蒼い鳥 +++ act.2


いずれ幸せになるために
ぼくたちにはその鳥が必要なのです

メーテルリンク「青い鳥」



会議場の空気は忙しない。雑談混じりの喧噪は、ひどくアリスを落ち着かない気分にさせる。皆がそれを茶番だと知っていて、あえて演じ続ける空気。表向きは和やかに談笑しながら、いつでも隣の相手を殺してやれると思っている。そんな人々の思考がだだ漏れとなった周囲の空気は、会議場をひどく殺伐としたものにする。
小休止に入ると共に、アリスは会議場を抜け出した。今回の会合の主催者は、クローバーの塔の主であるナイトメアだったから、側近のグレイは議事進行に関わる業務についている。グレイの補助のような仕事をしているアリスもまた、会合のスタッフの一人だ。しかし、ぴりぴりとしたこの空気は、如何にも精神疲労を蓄積させる。実際、何の議事も進みはしないという状況故に尚のこと。
せめて、お茶でも飲もうと廊下に出たところ、アリスはそこでよく見知った顔を発見した。アリスと同じように息の詰まる思いをしていたのか、それともただ単に退屈したのかもしれない。
「ボリス」
いつものマゼンタではなく黒いファーを肩に掛けた、だけど、その髪はいつものマゼンタ。目にも鮮やかなピンクのチェシャ猫。
「や、アリス。あんたも抜け出すの?」
「抜け出さないわよ、お茶を飲みに行くの。って、あんた、会合はまだ終わってないでしょうが」
脱走する気満々だったらしい。口の端を持ち上げ笑う彼は如何にも猫といった風情で、妙な色気に溢れている。ひとつところでじっとしていられない気まぐれな猫。本人もまた、そう言うだろう。だって、俺は猫なんだよ?と。
「私、珈琲を入れようかと思っていたんだけど」
よかったら一緒にどう?と水を向けると、「俺があんたの誘いを断る訳ないだろ?」と笑う。気まぐれな猫の気まぐれな好意は、それでも確かに彼がアリスへと向けてくれているもので、アリスにはただ嬉しい。アリスが笑って差し招く先に、ボリスは素直に付いてくる。実家の飼い猫ダイナを思い出す。彼はアリスにとって、元の世界とこの世界を繋ぐ橋のような存在だ。狂った世界の化身のような彼は、それでもアリスの知るアリスを好いてくれる猫そのもので、その特有の優しさでアリスを受け入れてくれる。手招くアリスに応えて寄る、綺麗で誇り高い生き物。
勿論、彼に作り置きの珈琲を注いだだけのものを出す気などない。会合の間に利用できるようにとサーバーに用意された珈琲は既に煮詰まって、ただの泥水と化しているだろう事は想像に難くない。アリスが用意するのは、挽きたての豆を使った入れ立ての、香りも高い美味しい珈琲。入れる腕には、ちょっと自信がある。
「珈琲、珈琲、嬉しいな」
歌うようにセンテンスが弾む。軽やかに跳ねるそれは、しかし、目の前の猫のものでは決してなくて。
「…………お前は誘ってねぇよ」
低く地を這う猫の声の先、森のネズミがそこにいた。



おもむろにナイフとフォークを取り出したボリスにピアスは文字通り飛び上がったが、アリスはピアスを背に庇ってボリスと対峙する。けれど、それは深刻なものではない。ボリスだって本気でピアスを追い払おうとは思っていないはずだ。…そう思いたい。
「ピアスも一緒に行きましょう」
ピアスではなく、ボリスにそれを宣言するのは道理が通らないようでいて、まさしく正しい。既にピアスは共に来るつもりだし、ボリスがそれを許容しなければ、銃弾が飛び交う事態になる。良識を備えた小市民を自認するアリスにとって、それは是非とも避けたいところだ。
「うう。アリス、優しい。…俺、お腹も空いたな」
早撃ちが特技のボリスが愛銃を懐から取り出し構えるのと、ピアスがアリスの背中にぴったり張り付いたのは、ほぼ同時の事だった。
「アリスにたかるか、このネズミ…」
ボリスの声音は奇妙に静かだ。なのに、漂う空気はひたすらに重い。ボリスは撃たない。撃てない故に空気は重い。アリスが盾になっているからか、対立禁止の協定のためか。理由はどうあれ、塔中で発砲されては困るので、アリスとしてはありがたい。
「あ、あのね、サンドイッチでよかったらあるから」
食べる?と問いかけると、森のネズミは潤んだ大きな目をきらきらと煌めかせる。
反してボリスは暫くの沈黙の後、深々と溜息を吐いた。
「………あんた、甘過ぎだよ。アリス」
「そんな事言わないで、ボリスも食べない?今回の具はサーモンとチーズなの」
「…………サーモン?」
「チーズ!」



クローバーの塔の簡易キッチンは、最近のアリスの居場所の一つだ。メインの厨房は専属の料理人が駐在しているからアリスも間借りするのは気が引けるが、男所帯のこの塔ではミニキッチンを使う者もあまりいないらしく、いつ来ても無人のこのスペースをアリスは気軽に利用している。いつの間にか据え置きにしてしまったアリス個人の持ち物もまた増えてきていた。その様はまるで、アリスがこの場を占拠しているとでもいえたものだったかもしれない。
珍しいスパイスや使い慣れた調味料。小回りの利く幾つかの鍋と包丁。
食器や器具の大きな物などは料理人が貸してくれたが、それにも限界はあるし、全てを人に借りたり譲ってもらったりする気もない。給料で少しずつ買い足して揃えたアリス自慢のコレクションだ。
猫とネズミは今、物珍しそうにきょろきょろと周囲を見回している。
「一応ね、使用許可は取ってあるから大丈夫。そこに座って」
小さなテーブルを指し示すと、ボリスが小首だけを軽く傾げる。本物の猫のように。
「ここって、アリスの基地なの?」
その的確な表現に、アリスはつい笑い出してしまいそうになる。
「ええ、そうね。そうかもしれない」
初等科の少年達のいう『秘密基地』とはこんなものかもしれない。人から見たら他愛ないだろうけれど、自分にとっては大事なお城。
そして二人は、アリスのお城最初の客だ。
スモークサーモンとクリームチーズの組み合わせは、サンドイッチの具材として相性がいい。少なくとも、アリス本人が味見をした時はなかなかのものだと思ったし、今、目の前で美味しい美味しいと食べてくれる猫とネズミの様子を見ても、ちゃんと美味しかったと判断していいだろう。
「アリス凄い凄いよ!君は本当に料理が上手なんだね!」
「料理っていうか、ただのサンドイッチだけどね」
サンドイッチをここまで褒め称えられるのは嬉しい以前に申し訳なく、また返って恥ずかしい。
「素材がいいからよ」
パンに具材を挟んだだけのサンドイッチだ。食材の質が味の全てになる。前回の休みに街に降りたアリスは、より美味しい食材を吟味して購入した。上質なサーモンとチーズ。香辛料と新鮮な野菜。この塔の人達は舌が肥えていそうだからと奮発して。
結局、出せなかったけれど。
思い出すと、落ち込んでしまう。自分の考えなしさ加減には呆れるばかりだ。
仕事で詰めた塔の当主とその側近の夜食なんて、勿論、料理人が作る事になっているに決まっている。今でも思い出すと冷や汗が出る。アリスの仕事が終わって後、残業で残ったナイトメアとグレイの元へ、休み時間の間に作っておいたサンドイッチを差し入れようと簡易キッチンから執務室への廊下を急いだ、その時に廊下を行く顔なしの姿を見たのだ。主に二人の身の回りの世話を業務としている彼等の部下を、アリスは何度か見た事があった。そして今、彼の持つ盆の上には珈琲とサンドイッチ。アリスの手にあったものとそっくり同じ。
アリスは二人を大量のサンドイッチまみれにさせてしまう一歩手前だったのだ。どんな嫌がらせかと思う。つくづく、彼等に差し出してしまう前に確認できてよかった。だが、作る前に状況を確認しておけばもっとよかった。
「作ったはいいけど、持て余してたの。ピアスもボリスも、食べてくれて嬉しいわ」
「いいや、こっちこそよかったよ。美味いものご馳走してもらえてさ」
美味しいよ、と笑うボリスは本当にいい人…いや、いい猫だ。こういった場合の切り返しがそつなくマナーに合っていて、しかも全く心にもない世辞で言っているのではないと判る。反して、同席するネズミにはマナーなどない。がしかし、彼もまた、心にもない世辞など決して口にしない。
「うん美味しい。凄く美味しい。凄く凄く凄く美味しいよ。俺、こんなに美味しいもの食べるの初めて!」
「え。そんなに」
常日頃のネズミの食生活に多大な不安に満ちた疑問を抱いたアリスを余所に、「アリス、料理上手!天才!」とピアスは心底嬉しそうに笑う。
「…あのね。これからもこんな軽食でよかったら、用意しておくから」
会合の間、彼等は同じ塔に住む。期間中はアリスのキッチンにいつでも遊びに来ればいい。
浮かれ舞い上がったネズミとそれに怒る猫とで、また一悶着はあったのだけれど。
「だったら、退屈な会合だって俺、我慢するよ!」
ピアスの明るい笑顔が、アリスには何より嬉しかった。



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