蒼い鳥 +++ act.11


いずれ幸せになるために
ぼくたちにはその鳥が必要なのです

メーテルリンク「青い鳥」



アリスは書類を手に一人、廊下を歩いていた。処理済のものを書庫へと片付けるのだ。付けられたタグに従ってフォルダ毎に管理する。その整理も最近はアリスの仕事の一部だ。
鬱々と考えながら、アリスは歩む。脳裏を支配しているのは、夢の中でナイトメアに言われた事。
グレイが双子から嫌がらせを受けている。自身で確認した情報ではなかったけれど、ナイトメアはこういう類の嘘はつかない。そして何より、双子ならやりかねない。
アリスは重く深い溜息を吐いた。鬱々と考えながらでも、アリスの足取りは揺るぎない。ナイトメアの執務室から書庫までは、既に考え事をしながらでも辿り着ける道程だ。つまりは塔内の順路に慣れきってしまう程、アリスはこの塔で仕事をしてきたという事だ。そして、同程度にはグレイと共に時を過ごしたという事になる。
グレイは大人で、アリスのような者も気に掛けてくれるとてもいい人だ。けれど、そのせいで酷い目に遭っている。遭わされている。アリスのせいで。
申し訳ない。申し訳なさ過ぎる。
申し訳なさ過ぎて、鬱になる。ネガティブ思考はスパイラルに落ちこむと容易には浮上できない。ああ、何故己はこんなにもどうしようもない人間なのか。大して役にも立たないくせに、迷惑ばかり掛けている。
そして、今現在では申し訳ない事は更に増えた。
クローバーの塔はナイトメアの領土、それも本拠地だ。その内部にアリスは自領土を作ってしまった。ほんの数時間帯前の事だ。簡易キッチン内では、アリスの作ったルールが全てを支配する。そんな宣言が有効になるとは全く思いもしなかったが、ともあれ、あの簡易キッチンは既にアリスの持ち物であるらしい。アリスの支配が届くのはキッチン内だけだという話だったから、双子はその支配から逃れたければ、キッチンに近づかないだけでいい。アリスが気をつけさえすれば、双子とキッチンで極力会わないようにすれば、双子にも彼等の雇用主にも多大な迷惑は掛からない。アリスは、この世界のルールに詳しい訳ではなかったから、恐らく、という注釈のつくものではあったが。
けれど、グレイに関しては話が違う。
グレイはとてもナイトメアを大事にしている。厳しい事を言っても、仕事仕事と追い立てても、無理矢理薬を飲ませる時にだって、彼の根底にはナイトメアに対する愛情がある。初めて会った時ですら嗅ぎ取れた『お母さん』の印象は伊達ではない。あんなにナイトメアの事を大事にしている人なのに。アリスは、その当のナイトメアから領土をむしり取ってしまったのだ。
何だか心臓がばくばくいい始めた。
どうすればいいのだろう。
どうすればも何もない。
アリスの目線は遠くなる。
取り敢えず、謝るしかないだろう。土下座しても足りないと思うけれど。
どうすればいいのだろう。謝って済む事じゃないのに、謝る以外にできる事がない。鬱々とした心情に反して、それでも歩む足取りは確かだ。
涙が出そうだ。
アリスは鬱々と考え事をしていて、正確にはただただ落ちこんでいて、だから気がつかなかった。本当に全く。

「アリス」

「うひゃわあ?!」
いきなり掛けられた声に、アリスは飛び上がった。文字通りである。そして勢い振り向き、相手を確認してすぐ、海老のように飛びずさった。これもまた、文字通りである。反射的にやってしまった己の行動を後から鑑みて、アリスは硬直する。フォローのしようがない行動を取ってしまった。
目の前では、グレイが固まっている。
二人の間を何とも形容しがたい沈黙が漂った。
「…なっ、何かしら。仕事かしら」
ええ、ええ、何でもするわ。何でも言って。
にこにこへらへら笑いながら、じりじりグレイへとにじり寄る。それで、直前の己の行動がなかった事になる事を祈って。
無論、そんな訳はない。
けれど、グレイは大人だった。一瞬で立ち直った彼は、まるでアリスの直前の行動がなかったかのように振る舞った。
「実は未決済の書類が一枚行方不明なんだ」
すまなそうにアリスの手にした書類の束を見やる。
「もしかしたら、処理済の物と混ざってしまったのではないかと思ったんだが…」
アリスの抱えた書類の束。グレイの目線を追って、アリスもまた、己の手の内の荷物へと視線を移す。
「ああ、ごめんなさい。私、そのまま持ってきてしまって…」
処理済として積まれていた書類を全て持ってきたのだ。中身はファイリング時に書庫で確認するつもりで。
「いや、それはいいんだ。俺のミスだから。だが、書類を一度確認させてくれないか?」
「ええ、勿論」
アリスはグレイほど、大人にはなりきれない。多少強張った笑顔を返すだけで精一杯だった。それでも業務に関する事務的な会話が今はありがたい。仕事として普通に対応する事ができる。そうだ。落ち着いたら。もう少し、落ち着いて話ができるようになったら、謝ろう。今の失礼な行動も含めて。
ごめんなさい、急に現れるんだもの、びっくりしちゃって。
…それって、すぐに言わなければいけなかった言葉じゃない?
完全にタイミングを外した事に、今頃アリスは気がついた。いや、今ならまだ間に合うだろうか。アリスはグレイを見上げる。目の前には、アリスから受け取った書類の束を無造作に繰るグレイがいる。冷たく見えるくらいに冷静な表情に、アリスはそっと項垂れる。
彼の部下達は、仕事中の彼の集中を乱すような事は決してしない。グレイの手足のように、彼の指示に従って動く。それがこの塔の決まり事のようなものらしいと、アリスは仕事を手伝うようになって早々に学んだ。
グレイは今の一件を既に流す体勢だ。会話の流れがもう変わってしまっている。折角アリスの失礼をなかった事にしてくれようとしているのに、その厚意を無にする事などもうできない。
謝り損なった、という事実が更にアリスの心を重くした。
「ああ、これではよく判らないな…」
グレイが独りごちる。アリスの持ってきた書類は結構な分量だった。廊下に立ったまま確認するには無理がある。彼と向かい合っていたアリスは踵を返しながら言った。
「一度、執務室に戻りましょう。そこで広げた方が見やすいと思うわ」
クローバーの塔の実務を一手に引き受けるグレイは、常に多忙である。そのグレイが自分でわざわざ探しに来るくらいなのだから、なくなったという書類はとても重要なものなのだ。一度、全ての書類を広げてきちんと探した方がいい。
しかし、歩み出したアリスをグレイは何気ない風に呼び止めた。
「このまま、書庫に持って行こう。そっちの方が近いし、そこで確認すれば君も二度手間にならないだろう?」



書庫には作業台がある。書類や書籍を積める、広げられるだけのスペースだ。アリスにとって、日常的に使う場所でありスペースなので、よく知っている。アリス一人で使うには充分。けれど、二人で使うには少々狭い。作業台の前に書類を広げて並んで立てば、横にいる相手と肩が触れそうになってしまう。
何だか少し気まずくて、アリスはこっそりと隣のグレイを窺い見る。グレイは書類の束を解いて、一枚一枚丹念にそれを確認している。心中、溜息。アリスの心情など、今は二の次だ。グレイはとても忙しい。アリスは今、自分にできる範囲でグレイを手伝うべきなのだ。
アリスも手元にある紙の山から、グレイがやっているように書類を仕分けていく。探しているのは未処理のものなのだから、処理済の案件に関する書類を除外していけばいい。
塔下町の区画整理に関する法案。これは決済が下りている。税率の見直し。これもやった。領地間の争いの訴え。景気対策。指定農地の塔所有化を目指した買収計画。アリスも目を通し、ナイトメアのサイン待ちの書類として仕分けた覚えがある。ナイトメアのサインもあり、処理済の印もある。ひとつ、またひとつ。一枚ずつ確認し、仕分ける。アリスがいつもやっている仕事だ。その中に、気になるものがあった。ナイトメアのサインがある。グレイの筆跡での書き込みがあって、けれどアリスはこの書類に見覚えがない。
「…あの。グレイ、これ…」
アリスの休憩中に処理されたものかもしれない。処理済の印もちゃんと入っている、けれど。
怖ず怖ずと差し出された一枚の書類を、しかしグレイは一目見て破顔した。
「ああ、それだ」
処理猶予のはずだったのに、処理済として流れてしまったものらしい。「早々に見つかって良かったよ。ありがとう」と微笑むグレイは、纏う雰囲気も柔らかい。役に立てた事が純粋に嬉しくて、アリスも彼に微笑みを返す。もっとグレイの役に立つ事ができたらいいのに。
「私も、もっと手伝える事があるといいんだけど」
グレイは少し忙しすぎる。アリスで間に合う仕事だったら、アリスがもっと代われたら、グレイも休みが取れるのに。疲れの色も見せない彼がどれだけ休みなく働いているか、アリスは間近で見ているからこそ知っている。
「充分手伝ってもらっているさ。今だって」
労いの言葉は嬉しい。けれど、アリスには今のままでは足りないのだ。もっとアリスにできる事があれば。不満そうな息を漏らすと、面白そうにグレイが笑った。
「君も相当な仕事中毒だな」
「グレイの同僚ですから」
空気が柔らかい。気安く軽口をたたいて、それが許容される空気。少し、ほんの少しだけ垣根が低くなったような気がする。今なら。
アリスは思う。
今だったら、言えるかもしれない。
「あ、あの。ナイトメアから聞いたんだけど」
恐る恐る口を開く。グレイは微笑を湛えたままの目をアリスへと向ける。それに背を押されるように、気力を振り絞ってアリスは続ける。
「ディーとダムが、グレイに嫌がらせをしてるって…」
途端に優しい光は消えた。
「ごめんなさい!本当に本当にごめんなさい!謝って済む事じゃないけど。だけど、本当にごめんなさい!」
「…何故、君が謝るんだ?」
そこに怒りの色はない。ただ、平静な声だった。アリスは息を飲むしかない。
グレイはアリスに関わってしまっただけ。巻き込まれただけ。気を遣ってくれたから。お荷物のアリスを庇ってくれたから。そんな必要なかったのに。厄介事に引っ張り込まれて。
アリスは項垂れる。本当に申し訳ない。
「…二人にはきちんと言っておくし、叱っておくわ」
「そんな事を言ってるんじゃない」
流石に、少し苛立った声。当然だ。アリスは親切を仇で返したも同然なのだから。アリスは最早、グレイを直視すらできない。
「それに、それだけじゃなくて、私、実は簡易キッチンを…」
「知っている。ナイトメア様が容認したものを俺がどうこう言う筋合いはない。そうだろう?」
取り付く島もない。最後まで説明させてすらもらえない。アリスはますます項垂れる。
「……頼むから、謝ったりしないでくれ。君が頭を下げる必要なんかないんだから…」
腹立ちを押し殺すような深い溜息。謝るな、とグレイは言う。アリスには、謝る事しかできないのに。
どうすればいいのだろう。
まるで、独りぽっちになってしまったような気がする。ただ途方に暮れるしかない迷子の子供。
振り返らない裾の長い黒いコートが一瞬、違う人の影を映しかけて、アリスはそっと目を瞑った。



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