。花屋の青年が何だか悲しそうに見えたのだけが、アリスには気掛かりだったのだけれど。
「待たせちゃってごめんなさい」
アリスがボリスの元に戻ったのは、また暫くしてからの事だった。この世界では時間の感覚は酷く曖昧だから、正確な長さなど測れない。ただ、元来人と交わる事があまり得意ではないアリスが、少し過ごしてしまったと思う程度の時間。
アリスが皆と話す間、ボリスは適当に会場内をぶらついている、と手を挙げてアリスを見送った。そこまでボリスをつき合わせるのは忍びなかったから、アリスとしてもボリスのこの反応はありがたかった。何しろ、アリスは己の好きな事のために動いていたけれど、ボリスには興味も薄い物事だったはずで、興味のない事にただつき合わされるのは、気も疲れる。女の買い物に同行させられた男性諸氏のようなものだ。
「もういいの?」
幸い、ボリスは退屈していたという事もなかったらしい。ボリスが手にした料理の皿に目を留め、アリスはほっと息を吐いた。ボリスはひとりでもひとりでなくても、いつでも何処でも楽しみを見つけ出せると知っていたけれど。
「ええ。パートナーと過ごす時間も必要だものね」
悪戯っぽく笑って、片目を瞑る。
おしゃべり、ダンス、甘いお酒。時にはこんなのもいい。気分が華やぐ。けれど、華やかな空気もずっと続くと、いてはならない場所にいるような気にもなってくる。アリスはそもそも、社交向きではない。元来、地味な人間なのだ。
ボリスを誘って下りたガーデンテラスは、店内の明かりが洩れてはいるが仄暗い。ガラス戸をひとつ隔てただけでまるで全く別の場所に来たかのようだ。パーティのさんざめきからも隔てられて、そこにあるのはただ静かな夜の湿った空気。
アリスは、世界を満たす空気を一杯に吸い込んだ。振り返れば、ボリスはそこにいる。ボリスは常にそこにいてくれる。ふわりと何処か酩酊したような気分だった。そんなにアルコールが入っている訳でもないのに。
ボリスが微笑む。「よかった」と。「アリス、楽しそうだ」とそう言って。そう。楽しい。何処か遠い人々の楽しげな気配も、夜の静寂も、隣にボリスがいる事も。全てが楽しい。好ましい。
そう言ったら、ボリスはますます嬉しそうに笑った。
「最近のアリス、ずっと気を張ってただろう?」
だから心配してた、とボリスが続けた。心当たりはある。あったけれど、ボリスに心配を掛けてしまっていた事には気づいていなかった。反省しつつ、アリスは小首を傾げる。
「そんな風に見えた?」
質問に質問で返すのは、ルール違反だ。けれど。
「見えた」
ボリスはあっさりと頷いた。
「クローバーの塔は居心地悪い?森に移ってきたっていいんだぜ?…ピアスだっているし」
最後の一言は、本当に付け足しといった様子だった。
今のようにたまにではなく、二人のために料理を作って、不思議が溢れる森で猫とネズミと、3人で暮らす。まるで童話のような情景だ。アリスは笑って、それでも首を横に振る。
「居心地悪いなんて、そんな事ないわ。…別に、虐められてる訳じゃないわよ?」
『灰被り』だとでも思われているとしたら、とんでもない。塔の皆はあんなにいい人達ばかりなのに。冗談めかして言った言葉に、ボリスもまたあっさりと頷く。
「そんなの判ってるよ。あんたの事虐めたりしたら、タダじゃ置かない」
猫の瞳孔が細く縮む。獲物を狩る、金色の獣の目。
ボリスは本気だ。アリスは慌てた。
「本当に虐められてないからね?!みんな、親切にしてくれるし!」
「だけど、アリスは寂しいんだろう?」
虚を突かれた。ボリスはあくまでも、判っているといった風にアリスを見ている。そしてアリスはそれを、そんな事はない、と一笑に付す事ができない。そんなタイミングは外してしまって、今更のように笑って見せても、もう誤魔化しているようにしか見えない。まさに今、この時のように。
アリスは笑みを消して俯いた。
「…それは、私が我が儘だからよ。いつまでも子供だし」
根暗だし、とはいつも言っている言葉だ。
確かにアリスは寂しい。寂しくてたまらない。だけど、それは塔の人々のせいなんかじゃない。アリスのせいだ。アリスが根暗で我が儘で欲張りな子供だから、彼等の親切を寂しいと感じる。
クローバーの塔の人達は皆、とても優しい。彼等はアリスにただ親切にしてくれる。アリスに何も求めずに。ただ、アリスが優しくしてあげなければいけない子供だから優しくしてくれるのだ。
アリスは身の程知らずにも、その事を寂しいと感じる。全部事実なのに。本当に子供のくせに。
彼等の親切に甘えるだけのお荷物の居候。それがアリス。
だからせめて、彼等の役に立ちたいと思った。ほんの少しでもいい。ここにいてもいいのだと思いたい。
アリスは大人になりたい。彼等に優しくしてあげなければ、親切に接してあげなければと思われないくらいの大人になりたい。彼等に甘やかされないくらいの大人になりたい。
「アリスは甘やかされるのは嫌いなの?」
ボリスが心底不思議そうに言うのに、アリスはただ「ええ」と一言だけを返す。ボリスの目は見ないで、ただ前だけを、暗く沈む庭だけを見つめて。
多分、彼には理解できないだろう。甘やかされたら、アリスは折れる。弱い人間だから、あっという間にそれに寄り掛かって、堕落する。それだけは嫌だ。自分で自分が許せない。
ふうん、とボリスが気のない様子で鼻を鳴らした。
「俺は、甘やかされるのは好きだけどな」
こちらから頼んだ訳でもないのに甘やかしてくれるというのなら、存分に甘えればいいのに。そもそも、そういう人間は、相手に甘えて欲しいから甘やかしているのだから、そうすれば互いに気持ちいい。ギブアンドテイクってやつだろう?
楽天的で享楽的。アリスには決して許容できないものの考え方。
「…ボリスは猫だものね」
気に入らなければ、するりと逃げる。後は振り返りもしない。気紛れで冷淡な猫。
「そう。強いとか弱いとかじゃないよ。猫ってそういう生き物なんだ」
ボリスは強いけれど、アリスは弱い。戦闘能力のあるなしに根差して、ボリスはよくそう評する。けれど、今回はそれとは関係がないと彼は言う。猫は独りでも平気だけれど、それは強いからじゃない。アリスが人に甘えたくないのは、己が弱いからだとアリスは自覚しているけれど。
「アリスは猫じゃないよね。だけど、俺はアリスの事が好きだよ」
猫じゃないから、色々な事に囚われる。多分、ボリスにとってはなんという事もない、あっさりと捨ててしまえるような些細な事柄に。
それでも、ボリスはアリスを否定しない。こんな時、アリスを『弱い』とではなくて『猫じゃない』と称して、アリスの意見に、ふうん、と気のない風に言って、それでも隣にいてくれる。
「私もよ」
アリスは微笑む。ボリスといると、アリスは自然に微笑む事ができる。
「ボリスは根暗な子供じゃないけど、私はボリスの事が好きだわ」
アリスにとっては大切な、決して捨てられない大切なものを簡単に捨てる事ができるボリスだけれど、それはボリスがアリスではないからだ。全く違う生き物だからだ。
ボリスにはアリスのありようは理解できない。アリスがボリスを理解できないのと同じように。けれど、それが何だというのだろう。アリスにとって、ボリスは大切な友達だ。
ボリスの差し出す手を握る。ボリスは双子やピアスとは違うから、いつものアリスだったら自分からこんな事はしたりしない。けれど、今ここにはボリスとアリス二人だけしかいない。ガラス戸をひとつ隔てただけで、パーティのさんざめきからも遠く離れて、そこにあるのはただ静かな夜の湿った空気。夜の風の中にボリスと二人、何を話すでもなくただ共にいるのは心地よかった。けれど。
その時、ボリスがアリスの手を引いた。咄嗟に反応できず、アリスはボリスの腕の中に落ちる。何が起こったのか判らない。目を白黒させるアリスを尻目に、ボリスは庭へと顔を向ける。
「いい加減、出てきたら?折角、アリスと二人きりなのに、出歯亀されるのは気分悪いんだけど」
冷たい声だった。アリスと一緒にいて、ボリスがこんな風に言葉を発した事など一度もない。ボリスに拘束されるように抱き留められて、それでも硬直したアリスはそれを振り払う事もしない、できない。
ボリスの言葉に呼応するように、何かが木立の上から降ってきた。不思議な程に音も立てずに地に降り立つ。それこそ、猫のように。ただ、夜闇に溶け込むような黒いコートの裾が翻る。口をばっかりと開けたアリスの前に現れたのは、現在、アリスの居候先の塔で仕事の真っ最中であるはずの男。『蜥蜴』と呼ばれるグレイ=リングマークその人だった。



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