蒼い鳥 +++ act.8


いずれ幸せになるために
ぼくたちにはその鳥が必要なのです

メーテルリンク「青い鳥」



何という間の悪さ。狙ったとしか思えない。しかし、これは偶然だ。だからこそのピアスであるとも言える。そして、今日に限って、ピアスは一人だ。これまた狙ったかのようなボリスの運の良さ、または要領の良さに感心する。そんな事を奇妙に冷静に考える、それこそが現実逃避だと判ってはいたのだが。
キッチンにいるアリスを一目で見て取って、ピアスは花が咲き開いたように笑う。
いつもピアスがやってくる時にアリスがこの場にいられる訳ではない。いない事の方がずっと多い。珍しくも会えた事に対する喜び。
常に素直で自分に正直なピアスが見せてくれるそれは、素直でも正直でもないアリスにだって確かに感じられる、心を許した相手に対する感情だ。いつもだったらアリスから無意識の微笑みを誘う彼のその様に、今はただ、呻きつつ顔を伏せる。双子の姿は死角になっているのか、彼の目には未だ入っていないらしい。
「アリス、アリス。俺、お腹空いた。お腹空いたよ」
満面の笑みを浮かべ、弾むようにネズミが言う。アリスはズキズキと痛んできたこめかみを押し揉んだ。せめて口を開かなければ、何も言わなければ、今この場にいるのはアリスだけではないと気づいて、そっと立ち去れる公算もあったのに。ネズミは危機感知能力に長けているという話ではなかっただろうか。
「そう。お腹が空いてるんだね、ピアス。実は僕たちもなんだ」
「久し振りだねぇ、ピアス。元気そうじゃないか」
双子が言った。その声音は無邪気に明るく朗らかだ。実際、彼等は微笑んでいる。アリスにあえて彼等を見たくないと思わせる、微妙にその視線を外させる何かを振りまきつつ。対するピアスはキッチンに踏み込んで後、ようやっと双子の存在に気がついた。
「ぴ!」
一声奇声を発すると、そのまま固まる。その尻尾はぶわぶわと空気を含んでいっぱいに膨らんでいた。
「お姉さんの料理をずっと食べてるんだってねぇ」
「そりゃあ美味しかっただろうねぇ」
彼等の姿を見ず、話す言葉だけを聞くアリスには、彼等の猫なで声の裏に潜む爪と滴る毒が見える。なのに双子と対峙したピアスは、表面上だけは滅法友好的なその様子にころりと引っかかった。度が過ぎた素直は馬鹿に通じる。ピアスを見ていると、アリスはいつもそう思う。
「うん。凄く美味しかった。今でも美味しいよ?」
ネズミは警戒心の強い生き物ではなかったのだろうか。尻尾の膨らみさえ、既に縮んでいる。耳だけは未だぴくぴくと不安げに蠢いてはいたけれども。
ほんの一呼吸分の沈黙。
「…ふーん。そうなんだぁ」
最早、この場から消え去りたい。アリスの願いは切実だった。
「だけどそれって、お姉さんには迷惑だよね」
とん、と突き放したように双子が言った。遂に始めた。そういった調子だった。
「お姉さんの休憩時間を潰させているんだもんね」
「休憩時間は貴重だよね」
「ああ、大切さ。凄く大切だよ。僕たちに会いに来たり、僕たちと遊んだりしなくちゃいけないからね」
「なのにピアスは、いつもいつもいつもいつも、お姉さんの手を煩わせているんだもんね」
「ただでさえ、慣れない場所で暮らしているお姉さんを疲れさせるなんてね」
「ちょっとは気を遣うべきだよね」
いやいやいやいや。料理はかえって気分転換になっているし、気を遣って貰う必要なんて一切ないんですが。
実際、気なんて遣ってもらいたくない。アリスが好きでやっている事なのだから。
双子の言葉は私情と詭弁だけで構成されている。ピアスの立場にいるのが自分達だったら、彼等は絶対に気なんか遣わない。いけしゃあしゃあとした双子の言に半ば呆れながら、それでも突っ込みを入れるべくアリスが口を開いたその時、眉をハの字に落とし唇を尖らせたピアスが、それでも勇気を振り絞ったと思しき決然とした様子で言い放った。
「やだよ。俺、アリスのご飯好きだもん。食べたいもん。いつでも来ていいってアリスだって言ったもん」
しかし、それは今この場で発揮するには、明らかに間違った勇気だった。
その瞬間、ぶわりと放出された何かがアリスの肌を舐め上げた。泡立つ肌。毛の一本一本が逆立ち、汗腺から一気に冷たい汗が噴き出した。カチカチと鳴った歯を痛いほどに噛みしめる。体が固まったように動かなくなって、後から感情が追いついた。ブラッディ・ツインズ。血塗れの双子。
双子がその二つ名に相応しい殺気を押さえもせずアリスの前でさらけ出した事など、これまで数える程しかない。彼等を心底怖いと思った事も、アリスは数える程しかなかった。
「お姉さんを誑し込むなんて、ネズミのくせに生意気な」
「…殺すよ?」
その台詞に、冗談の匂いはない。
震え上がったピアスは、しかし今度は固まったりはしていなかった。素早くテーブルを回って逃げる。それを追うように、双子の片割れ…入れ替わっていなければ、服と瞳の色からいってディー…がテーブルに足をかけて一気にその距離を詰めようとする。テーブルの上にあった紅茶のカップが嫌な音を立ててひっくり返る。白褐色のミルクティはテーブルクロスに飛び散った。
「わあ?!」
こんな時、人を我に返らせてくれるのは、いつだって現実的な些末事だ。このまま放置したら、テーブルクロスに紅茶の染みが残る。その焦りは、アリスに差し当たりの恐怖心を忘れさせた。
「ち、ちょっと!あんた達、止めて!」
この簡易キッチンは、あくまでもサブとして存在している。それ程広々としている訳ではない。彼等が追いかけっこをできるスペースなど勿論、ない。
双子の振るった斧が間一髪で身を屈めたピアスの頭上を掠めて、吊されたドライハーブの束を叩き切る。香りのいい草がバラバラとその場に散り落ちた。アリスが料理のために作りストックしていたブーケガルニも踏み躙られる。
「止めなさいって言ってるでしょ!」
けれど、既に彼等にアリスの言葉が届く余裕はない。降り注ぐものから身を守るように頭を抱えて蹲るアリスの前で、アリスのお城がただただ荒らされていく。壊されていく。
逃げ場を失い、仰け反ったピアスは棚に体毎ぶつかって、棚に置かれたものがバラバラと雨のように降り注いだ。
瓶がひとつ。
アリスがスパイスとハーブと岩塩とでブレンドした調味料が落下して、割れた。
肉や魚を焼く時。スープを作る時。トマト煮込みの隠し味。
何にでも使える万能調味料。
アリスの宝物が。

割れた。

その音は、彼等の動きを止めさせた。先程から、アリスの制止は全く届かなかったのに。物の壊れる音だけが彼等に届いた。裏を返せば、今回初めて物が壊れたという事だ。こんなに暴れ回っていたのに、ここまで破壊された物はなかったというのは、彼等なりに気をつけていたという事なのか。アリスにはそれを感謝する気持ちなど、全然全くこれっぽっちもありはしなかったが。
「…あんたら、ちょっと、そこ、座りなさい」
静かな静かな声だった。けれど、何かを感じ取った3人、いじめっ子の双子もいじめられっ子のネズミも皆、全く同じ行動を取った。つまり、反論もせず、アリスに言われるがままに素早くその場に座った。きっちりとした正座だった。
深々とした溜息を吐く。そのまま、アリスはゆっくりと床に散らばったガラス瓶の欠片を拾い集めた。
「お姉さん、僕たちがやるよ」
「そうだよ。お姉さん、怪我したら危ないよ」
この時とばかりにすり寄る双子に、たった一言。
「黙ってろ」
アリスが片付け終えるまで、後はひたすら無言だった。



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