蒼い鳥 +++ act.6


いずれ幸せになるために
ぼくたちにはその鳥が必要なのです

メーテルリンク「青い鳥」



「だから、あんたはちゃんと病院行くべきよ。いつも言ってる事だけど」
アリスは呆れかえった冷たさの滲む口調で言い様、しかしそれとは裏腹な心情が確かに感じ取れる繊細さでナイトメアの背をさすった。先程から、ナイトメアの咳が止まらない。肺の中の空気を残らず絞り出すかのような咽せ方は、傍らにいるアリスをただ不安にさせる。
病はあっという間に人を掠っていく。人はあまりにも簡単に死ぬ。
アリスはそれをよく知っている。
アリスの手首を固く握りしめた手は、熱く燃えるようだった。彼女の口が微かに動く。音にはならない。ただ、固く握りしめた手。徐々に冷えていく。それでも、握る力は衰えない。より一層に固く掴む。逃がしはしないとでもいうかのように。
一瞬のフラッシュバック。あれはいつの事か。アリスは母の死に目にあっていない。病院から連絡を受けて、姉と妹とアリス、子供達3人が呼び出されて、着いた時には枕元で肩を落とした父の姿。母は安らかにただ眠っているかのようだった。熱に浮かされ歪んだ海の碧の瞳。狂気を孕んだその色。そんなものは見ていない。
「アリス」
夢から覚める瞬間は常に眩暈に似たものを伴う。アリスが現実に帰る時、そこには常にナイトメアがいる。夢魔である彼は、アリスを夢から引き戻す。妄想に近い幻影は彼によって駆逐され、アリスは今現在、自分の足が地に着いている事に気がつく。ここは現実だったのだ、と。アリスにとって、既にこの不思議の国が現実。アリスのそれまで育った家こそが、夢。今ではアリスはこの世界の住人だ。
彼の瞳はただ静かだ。熱を帯びた狂気など何処にもない。銀色混じりの灰色の瞳がにやりと笑う。
「私は夢魔だぞ。だから、死んだりしない」
「また、勝手に人の心を読んで…」
「読めるものは取り敢えず読む。当たり前だ」
いつもの吐血ではない、喉の奥が切れたのかもしれない口の端に滲んだ血を手持ちのハンカチで拭いて、ナイトメアは大威張りで言い放つ。先程まで、取り憑かれたかのように発作じみた咳を繰り返していたのに、一度収まるとけろりとしたものだ。だから、本人も病院に行かないと言い張れる。
けれど、決して治った訳ではない。彼は次もまた血を吐く。治る訳がない。どんどん悪くなる。
ナイトメアのハンカチは常に新品だ。まっさらの、血が染みた痕なんかない、綺麗な白いハンカチ。何度も何度も血を吐いて、その度にハンカチを換えて、一度も血を吸わせた事のないハンカチに変えてもそんなの全くなかった事になんかならない。
だけど、アリスにできる事は何もない。ただ、彼に馬鹿だ馬鹿だと腐し、いい加減病院に行けと、彼には決して届かないと知っている言葉を吐く。それだけだ。何度も何度も、病院に行け、薬を飲めと言って、その度毎にナイトメアは、嫌だ、と言う。そんな必要なんかない、と。適当な事ばかり言うナイトメアを睨み付けて、それでも結局、先に目を逸らすのはアリスの方なのだ。
「お茶を入れてくるから」
そして、アリスはいつものように逃げ出す。彼の子供っぽい態度に呆れかえったように大仰な溜息を吐いて、ナイトメアの態度に傷ついてなんかいない風に装って。
アリスの言葉は彼に届かない。冷然としてさえあるその事実を目の当たりにするのは嫌だったから、アリスは今日も目を瞑る。



「……ほら、口直し」
いつもの珈琲に暖めたミルクをたっぷり注いだそれを、ナイトメアの前に差し出す。仄かに色付いた茶色が珈琲も入っている事を申し訳程度に主張する。珈琲はブラックじゃなきゃ嫌だなどとぶちぶち言うナイトメアに「我が儘を言うな」と一喝する。喉が切れている癖に何を言うのだかだ。
不服そうなナイトメアの前に、更に差し出された小さな皿。
「これだけ牛乳が入っていたら、ショートブレッドも美味しく食べられるわよ」
バターがたっぷり入ったショートブレッドは、ほどよい固さでさくさくに仕上がった。アリスにとっても自信作だ。なのに今、ナイトメアは胡乱げな顔をして小皿の上の菓子を見つめている。
「………なあに?まだ何か不満があるの?」
「いーや。私はちっっっっとも、不満なんかないけれどね」
私は、の『は』に力が入っていたような気がしたが、勿論、気のせいだろう。それよりもずっと『ちっっっっとも』の方が強い。
「嫌な言い方ねぇ」
アリスは、一緒に入れてきた自分用の珈琲に口を付けた。ナイトメアに入れたものと違って、適度な分量だけ入った牛乳はただ、煮詰まって濃くなり過ぎた珈琲の味を柔らかに薄めてくれる。
「……ショートブレッド、好きじゃなかった?」
バターで焼いたような菓子だ。ナイトメアの口には重かったかもしれない。たまにはいつもと違う物でも、と思ったけれど、上品そうな高級品を食べ慣れているナイトメアの好みには合わないかもしれない。
隠しきれない懸念と、アリス当人は決して認めないだろう脅えとが滲んだその様子に、ナイトメアは苦笑した風に微笑う。
「いや。美味しいよ」
皿から拾い上げた菓子をナイトメアが囓った。ほんの一口。小さなクッキー型に焼かれたショートブレッド。砂糖は控えめで塩は利かせ目。作りたてを味見した時の、さくさくとした触感が思い起こされる。アリスは肩の力を抜いた。
「口に合ったなら、嬉しいわ」
ボリスとピアスへの差し入れにするつもりだった。アリスの部屋に遊びに来てくれる双子達にも。アリスの料理を喜んでくれる友人達への好意を示すお礼の品。
ナイトメアの食事は料理人が栄養も考えたメニューを用意していると知っているけれど、たまには、そう、たまにはアリスの菓子を振る舞ってもいいのではないかと思う。それほど、体に悪そうなものでなければ。
「なぁ、アリス。君は、グレイをどう思う?」
「『どう』って…」
唐突な問いかけである。
「今、この場にいない人のことをあれこれ話すのってどうかと思うけど」
同席していたら、それはそれで話し難い。そして、ナイトメアは当人が同席しているからといって、この手の話題を避けるような繊細さは持ち合わせていない。ならば、いないうちに問われる方がマシか、との結論に行き着き、アリスはあっさりと応じる。
「いい人よね。大人だし、良識的だし、真面目だし。エリオット並みに働き者だわ」
「三月兎は『働き者』か?」
目の前の小皿から、プレーンなタイプに混じって存在する、オレンジ色をした、しかし、決してオレンジ味ではないと食べる前から判っている焼き菓子を、ナイトメアはその指先で摘み上げた。
「ええ。いつ訪ねていっても忙しそう。どこでも、上司が怠け者だと部下が割を食うって決まってるのよ」
帽子屋ファミリーの仕事はマフィア。商売繁盛は社会通念的にはめでたくはないが、友人としては結構な事だと思う。職業に貴賎はない、とこれまた社会通念的にはいわれるし、労働は尊いとアリス個人も思っている。友人達が危険な目に遭わなければ尚いい。
そして、この塔は現在、国の主宰である。商売繁盛のマフィア並みに忙しい。その上、マフィアと違って常識人な分だけ、グレイは苦労性でもある。
藪を突いて蛇を出した形のナイトメアは、既に続く言葉に予想がついているのだろう、不服そうに唇を尖らせながらも机にべったりと突っ伏すように張り付いている。勿論アリスは、ナイトメアの予想を裏切るような事はしなかった。
「あんたも、あんな、ただでさえ仕事に疲れてそうな人の手を煩わせちゃ駄目じゃない。もっと気を遣いなさいよ」
「……………グレイは、気を遣われたくないと思うんだけどね」
応えるアリスの視線は絶対零度だった。



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