蒼い鳥 +++ act.15


いずれ幸せになるために
ぼくたちにはその鳥が必要なのです

メーテルリンク「青い鳥」



パーティは夜と相場が決まっている。
次に夜の時間帯に入ったら、指定のレストラン…ウェイターが参加者の一人になっていた…に集まるという取り決め。花屋でお誘いを受けて後、やっぱり参加者の一人になっていた雑貨屋の女の子に、どんな集まりなのか訊いてみた。美味しい料理と飲み物とこぢんまりとしたダンススペース。ドレスコードは特にないけれど、女の子はみんな、ちょっとだけお洒落をする。
アリスは、給金で買った小さなイヤリングを耳に付ける。いつもの水色のものより少しクラシカルな淡い薔薇色のワンピース。そして、髪には天鵞絨のリボン。「可愛いね」とマゼンダの猫が目を細めた。
「あなたも素敵」とアリスも微笑む。定番かつお約束の遣り取り。けれど、重要な遣り取りだ。ボリスは会合の時と同じ黒のスーツ姿だった。マゼンダではなく、黒のファーを肩にかけて、けれどその姿もまたボリスらしい。
今は夜。約束の時間になって、ボリスはアリスを迎えに来た。アリスの部屋の扉を紳士的にノックしたボリスに、いらっしゃい、とにこやかに応対。マナーに倣って互いの姿を褒め合って、これから二人連れ立ってパーティへと出かけていくところ。
「蜥蜴さんは?」
「仕事中よ」
グレイは今、とても忙しい。アリスが休憩時間に出かける事も心苦しく思ってしまうくらい。休憩に入る前、「これから出かけるから」と声はかけた時も、「楽しんできてくれ」と返してくれはしたけれど。後ろ髪を引かれる思いに溜息を吐くアリスに反して、ボリスはいかにも楽しそうに目を細める。獲物を狙う猫そのものの細まった瞳孔。
「なーんだ。挨拶してから行こうかなーと思ってたのに」
「いや、だからグレイは私のお父さんじゃないから」
つくづく、この猫は何かを勘違いしている。
いや、違うのか。
アリスは思う。
今のボリスは、アリスをエスコートして共にパーティへと出かけていく、アリスのボーイフレンド。そういった役どころである。だから、父親役のグレイに娘のアリスを連れ出す許可を得る、そういったシチュエーションを想定し、楽しんでいる。ごっこ遊びだ。
「…そういうの、止めてちょうだい」
目が血走りそうなくらい、本気だ。だけど、ボリスに通じた様子もない。えー、と唇を尖らせ、不満の声を上げる。
ボリスにとっては、ほんのお遊びなのだろう。けれど、本気で止めて欲しい。アリスはグレイの前でこれ以上の恥を掻きたくない。グレイを子供っぽい遊びに巻き込むなんて、あり得ない。頭を掻きむしって喚き出したくなるくらい、しゃにむに何処へなりとも逃走したくなるくらいの悪夢だ。今だってアリスはグレイに馬鹿な子供だと思われているだろうに。どうかお願い、これ以上は、と伏してすむならアリスは幾らだってそうする。
だけど、気紛れなこの猫は、時に子供のように無邪気に状況を楽しむ。周囲の、アリスの思惑など歯牙にもかけず。時折忘れかけるが、帽子屋屋敷の双子は元々ボリスの友人であったのだ。双子同様、ボリスだって真っ当とは言い難い。
だからアリスにできるのは、彼がグレイの執務室に押しかけてしまわないうちに、彼の背中を押して部屋を出て、速やかに目的地へと向かう事だけなのだ。



こんばんわ。いい夜ね。
レストランにはもう皆が集まっていた。入店したアリスとボリスに顔を向け、口々に歓迎の言葉を乗せる。
こんばんわ。お招きありがとう。
明かりの灯った店内は暖かで、家庭的な雰囲気が心地よい。ボリスの腕に手を預けたまま、アリスもごく自然に微笑みを返す。美味しい料理と飲み物とこぢんまりとしたダンススペース。見知った者同士の気安い空気。来て良かったと素直に思う。グレイもナイトメアも今は仕事中なのだと判ってはいたけれど。
「これ、美味しいわ」
ウェルカムドリンクとして出されたシードルのグラスを手に、アリスが直行したのは料理の置かれたテーブルだった。アリス自身、これまで入店した事はなかったけれど、地元の人々がパーティ会場として選ぶレストランだ。料理はかなり期待できるはずと踏んだが、大当たりだ。
「調味料は何を使ってるのかしら」
小皿を摘みながら、アリスは己の舌に全神経を集中させる。甘辛くてコクがあるのに、しつこくはない。オニオンベースに風味付けの香辛料。多分、幾つかの調味料を組み合わせて使っている。
「あんたって、こんな場所でも勉強してるんだね」
真剣に味を吟味するアリスに、呆れた風にボリスが笑う。
「性分なのよ」
返すアリスは、それでも神経の大部分は料理へと向けたままだ。菓子作りと違って、料理はこの世界に来てから始めたに等しいアリスには、手持ちのレシピはそう多くない。料理の幅、レパートリーを広げる機会を逃したくはない。上手く味を盗めたら、今度作る料理に生かして、そして自分の味の中に組み入れたい。酒のつまみ用でもある小皿は少し味付けが濃いけれど、応用する手立ては幾らでもある。
「…うーん。料理人に聞いたら、隠し味が何なのか教えてくれるかな」
店の秘伝などでなければ、教えてもらえるかもしれない。独りごち、アリスはそこで気づいた。思い出した、といった方が正確だったかもしれない。
「あ、ごめん。ボリスには退屈だったわよね」
パートナーをほったらかし。誘ったのはアリスの方だというのに、だ。恐縮するアリスの前で、けれどボリスは軽く肩を竦める。気にしていないというように。
「いいよ。今日は俺、あんたのエスコートだから。あんた、楽しそうだもん」
その言葉を受けて、アリスはにっこりと、正しく言うならにったりと笑う。実はとても楽しい。だから、許しが得られたのを幸いに、更に料理の皿を摘んでみたいと思っている。そう、できれば全ての皿を。
「………あんたって本当に…」
言質を取られたボリスはいよいよ呆れ返った顔をしたが、しかしそこで言葉を切った。ふと彼にしか見えない中空に何かを見つけた風な視線を投げ、耳をひょこりと動かし、何かの匂いを嗅ぎ付けた様子でくすんと鼻を鳴らす。こういったところが妙に猫っぽい、と感心しつつ見つめるアリスに、ボリスはついと片目を眇める。ほんの少しの逡巡。アリスに言おうかどうしようかと迷うような。ボリスは常に迷わない。だからこそ、その反応はとても珍しい。今度は完全なる興味を持って見るアリスに対して、ボリスは軽く顎をしゃくって見せた。
「さっきから、ずっとこっちを見てるヤツいるけど。あんたの知り合い?」
そんな事でボリスは迷ったりしない。だから、これはボリスを迷わせたのとは別の話だ。そして、今はもうボリスに迷いの色はない。アリスには話さないと決めたのだ。
釈然としないものを感じたけれど、こちらを見ている人がいる、というのもまた、気になる話ではあったので、アリスはボリスの示した方を見遣る。ホールの向こう側にいたのは一人の青年。顔なしである彼等の顔は見え難いけれど、注意深く観察すれば徐々に見えてくる。花屋の店員だった。いつもと違う服装だから、すぐに気づかなかったのだ。
「ああ。私をこのパーティに招待してくれた人なの。まだ挨拶してなかったわ」
ちょっと行ってくるから、と足を向けかける。引かれた腕に歩を止められ、振り返るとアリスを引き戻そうとするボリスと目が合った。戸惑いと疑問を素直にその面に乗せたアリスに、ボリスはにっこりと笑う。最前のアリスのような、腹に何かを隠したような笑みではない。全く邪気のない、心底楽しそうな笑顔で。
「そんなの後で大丈夫だよ」
いいや、大丈夫じゃない。この猫は、時折全く根拠もない事を堂々と言い放つ。反論しかけ、開きかけたアリスの口が、しかしその時、ぱっかりと開きっぱなしになった。
ボリスは妙に機嫌良さげに、アリスの手を取りその指先に口付けた。というより、舐め上げた。指を辿る猫の舌はざらついて、アリスの薄い肌には痛くさえある。濡れたその感触は酷くリアルで、触覚、感覚ばかりが鋭敏になるのに反比例して、頭の中は真っ白になる。
「あ、ああああああ、あんたは、な何何何何を」
思いも寄らない彼の行動にアリスが硬直する前でボリスが流したその視線の色っぽさ。つられるようにしてアリスが追った視線の先では、花屋の青年が顔を背け、俯いていた。
何が何だか判らない。目をぱちくりさせるアリスに対して、その意識を己に向けさせようとするようにボリスは握ったままのアリスの手を引き、そして振る。
「アリス、料理人に聞きたい事があるんだろ?」
そこでアリスはボリスを見返した。
先程までの奇妙な色など何処にもない。アリスの手を握る仕草さえ、友人、それも子供のような友愛を感じさせるものでしかない。アリスのよく知るいつものボリスだ。
気紛れな猫が気を変えた。先刻のものは多分、ボリスの遊びのひとつだったのだろう。
「ああ、うん」
どこかぽかんとした気分のままだけれど、聞きたい事があるのは本当なので、素直に頷く。握られたままの手も気にならない。いつもの事だ。ボリスはこういったスキンシップが大好きで、事ある毎にアリスに触れたがる。どちらかといえば、スキンシップは苦手なアリスも既に慣れた。舐められる…心情的な意味ではなく文字通りなのがボリスの凄いところだ…より余程マシといえる。
手を繋いでボリスと共に料理人を探しに行く間に、隠し味の調味料の事でアリスの頭は一杯になってしまったから、だからアリスの耳には届かなかった。あんなのにあんたをあげるつもりはないからね、とのボリスのささやかな呟きは。



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