蒼い鳥 +++ act.10


いずれ幸せになるために
ぼくたちにはその鳥が必要なのです

メーテルリンク「青い鳥」



「鮮やかなものだね」
その夜、アリスは夢を見た。明るくも暗くもない、ただ空虚な世界。ナイトメアが現れる、何処とも知れぬ空間の夢だ。
「あんたはまた勝手に人の夢の中に入り込んで」
ナイトメアはふわふわと浮き上がり、アリスの前を漂った。反射的に文句を言いながら、それでもアリスはある意味懐かしいナイトメアに小さく微笑う。今よりもほんの少し前、ナイトメアとは夢の中でしか会えなかった頃の事を思い出す。現実世界…この世界の事をそのように表現していいのならば…にナイトメアが存在するなんて思いもしていなかった頃。あの頃を思うと、アリスは現在の状況がひどく不思議でならない。
「今現在は『夢』じゃないよ」
ナイトメアが言った。
「私もクローバーの塔も、ちゃんと存在している」
字義通りだと判っているのに、彼が言うと何か裏の意味を含んでいるようにも聞こえる。
勿論、ナイトメアは存在する。クローバーの塔もまた、存在する。『引っ越し』などという土地移動現象も、クローバーの塔の当主としてナイトメアがアリスの前に現れた事も、あに図らんや周囲に追い立てられながら渋々仕事をする現在のナイトメアの姿など、アリスの貧困な想像力で思い描けるはずもない。だから、今現在は現実。アリスが今、クローバーの塔にいる事も現実だ。
「ここは『夢』だけどね」
アリスは軽く肩を竦めた。
アリスとナイトメアがいる、二人だけで向き合って話す夢。夢魔と二人連れだなんて、悪夢としか言えないだろうに、アリスはナイトメアと見る夢をそんな風に思った事は一度もない。人の夢の中でも遠慮なくげほげほと血を吐くし、面倒この上ないとは思うけれど。
「ひっ非道いぞ、アリス。君は私をそんな風に思っていたのか」
仕方ないじゃないか、私は病弱なんだ。
だったら、病院行きなさいよ。
いっ、嫌だ。
いつもの遣り取りは、取り敢えず、アリスがナイトメアに拳を入れる事で終わる。塔の執務室でのように深刻な心情にならないのは、あくまでもこれが『夢』だと、現実ではないという認識があるからだろうか。
『外』とは関わりのない、この場だけのじゃれ合いのようなもの。
「それで、『鮮やか』って何が?」
戻った話に、ナイトメアが自身の頭を撫でさすりながら応じた。
「双子の首根っこを押さえた事さ」
ナイトメアの目には、涙さえ溜まっている。そんなに強く殴った訳でもないのに心外だ。
目を眇めるアリスの前で、地に降りてへたり込んでいた彼が再びふわりと浮き上がる。そうすると、先程までの情けない様相など全く感じさせないナイトメアは夢魔になる。アリスの心を読み取ったのか、如何にもそれらしくナイトメアはにやりと嗤った。
「彼等は君の領土内で、君に服従を誓った。もう君を裏切れない」
「あの子達は私の友達よ」
服従だなんて、友人同士で使う言葉ではない。
それに、双子はアリスを裏切ったりしない。もしいつか双子がアリスから離れていっても、アリスは裏切られたなんて思わないだろう。彼等は子供だ。子供はいつか大人になる。アリスにこんなに懐いてくれるのも今だけ。いつか、もっと素敵な、彼等だけの女性を見つける。そう、二人を見分けられるような人を。
それは、少し寂しい事だけれど。
「それに私の『領土』って?」
「キッチンだよ。君が使っている簡易キッチン」
少し考え、そして気がついた。
「ああ、何だ。あれの事」
双子とピアスにキッチンでの追いかけっこを禁じた、あの話だ。彼等に理解しやすいように、この世界の用語を織り交ぜて使った。
キッチンの使用に関しては、料理人や塔職員達に話は通してある。使用している事はナイトメアにも話した。既に既成事実化したものを報告したといった態ではあったが。
アリスはまじまじと目の前の男を見た。つくづく、色々な事をよく知っているものだ。アリスの心を読んだのかと思ったが、ナイトメアは軽く首を横に振る。
「私はエリアマスターだ。自領の中でも、この塔は本拠地になる。事件が在れば、読み取れる。例えば、自分の領土が削られた時などにはね」
アリスは目を瞬いた。
領土が削られた?それは一体どういう事だろう。困惑するアリスの前、ナイトメアは心底楽しそうに笑った。
「既にあのキッチンは君の領土だ。面白いね。君は私の領土内に治外法権地帯を作ってしまったんだよ」
その瞬間、場が動いたのをナイトメアはエリアマスターの自領土に対する感覚でもって感知した。
あの簡易キッチンはアリスの領土だ。アリスの作ったルールが最優先で適用される。
これは余所者の力だろうか。他のエリアマスターの領土内でも彼女はその力を振るえるのだろうか。それは本来、楽しくない事に違いないが、アリスにだったらそれも悪くないと思える。
ナイトメアの前では、アリスがまだ目を白黒させている。本当に愉快だった。
「だって、『私の領土』なんて、そんなの言葉の綾で…」
呆然としたまま呟いていたアリスは、それでもようやっと事態を理解したようだった。途端に勢い込んで、ナイトメアの腕を引っ張った。引かれるままに、ナイトメアは地に下ろされる。上もなく下もない夢の空間で、足が着く場所を地と表現していいものならば、の話であったが。
「ごめんなさい!そんなつもりじゃなかったのよ。あの、どうしたらいいのかしら。『私の領土じゃない』って言えば、私の領土じゃなくなる?あなたにあの場所を返せるかしら」
「いや。無理だろう」
アリスとは対照的に、ナイトメアは冷静に首を振った。あくまでもあっさりとした様子だった。
「君が心底から望めば、放棄はできる。『あんな場所はもういらない』とね。けれど、君はそう思えないだろう?」
あそこは、アリスのお城。アリスにとっては大事な場所だ。『いらない』なんて、口先だけでも言えない。
なんて事をしてしまったんだろう。なんて考えなしな事を。だけど、『領土』だと宣言しただけで本当にアリスの領土になってしまうなんて思わなかったのだ。けれど、これは言い訳だ。現実問題、アリスはナイトメアに迷惑を掛けている。エリアマスターの本拠地で領土を削るなど、殺されても文句は言えないような気がする。いや、確実に言えない。
アリスは鬱々と考えた。元々がネガティブ思考なので、一度落ち込み始めると止まらない。それに歯止めを掛けたのは、ナイトメアの呟きだった。
「それに、君に謝らなければならないのは、私の方だという気もするしね…」
「何よ。あんた、何かしたの?」
アリスのしでかした以上の失敗なんか、滅多な事では起こらないと思ったが、妙にナイトメアはそわそわしている。あーあーえへんえへん、とわざとらしい咳払いを繰り返し、幾度かアリスに窺うような流し目を寄越し、そして、苛々し始めたアリスが再び拳を握りしめたのを見て取って、慌ててその口を開いた。
「今回の件に関して、双子に情報をリークしたのは、私だ」
何だって?今、何と言った?『双子に情報をリークした』と言ったか。双子。アリスのキッチンにやってきて、ピアスがアリスの手料理を食べていると言って責めた。何故知っているのか。ピアス当人から訊き出したのかと、その時のアリスは理解した。だけど違った。ナイトメアが双子に告げ口したから。今、ナイトメアがそう言った。
「………はあ??」
開いた口が塞がらない。目を剥くアリスに対して、ナイトメアは早口に捲し立て始めた。
「私にだって、平穏な生活環境を護る権利はあるんだよ。そうだろう!?」
「まぁ、そうね。誰にだってあるでしょうね、それは」
アリスにだって、勿論ある。
ナニをもって双子にバラしたのか、是非とも訊きたいものだ。おかげで、アリスは大変な目にあったのだから。
既に、夢の世界はブリザード吹き荒ぶツンドラの荒野だ。ナイトメアには凍気すら感じられるのか、その唇はすっかり青紫色になっている。かたかた唇を震わせながら、ナイトメアは言った。
「双子がグレイに嫌がらせをしているからだ」
ブリザードは消えた。
「………………なんですって???」
元の上も下もない、何もない空間で、ナイトメアは這々の体でアリスの頭上へと逃げる。
曰く。
双子はちくちくとグレイへと嫌がらせをしていた。その被害はナイトメアにも及んだ。どうにかして嫌がらせを止めさせたい。他に何か双子が気を取られるような事が起こればいい。そうだ。双子の虐めを受けている者はもう一人いた。そっちに気を移させればいいじゃないか。
ナイトメアのぐだぐだした言い訳によると、そういった流れであったらしい。がしかし、既にアリスの頭の中は一杯すぎて飽和状態に近かった。
思いも寄らなかった事ばかりを大量に知ってしまった。その現実はアリスには酷く重い。
グレイに嫌がらせって、それは一体どういう?
ぐらぐらと眩暈がしてきた。夢の中なのに。
私の方が被害にあっているんだ私はどうでもいいのかとナイトメアがわめいたが、それは黙殺する。ただでさえ頭が一杯なのだから、余計な考え事を増やさないでほしい。
双子がグレイに噛み付く理由は、アリスには一つしか思い至らない。会合前、塔へと入る時。出迎えたアリスに彼等は懐いて抱きついた。そこで、グレイはアリスを救い出した。双子から見れば、アリスを取り上げられた事になる。勿論、今回の双子の行動にアリスの件など全く絡んでいないという事もあり得るけれど、双子は自分達の遊びにアリスを引き込む事が大好きだ。そんな彼等が、グレイに嫌がらせ、という、彼等にしてみたら新しく開発した楽しい遊びなのだろう話をアリスには一切しようともしなかったという事実を鑑みるに、嫌がらせの元はアリス絡みであると判断するのが一番しっくりくる。
呻き声の一つも洩れようというものだ。
「…あの子達には、きつく言っておくわ」
グレイは少しも悪くないのに。アリスと関わってしまったばっかりに。
本当に、アリスはグレイに迷惑ばかり掛けている。
アリスの手の届かない安全地帯からナイトメアは、どん底まで落ち込んだアリスを見下ろした。しげしげと見やる。
「君は本当に、グレイには気を遣うね」
危害を加えられた訳じゃない。加えようとしても、グレイならば返り討ちだし、あくまでも子供の嫌がらせレベルだ。タチは悪いけれど、それはあの双子故であって、アリスがそこまで落ちこむ程のものじゃない。
ナイトメアの慰めは、しかし、アリスの耳を素通りする。
「だって、悪いじゃない。グレイは全然、関係ないのに」
ナイトメアは黙り込んだ。妙に重たい沈黙が漂った。
「………それ、グレイには言わないでやってくれないか。今度こそ、再起不能になるから」
時々、ナイトメアは意味不明な事を言う。いつもか、とアリスは思い直した。
「グレイは全く気にしていないよ。でも、君が気になるというのなら」
ナイトメアが微笑んだ。夢魔の嗤いではなく、アリスとじゃれている時の子供のような笑みでもない。全てを理解し慈しむような、どこか大人びた微笑で。

「少し、グレイに優しくしてやってくれ」






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