蒼い鳥 +++ act.9


いずれ幸せになるために
ぼくたちにはその鳥が必要なのです

メーテルリンク「青い鳥」



強い感情を駆逐するのは、より強い感情だけだ。つまり、この場合、恐怖心を駆逐したのはただ猛烈な怒りだった。
冷静になって考えたら、この世界では布に付いた染みなど時間が経てば元通りになるのだった。ならば、アリスの調味料も元に戻るのか。吊されていたハーブは。綺麗に整えたアリスのキッチンは?
元に戻るから壊してもいいという理屈には決してならない。ここは、アリスのお城なのだ。アリスがこの場に招き入れた人、この場所に足を踏み入れる人はアリスを、アリスが大切にしているこの場所を尊重して然るべきだ。
アリスは腕を組んだまま、彼等を見下ろす。帽子屋屋敷の3人は神妙な顔をして、アリスの言葉を待っている。
「あんた達は今後、このキッチンへの入室禁止」
被告達に告げられた判決は、冷厳だった。勿論、控訴する権利などない。けれど、彼等は一斉に騒ぎ出した。
「そんな!壊したのはピアスだよ!」
「そうだよ、僕たち何もしてないよ」
「………何もしていない?…」
アリスが睨み下ろすと、双子は口を噤む。何もしていないどころではない。彼等はピアスを追いかけた。アリスのキッチンを戦場に変えたのはこの双子だ。
「アリス、アリス。俺、また来てもいいよね。いつ来てもいいって言ったよね」
縋るような目に、少し胸が痛んだ。が、ピアスだって同罪なのだ。彼もまたキッチンを破壊した。
ゆっくり、けれど、きっぱりと首を横に振る。息を飲んだ3人は、それでも未だ高をくくっていたのかもしれない。結局のところ、彼等に甘いアリスは許してくれるだろうと。
どのように思っていたとしても、もうどうでもよかった。
アリスは、もう話は終わったとばかりに彼等に背を向けた。早くテーブルクロスの洗濯をしてしまいたかった。時間が経てば元に戻ると知っていたけれど、それをただ待っていたくはなかった。このキッチンをできる限り元の形に、何事もなかったかのようにしたかったのだ。アリスが自身の手を尽くして、復元は成る。直せた、と自身が納得できる事。気持ちの、感情の問題だ。
まずはテーブルクロス。それから、棚の整理。割れたのと同じ瓶を買ってきて、調味料を作り直す。カップが欠けていないか確認して、またハーブを集めてきて。やる事はたくさんある。
その時、既にアリスの脳裏に3人の事はなかった。もう一度作る、建て直すアリスのお城の事で頭は一杯であったので。
「………う、ううう。…うわーーーーーん…」
だから、今後の作業手順を考え合わせていたアリスは、背後で響き渡った泣き声に心底驚いたのだった。
思わず振り向く。そこには、その場にへたり込んだまま天を振り仰いで泣くピアスの姿があった。わあわあと子供のように泣き喚く。その横では先程までのまま、アリスに入室禁止を言い渡された時のまま、膝を抱えた双子が肩を落として俯いたまま。彼等は泣いてはいなかった。ただ表情もなく、俯いたまま。
テーブルクロスを抱えたアリスは、ただ途方に暮れる。泣きたいのはこっちの方なのに。これではまるで、意地悪したのがアリスの方みたいじゃないか。
アリスに叱られた。ただそれだけで、何故、そんな捨てられた子供のような顔をする。

全くもう。本当に。
馬鹿みたいだ。

「ここでは、私がルールを作るのよ。このキッチンは、私の領土なの」
判る?
アリスは彼等の前にしゃがみ込む。腕に抱えたままの白い布からは、乾き始めたミルクティの匂いがする。破壊されたアリスのお城を象徴する匂い。アリスは小さく、その目を眇める。
「ここでは、争い事は絶対に許さないわ。この場所を壊す事も。絶対によ」

本当に私は、馬鹿みたいに彼等に甘い。

「これから洗濯をするから、手伝ってちょうだい。そうしたら、またお茶を入れてあげるから」
ピアスはきょとんとした表情のまま、涙に濡れた瞳でアリスを見つめる。アリスの言葉の意味を正しく読み取ったのは、双子の方が早かった。勢いよく顔を上げ、窺うようにアリスを見上げる。信じられないというかのように。
「…なあに?嫌だとでもいうつもり?」
あんた達が汚したんだから、あんた達が綺麗にするのが当たり前なのよ、と続けるアリスを慌てて遮る。
「勿論、僕たちが洗うよ」
「ちゃんと綺麗にするよ。汚れなんかひとつも残さないからね」
勢い込んだ双子は、アリスの手からテーブルクロスを奪い取った。そうしなければ、アリスが気紛れで前言を翻すとでも思っているのか。そんな事は決してしない。如何にも業腹ではあったが。
綺麗にしたら、またキッチンに入ってもいい。
それは、先程出したばかりの入室禁止令の撤回だ。
やれやれと立ち上がる。双子は早々に荷物を抱えて駆け出していた。アリスも彼等を追いかけなければならない。幾つかの洗い物を拾い上げ、取り敢えず流しに置いて、そしてアリスは振り返る。未だ状況が理解できない風に、キッチンの床にしゃがみ込んでいた者へと。
「ほら、ピアスもいらっしゃい。今度は喧嘩したら駄目だからね」
手招くアリスに、ピアスは怖ず怖ずと立ち上がった。その後、ピアスを待つ事なく足早に歩み出したアリスに、ピアスは慌ててついてくる。おどおどと不安そうに彼女を見て。
「…アリス、もう怒ってない?」
「怒ってるわよ、当たり前でしょう」
間髪入れずにアリスは返す。途端にピアスはまた泣きそうな顔になった。
「だけど、許すわ。今度だけ。またやったら、もう許さない」
決然と前を見て。足を止めぬまま、ピアスの手を取り固く握る。手を引かれたピアスはまたぐしゅぐしゅと目を擦った。
「お姉さん、お姉さん。洗濯室ってどっち?」
「あーっ。ピアスがお姉さんに手を握ってもらってるよ。狡い!」
「お姉さん、僕たちも、僕たちも」
テーブルクロスのついでにと、キッチン中のカーテンやクロス類をまとめて彼等に押しつけた。双子の腕には現在、布の固まりが一杯に抱えられていて、アリスが手を繋ぐような余裕もない。アリスは小さく笑って、駆け寄ってきた彼等を布の固まり毎その腕に抱き留める。アリスの可愛い小さな弟。



結局のところ、アリスには彼等を突き放す事などできない。
既に離す事ができないのは、アリスの方なのだ。



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