蒼い鳥 +++ act.14


いずれ幸せになるために
ぼくたちにはその鳥が必要なのです

メーテルリンク「青い鳥」



「水臭い。水臭いぞ、アリスー」
執務室に戻るなり、重厚な造りの執務机にだるだると懐いたナイトメアがしんねりとした様子でアリスを睨め付け、そう言った。
「何故、私を誘わないんだ。エスコートなんて、私がいくらでもしてやるのに」
「………何で知ってるのよ………」
未だ時間帯が移ってすらいない。ボリスと別れたのはつい先程の事だ。簡易キッチンがアリスの領土となってしまったと知ってから、アリスはキッチンで人と会うのはできるだけ控えるようにしている。少なくとも、自分から人をキッチンへと招いたりはしない。彼等は気にした様子もなく、変わらずアリスの料理を食べに来てくれるから、状況が変わったとはあまり言えないが、アリスが自身で彼等を当の領土に引き込むのはフェアではない気がするのだ。何しろ、あのキッチンでは彼等はアリスに逆らえない事になっているのだから、アリスとしては気が咎めて仕方がない。双子にグレイへの嫌がらせを止めさせる時、止めると誓わせた時など、必要に応じてちゃっかり利用はしているのだから、アリスに公平不公平を語る権利などなかったかもしれないが。
治外法権地区であり、中が見え難いというアリスのキッチンの外、談話室で話していたせいだろうか。エリアマスターの力でもって察したのか。それとも、心を読んだのか。どちらにせよ、ナイトメアはアリスがボリスと出かける約束をした事を既に知っているようだった。
始めから秘密にするつもりはなかった。ちゃんと報告するつもりだった。けれど、だからといって全てが許容される訳ではない。守秘義務というものがある。職務上知ることのできた秘密については、というヤツだ。秘密という程のものではなかったけれど。ナイトメアがナイトメアだからこそ知り得た情報については、口を噤んでいるくらいの心遣いがあってもいいはずだ。これではプライバシーの侵害だ。目を眇めて、アリスはこのピーピングトムを見遣る。
あんたは仕事サボりたいだけでしょう、とうんと冷たく辛辣に言ってやりたかった。言ってやりたかったが、なんとナイトメアは完全に本気だ。本心からアリスのエスコート役を買って出ようとしている。顔に全部出ている。丸わかりだ。
アリスは深々とした溜息を吐く。怒るのも馬鹿馬鹿しくなってくる。
「…あなた、本っ当に、自分が権力者だっていう自覚がないわよね…」
私は偉いんだ、と始終、自身で喚いているにも拘わらず、である。
ナイトメアは現在、この国の最高権力者だ。アリスの元いた世界でいうなれば、国王のようなものだ。気の置けない友人同士のガジュアルパーティに、国王のエスコートでもって現れる。一体何様だ。パーティの雰囲気をぶち壊しにする事や、警護役として駆り出される塔職員達の気苦労や、ただでさえ多忙なグレイに同道させて、更に彼の仕事を多忙にさせる事や、そんな諸々はアリスには容易に想像できた。そして最終的に、吐血して倒れたナイトメアをグレイが背負って帰宅する。全くもって鮮明かつリアルなイメージだった。そのイメージはナイトメアにも読み取れたのだろう、彼が鼻白み黙り込む。否定できるものならしてみるといい。アリスが真っ直ぐに見据えると、ナイトメアは目を逸らす。流石に自覚があるらしい。
それを現実にする事など、アリスにはできない。もっというなら、真っ平ごめんである。
「ア、アリス。それはあんまり冷たいぞ。私だって、私だってなぁ…」
「他の誰に頼んでも、あんたにだけは、エスコートなんて頼まないわ」
がーん、と背後に書き文字まで見えそうな程、ナイトメアはショックを受けていた。
「う。非道い…」
ごほごほと咳き込む。空咳ではない。喉奥に絡むものがある。嫌な絡み具合だ。眉根を寄せて、ナイトメアを見遣る。今度は確かな気がかりを滲ませて。

人の集まる場所になんて誘えない。明らかに呼吸器に悪いと判っている場所になんか。

アリスの目の前で身を二つに折って噎せ返る現在の彼には、アリスの心を読むような余裕はない。だからこそ、アリスは素直にナイトメアを心配する事ができる。今だけは。
「…白湯を持ってくるわ」
少し喉を湿らせれば楽になる。アリスがナイトメアから目を逸らしたその時、横からコーヒーカップが差し出された。黒いコートの袖口から覗く大きな手の中では、カップはひどく小さくさえ映る。
「…グレイ…」
「薬湯だ。…白湯の方がよかっただろうか」
「そんな事ないわ。すぐに出せるものをと思っただけ」
ありがとう、と呟いて、グレイの手から碗を受け取った。薬草を煮出したお茶は、少し鼻につく臭みはあるにせよ、その匂いほどは口に苦くない。ナイトメアに渡して、嫌々ながらも彼がそれを口に運ぶのを見守る。何故だか、奇妙に居心地が悪い。
「…二人に揃って見られてる私も居心地が悪いぞ」
「だから、心を読むの止めてよ」
「聞こえてしまうんだ」
ぼそぼそと囁き合いながら、反面、ナイトメアが心を読める程に回復した事に安堵する。それは本当の意味での回復ではなかったけれど、今はもう苦しんでいないという事だ。
ナイトメアの言うように、グレイもまた碗をアリスへと差し出した後、その場に留まっている。今はアリスと二人、執務机を挟んでナイトメアと対峙中とでもいった風情。
前回、書庫での遣り取りがあって以来、アリスはグレイが傍らにいると妙に緊張する。どのように振る舞えばいいのか判らない。
他の友人達の前でなら、アリスはもっと自由に、自分らしく振る舞える。いつも通り。簡単な事だ。なのにグレイの前ではその『いつも通り』ができない。もっとしっかりした落ち着いた態度でいたいのに、アリスはグレイの前ではいつも途方に暮れたような気持ちになる。せめて仕事を手伝いたいと、少しくらいは役に立ちたいと思うのに、それさえも叶わない。それはアリスが未熟だからで、仕方のない事だけれど。
アリスはともすれば落ちそうになる己の頭を意識的に持ち上げる。俯くのは嫌だ。グレイの前では、せめて面くらいはしっかりもたげていたい。
隣に立つ彼の存在に圧迫感を感じるなんて、おかしな話だ。もっと言うなら、自意識過剰だ。彼を意識している事自体がおかしい。けれど、グレイに目線を向けるのも躊躇われて、そんな自分が何やら気恥ずかしくて、結果、アリスは目の前のナイトメアばかりを不自然に凝視している。
馬鹿みたいだ。
「…あの。……ごめんなさい。煩かったわよ、ね」
ナイトメアが、とは言外に滲ませる意だ。それを正しく酌み取って、煩いとはなんだ、とナイトメアが不平を言い立てたが、その言葉はただ音の羅列としてアリスの耳を素通りする。通常通り、ナイトメアの執務室で自分の机に向かっていた彼の手を止めさせてしまった。
更には恐らく、ナイトメアの手にある椀を下げるために席に戻らずいるのだろう彼に、カップの片付けは私がやるから、と言いかけた。言おうと思って口を開いた。仕事の邪魔をした事を詫びて、それで早く席に戻ってほしいと思った。これ以上邪魔をしたくない。横に立っていないでほしい。変に意識している事を気づかれたくない。
目の前では、ナイトメアが如何にも面白そうなにやにや笑いで、わざとらしく薬湯をちびちびと啜る。アリスは何も言わぬまま口を閉じ、影で拳を固く握りしめた。だから、アリスよりも先にグレイが口を開いた。
「いや。そんな事はない。…どこかに出かける予定があるのか?」
一瞬、言われた意味が判らなかった。けれど、すぐに了解する。アリスとナイトメアの最前の遣り取りだ。あんなに大騒ぎしていたら、誰だって気になる。その上、業務時間中、仕事場に入るなり話し出して。
顔が火照った。きっと今、アリスの頬は真っ赤に染まっている。
「ううう。非道い。聞き耳を立てていたのは、グレイだって同じなのに。扱いが違いすぎる…」
『聞き耳を立てていた』だなんて、失礼な。グレイはただ、気になっただけだろう。二人が煩かったから。ナイトメアとアリスが、二人だけで判っているような会話を展開していたから。
何の話だか判らなければ、誰だって気になる。
贔屓だーとナイトメアが叫き立てた。勿論、それはアリスの耳を擦り抜けた。
「ええ、そうなの。私、今度ちょっと外に出る事になったの。それで…」
休憩時間を利用して、なのよ?と、訊かれる前に口にする。業務に支障は来さない。これはきちんと伝えておかなければならない点だ。
他に伝えておかなければならない事は何だ。
「お友達のパーティに誘われたの。それで…」
これは伝達事項のプライオリティとしては相当に下位だ。勿論、グレイにも興味などないだろう。アリスの交友関係がどうあろうと、彼に関わりはない。こんな事、話されても困るだけだ。
他に言うべき言葉が見つからなくて、口籠もる。
「……そうか…」
それでも、グレイは親切だ。論旨が定まらないアリスの話は如何にも拙いのに、こんな事を話されて困惑しているだろうに、辛抱強く話を聞いてくれる。相槌を打ってくれる。アリスは俯く。多分もう、耳まで赤い。本格的に恥ずかしくなってきた。
ボリスが変な事を言うからだ。だから、本当に親から外出許可を取っているかのような気がしてきてしまった。グレイから了承を得なければならないかのような気がしてしまった。アリスは大人ではないけれど、自分のする事に責任を持てない程の子供でもない。そもそも、グレイはアリスの保護者ではない。
アリスはグレイの傍にいると心底、自分を馬鹿な子供だと思う。馬鹿な子供そのもののような行動を取ってしまう。いつもいつもぐだぐだで、いっそのこと、マゾの気でもあればよかったのに、といよいよ埒の明かない事まで考える。そうであったら、多分、この状況だってもうちょっとくらい耐えられる。恥ずかしい。恥ずかしい。上手に振る舞えない自分が、馬鹿な子供である自分が。

「ええ、そうなの。ボリスが同行してくれる事になって、それでナイトメアが…」

「……………………そうか…」

アリスの前、不作法にもコーヒーカップを咥えたナイトメアが、この朴念仁め、と呟いた。アリスには何の事だか、全く判らなかったのだけれど。



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