蒼い鳥 +++ act.3


いずれ幸せになるために
ぼくたちにはその鳥が必要なのです

メーテルリンク「青い鳥」



もう少し料理らしい料理も作ってあげたい。
褒め倒されたのがサンドイッチというのは、如何にも複雑な気分になるものだ。仕事の合間の休憩時間、最近のアリスは料理の下拵えのためにキッチンへと出向く。今回、牛テールを柔らかく煮込む時間はないけれど、野菜屑を利用してスープのベースを作っておく事はできそうだ。次にすべき事したい事を考え計画するのは、楽しい。その計画を実行に移すために、今は精一杯仕事をしなくてはと思うし、更に仕事に張り合いも出る。
「随分、楽しそうだね」
「ええ、楽しいわ」
書類の山に埋もれた現在の上司のじっとりとした声音に朗らかに対応してしまう程度には、アリスは晴れやかな気分だった。
今ある材料を効率よく使って、何を作ろうかと考える。栄養バランスの取れた、美味しい食事。アリスの今までの生活は、そんな事を考える事で成り立っていた。今まで。ここではない塔で。
アリスは心に浮かび上がりかけた男の姿から目を逸らす。考えてはいけない。思い出しては。
ここにいられなくなってしまう。
「…アリス?」
意識が帰る。現実へと。
目の前には、アリスを見上げるナイトメア。アリスは彼の執務机の前で足を止め、呆然と立ち尽くしていたのだ。
「あ、ごめんなさい。これ、次の書類よ。資料添付してあるから」
常のように確認の上でのサインを促す。しかし、差し出した書類に目を留める事もなく、ナイトメアはアリスを見つめた。色の薄い瞳からは、何の感情も読み取れない。静かな鏡のようなそれは、悪夢の具現である夢魔の瞳だ。そう言えば、ナイトメアは夢魔だった。知っているはずなのに、常に忘れる。足は地に根を張ったかのように動かない。踏み込まれ、暴かれる。己の卑小さも醜さも、全て。それは時として、苦痛を伴う。アリスのように、己の矮小性に自覚がある者にでも。
息が詰まりそうになる。
「………アリス」
何も読めない、アリスを暴く瞳。そのままに、彼は言った。
「私はもう疲れた」
それは真実、心の発露であった。彼の凪いだ瞳の色は、まるで人生に倦み疲れた老人のようだった。
「………ふざけた事言ってないで、仕事して下さい、ナイトメア様」
しかし、対するグレイの声は、あくまでも冷ややかだった。
「いーやーだーーーっ。もうずーーっと仕事してるんだぞ、つーかーれーたーっ」
休ませろーーーーーーーーーーーー。
床に転がって両の手足をばたつかせる子供のような勢いで、ナイトメアは叫き立てる。何故、彼を少しでも怖いだなんて思ったのだろう。ナイトメアはいつだって、多少…大分…頼りない、それでもアリスの大切な友人だ。
先程までの己の空想とのギャップに、アリスはくすくすと笑う。気が抜けてしまって、何だか奇妙に可笑しくて。
「いいじゃない、グレイ。ナイトメアも今回は随分と頑張ったもの。少し休憩にしましょう」
笑うアリスに、困ったような顔をするグレイ。グレイがアリスの進言に強く反対する事はない。いつだってそうだ。アリスに気を遣ってくれているから。
だから、アリスもすぐに譲歩する。条件を付けて、グレイが受け入れやすいだろう理由を作る。
「但し、手元にある分が終わったらね。今、私が渡した分と、今グレイが処理している書類の分。そこまでやったら、お茶にしましょう」
あまり根を詰めても効率が悪いわ、とグレイに微笑む。グレイはアリスを拒まない。いつだって。今回もまた、そうだった。仕方がない、と溜息を吐いて、それでも「少しだけですよ」とナイトメアに釘を刺し、そして、すまなそうな顔をしたアリスに小さく微笑みかける。出過ぎた真似でグレイの仕事の邪魔をしたアリスを咎める事もなく。君が気にする事はない、とそう言って。
既に流れが判ってしまう。それ程に常の決まり事と化した遣り取り。
「じゃあ、私はお茶を入れてくるわね」
ここでいう『お茶』とは珈琲の事だ。主に仕事の合間に摂取されるそれは、常に保温器にかけられているサーバーの作り置きだった。珈琲を楽しむためのものではない。逐次入れるような手間を掛ける暇もない。それでも、そのカフェインは精神を休める一助となってくれる。
「何か甘い物が食べたい」
ナイトメアは執務机にだるだると懐いて言った。既に集中力は切れたらしい。手持ちの仕事が終わってから、と言ったのに。
「今ある仕事の後」と窘めながら、アリスはあやすような微笑みを浮かべる。彼の捏ねる駄々は病院・薬関係を除けば、ある意味、微笑ましいといえるようなものばかりだ。甘え上手とでもいうのか。己が決してそうはなれないタイプだから、アリスはナイトメアのそういった部分を好ましいと思う。
「ああ、この間のチョコレート、残っていなかったかしら。ほら、ナイトメア、好きだって言ってたでしょう?」
アリスが言うのは、先日、塔下の街にある高級チョコレート店で購入したトリュフ・アソートメントの事だ。存外甘い物好きのナイトメアのために、常時、茶菓子は買い置きされている。
「チョコレート気分じゃない」
ナイトメアは子供のように唇を尖らせる。チョコレート気分って何だよ、とアリスは思った。思ったが、確かにチョコレートは体調によっては少々重い。もっと軽い物が欲しいという事か。
「ビスキュイは今、切れているのよね。クッキーだったら、この間買ったのがあるけど」
何故かじっとりとした目で見られた。何故だろう。こんな時、いつもだったらナイトメアのわがままを叱りつけるグレイも何故か、無言のままだ。本当に何故だろう。
「あ。そうだわ。私、二人に食べてもらいたいものがあったの」
アリスは思い出した。そして、素晴らしい名案を思いついた。
まさしく大名案。
「先日の休みに塔下でちょっといいビスコッティを見つけたのよ。まとめて卸してもらってもいいかな、と思うくらいの。ほら、最近は塔もお客様が多いでしょう?お出しするお茶菓子にどうかなって。二人とも、試食してみてくれない?」
休憩時間を利用して入った喫茶店で、茶請けに添えられていたビスコッティ。思わず、何処のものなのか聞いて、喫茶店で仕入れているというその菓子店に訪ねていって購入した。とても美味しかったから二人へのお土産にしようと思ったのが、そもそもの購入理由。購入したはいいけれど、後になって、休憩で喫茶店に行った土産、というのは、如何にも子供っぽくて間が抜けているという事実に思い至り、結局、出せなかったそれ。
けれど、一国の城で客に出される菓子は、城の顔のようなものとなる。アリスの知る限りではそうだったし、事実、ハートの城でも茶菓子には随分と目配りされていた。女王ビバルディが美味しい紅茶を楽しむために、お茶請けにまで手抜かりを許さない、という事情はあったにせよ、だ。塔の場合もその認識が適応されるのかは判らないが、そう手を抜いていいものではないはずだ。何しろ、現在はここクローバーの塔が国を治めているのだから。
二人が気に入ってくれたなら、そして了承してくれたなら、塔の茶菓子としてあのビスコッティを推薦できる。更に、アリスは本来それに付随する『休憩の土産』というしょうもない理由を隠蔽したまま、二人に菓子を差し出す事ができる。
まさに一石二鳥。
その妙案に晴れやかに笑うアリスに反して、ナイトメアはますますじっとりとした顔になる。そしてグレイはやはり無言。重い沈黙が周囲を漂った。
何が地雷なのかがさっぱり判らない。しかし、恐らく、何かが地雷だった。
「…あ、あの。私、持ってくるわね?」
こういった時の多分に洩れず、アリスは逃げた。ビスコッティを自室に置いたままにしておいてよかったと心底思った。それとなく逃げる事ができた。しかし、彼等は二人揃ってビスコッティが嫌いだったのだろうか。客に出す茶菓子として推薦するには、素朴すぎるものだったろうか。アリスのセンスが悪いのを指摘できなくて困っていた?
でも、ハートの城でもシンプルなスコーンは好まれていた。それを考えたら、悪くはない選択のはずだ。多分。
だから、何か。多分、全く別のところで、アリスは二人の気に障るような事を無意識にもしでかしてしまったのだ。人を不快にさせてしまうような何かを。
どうしてこう、上手に振る舞う事ができないのだろう。
アリスは己の不器用さを悲しく思う。



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