温泉にいこう +++ act.9


さあ Paradise Believer 楽園を探そう
子供の頃に描いた夢をたよりに

パラダイス・ビリーバー/松岡英明



それは、鼻歌というにはあまりにも元気な大音声であった。時を置かず、付近の部屋から、苦情が寄せられる事になるのは、必定である。
成瀬が生まれるより前に故人となった、国民的大歌手の歌を、成瀬は殆ど、彼の鼻歌で聞き覚えたと言って、過言ではない。
寮長に幾度となく注意され、小言をくらい、それでも学園の大浴場でのリサイタルは、未だに健在だ。まさか、こんなところでまで聞く羽目に陥るとは思っていなかったが。
「お前達の部屋って、専用露天が付いてるんだろ?入れてもらおうかと思ってなー」
そんな丹羽の言葉に対して、啓太が言った。
「駄目です、王様。成瀬さんが先です。成瀬さん、足に怪我してるんですから」
王様は後!じゃなかったら、共同の露天風呂に行って下さい。
決然と、揺るぎなきその一言に、成瀬は思った。全てを許せる、と。
その瞬間、成瀬は、己が世界一心の広い男だったと断言できる。
「いいんだよ、ハニー。僕は、少し休んでからにするから」
そして今、窓越しにいつものリサイタルを聞いている。だけど、そんな事にも、感謝しなくてはならないかもしれない。彼が風呂へと向かう前、啓太に「いつまでもそんなん着てんなよ」と、軽くからかうように言った。対する啓太は、学生会の二人を見て、自分を見下ろして、そして、早々に浴衣に着替える気になったのだ。
浴衣に付属の半纏を着て、甲斐甲斐しくお茶を入れる啓太は、本当に可愛い。ちょこまかと動き回る彼の姿を見ているだけで、ほんわかした気持ちになってくる。
成瀬の視線に気づいたのか、啓太が顔を上げた。目が合って、ちょっと困ったような顔をして、そして、啓太は成瀬に湯飲みを差し出した。
「成瀬さん、大丈夫ですか?」
心配そうなその顔の、愁眉を解いてあげたくて、「大丈夫だよ」と微笑みながら、暖かな緑茶をすする。
「啓太、お茶を入れるのが上手だね」
部屋に備え付けの茶器セットは、この手の旅館の定番品だったけれど、ティパックの緑茶がこんなに美味しいなんて知らなかった。啓太はいつでも、成瀬に新たな発見をさせてくれる。
「上手になってきてるんだったら、嬉しいんですけど」
照れたように、だけど嬉しそうに笑う。啓太が、学生会に通うように日参する、もうひとつの場所は、自分の美意識をしっかりと持った魅力的な人物の治める領域で。
前に、彼が言っていた。「西園寺さん、あんまりたくさん食べたりしないけど、すごく美味しい物が好きなんですよ」
それはちょうど、中庭で弁当を広げていた時で、その西園寺であっても、成瀬の作る料理は気に入るだろう、とそんな言葉が続いた、いわば賞賛の声であったのだけれど。
「…西園寺は、いつも啓太に美味しいお茶を入れてもらってるんだねぇ」
心底、羨ましいとの思いの篭もったその呟きに、啓太は慌てて、手を横に振る。
「そんな!俺なんか、まだまだです。七条さんの入れるお茶、本当に美味しくて、俺、まだまだ全然なんですよ」
どうやら、会計補佐殿がお茶汲みの師匠であるらしい。彼が、人に何かを教えようとするだなんて、成瀬は思ってもみなかった。
会計部の二人組は、互い以外の人間を周囲からすっかり排除して、そして彼らの世界を護ってきた。何より、印象的な二人は、常に周囲の目を集めてきたから、その様子はあまりにも顕著で。
クラスは違っても同じ学年で、学園入学以来、彼らを見つめる周囲を遠目に見やり、彼らに関する噂話も何となく耳にして、二人が恋人同士だなどという下世話な話は、成瀬は信じなかったけれど…そんな艶っぽさは全く感じられなかったから…、だけど、二人がお互い以外の人間をその懐に入れるつもりなど、毛頭ないのだという事だけは、確かに感じ取っていた。
そして、周囲も、そんな彼らを是認していた。それが当然なのだとさえ、思っていた。成瀬自身は、彼らに大して興味も持っていなかった、とも言えるのだが。
実際、成瀬と同じような感覚でいた者も多かっただろう。BL学園に集められたのは、皆、その実力と才能を買われた者達ばかりだ。必然的に、生徒は皆、多分に個人主義的、自己愛過多的傾向にある。他者のありように興味など持たず、ただ、己の力を伸ばす事に終始する。啓太がやってくるまで、ずっとそうだったのだ。成瀬も、会計部の二人も。
目の前の少年が転校してきた時から、全てが変わった。彼を軸として、人が集う。そして、人との関わり合いができる。会計部の二人も、随分と変わった。勿論、いい方向に、だと成瀬は思っているけれど。彼らを取り巻く空気も柔らかくなり、周囲を遮断した壁は薄くなった。
成瀬が西園寺や七条と話した事だって、入学してからの1年と少しの間よりも、啓太がやってきてからの数ヶ月の方が、よっぽど多い。成瀬が会計部の二人の事を考える未来があるなんて、あの当時は、想像すらできなかっただろう。
彼はただ、その存在で、人々の流れを変えていく。周囲の人々を惹き付ける。それこそが、彼の才能なのかもしれない。彼の力を理解していないのは、多分、彼自身だけだ。本当に彼本人が言うように、取り柄が運の良さだけだったら、あの退学騒動の折、あんなにも人々の協力を集めて、学園に残る事なんて、できはしなかっただろう。
「…啓太は凄いな…」
だけど、彼にはそんな成瀬の心情など、伝わっている訳もない。素直に戸惑いを映した瞳を幾度か瞬いて、彼はへにゃりとはにかむように笑う。
「もー、訳判んないですよ、成瀬さん」
相変わらずの自覚のなさで、だけどそれもいいのかもしれない。周囲を巻き込む影響力、なんて、諸刃の剣となりうるものを持つ彼を、それとなく護ってあげられるのも嬉しい。
啓太は、用意した湯飲みを、室内にいるもう一人の人物、彼がまた、多大な影響を及ぼしたに違いない人物の前に置く。
「どうぞ、中嶋さん」
先程から、一言も発さない男は、無言のまま、啓太の差し出した湯飲みを取った。その姿がまるで関白亭主みたいだ、なんて思ってしまって、そんな己の想像に、成瀬はちょっとむっとする。
彼こそが、啓太による変化を最も喜ばないだろうと思っていた人物の筆頭であったので。
そういえば、先程、会計部の、明確に言うならば、七条の話題が出たというのに、何の反応も示さなかった。それもまた、不気味でならない。
そんな名前すら、耳にするのも汚らわしい、と公言して憚らない、不倶戴天の仇敵であったはずなのに。
そんな疑念は、当初持っていたはずの疑惑をも共に浮上させる。彼らが、何故、今、ここに現れたのか。
「…中嶋副会長…」
中嶋が、顔を上げる。まっすぐに成瀬を見つめる、全く感情の読めない常の瞳に、成瀬はつい、続く言葉を飲み込みかける。
その時。
窓を引き開ける音と共に、大きくなった鼻歌が部屋に割って入った。
「あー、いい湯だったぜ」
まさに、ご満悦、とでもいったようなその声。途端に部屋の空気は賑やかな、どこか華やいだものへと変化する。彼は、啓太とはまた違う意味で、周囲の人々を惹き付ける。
成瀬は、カリスマであるが故の彼の傍若無人さが、あまり好きではなかったのだが、それでも、彼のその力量は認めている。不承不承ではあるけれど。
「何だ、お前ら、いいもん飲んでるな」
「王様の分は、冷やしましょうか?」
湯上がりだから、と笑いながら、啓太は立ち上がる。備え付けの冷蔵庫から、氷を持ってくるつもりなのだろう。
「おう。お前らも風呂、早く入っちまえよ。そしたら、射的行こうぜ」
お前ら来る前に、この辺、歩き回って、見つけたんだ。
楽しそうに、子供のように笑う。
「射的!俺、やった事ないです!」
氷を抱えた啓太は、小走りに戻ってきた。輝くような、満面の笑みを浮かべて。
「…あ、でも…」
啓太が首を横に振るより前に、成瀬は言った。
「僕もやった事ないよ。面白そうだね」
成瀬さんは、足を怪我してるんだから、あんまり歩き回るのは駄目です、との断りの言葉を封じられた啓太は、びっくり眼を瞬く。
そんな啓太に微笑みかけて。
丹羽と啓太は、どこか似た者同士で。まるで親子か兄弟みたいで。啓太が丹羽のことをとても好きなのはよく判っているから。
君が楽しそうなら、僕も嬉しい。
啓太はいつだって、成瀬に新たな発見をさせてくれる。こんな心の暖かさも幸せも、それもみんな、彼故に、だったのだけれど。
「おー。遅い奴は、置いてっちまうぞー」
「…だから、別に待っていただかなくても」
だけど、ごめんよ。君の好きな人を好きになれるほどには、心は広くないみたいだ。
「お前ら、一緒に入ってきちまえば?その方が早いだろ?」
…いや。でも、そんなに嫌いでもない、かな。



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