温泉にいこう +++ act.7


さあ Paradise Believer 楽園を探そう
子供の頃に描いた夢をたよりに

パラダイス・ビリーバー/松岡英明



啓太は怒っていた。それはもう、怒っていた。これ以上ないというくらい、怒っていた。
「…俺、怒ってるんですよ、成瀬さん」
「…ああ。ごめんよ、ハニー」
そして、成瀬は困っていた。困り果てていた。
「笑いながら謝るの、止めて下さい!てか、悪いと思ってないでしょー!」
真っ赤になって怒る啓太が可愛くて、なんて言ったら、きっともっと怒るんだろうと思いながら、それでも、可愛くて可愛くて仕方がない。だって、彼が怒っているには、成瀬が彼を抱いて走ったりしたから。恥ずかしがり屋の彼だから、人前で抱き上げられて、みんなに見られて恥ずかしい、とそう言って、怒っているのだと、当初は思っていたのに。
「怪我してるんですよ、成瀬さんは!判ってるんですかーっ」
啓太は、成瀬のために怒っているのだ。成瀬が自分を大事にしていない、と。こんなに顔を真っ赤にする程に。
ああ、本当に。
ぎゅーっと力一杯抱き締めたくて。だけど、それをしたら、啓太はもっと怒るんだろうと容易に想像がついて。それでも、やっぱり抱き締めたくて。
普段だって心地よいけれど、自分のために怒ってくれる啓太の小言は、何よりも甘美で。
つい、うっとりと聞き惚れそうになってしまう成瀬は、そんな自分に、ほとほと困り果てていたのだった。



「…全く、もー」
成瀬にどんなに怒っても、暖簾に腕押し、糠に釘。結局、啓太は諦めるしかないのだ。
途中で奪われてしまった荷物も、せめて自分のものだけでも、と取り返し、現在、各々、自分の荷物を自分で持った彼らは、駅前のバス停に向かって歩いている。
ここから宿まで、バスに乗って、20分くらい、とパンフレットにはあるのだが、駅前からでも、既に山は随分と近い。
鄙びた雰囲気の商店が並ぶ駅周辺も、見ていて楽しい。帰りはこのあたりでお土産を買うのもいいかもしれない。
周囲をきょろきょろと見渡しながら、嬉しそうに微笑む啓太の前に。
にょっきり、と差し出されたものがあった。
「みかんソフトクリームだって。美味しそうだろう?」
成瀬の指した方向には、確かに『みかんソフトクリーム』の幟が立っている。ご当地特産品を使ったソフトなりアイスなりは、旅行先では定番といえるものではあったけれど、啓太はこういったものが大好きだった。それはもう、出先でこの類のものを見つけたら、食べるのが当然、常識、使命である、と言い切って過言ではないくらい。
ちろり、と。
上目遣いに見上げると、にっこり笑った成瀬の顔。
「さっきのお詫びと、心配してくれたお礼。受け取ってくれるかな?」
目の前には、綺麗なみかん色のソフトクリーム。
そして、啓太の口からは、あまり重くない溜息がひとつ。
「本当に反省してますよね?」
「勿論だよ」
返答がとっても早かったのが、気になるところだったのだけれど。
「…だったら、いただきます」
鹿爪らしい顔を作って、粛々と、啓太は魅惑的な賄賂を受け取ったのだった。



啓太がソフトクリームを食べる間に、バスは一台行ってしまったけれど、「別に急いでないんだから」と成瀬は軽く言った。人に負担を掛けない言い方が自然にできる。この人のこういうところは、やっぱり好きだなぁ、と思って、感謝の意も込めて、ソフトクリームを差し出した。
そうしたら、成瀬は絶句した、といった様子で。
「成瀬さんが買ってくれたんですから。味見です」
言い訳っぽく付け加えて。だけど、失敗したかもしれない。和希だったら、何も言わなくても、食べちゃうんだけど。
…普通、しないのかな。子供っぽかったかもしれない。
怖ず怖ずと、差し戻しかけたソフトクリームを引き留めるように、成瀬は啓太の手を握る。そして、そのまま、クリームに口を付けて。
「うん。美味しい」
輝くように、笑った。
「…それは、……よかったです…」
何だか、顔が火照ってきた。物凄く、恥ずかしい事をしでかしたような気がする。だけど、いつも和希としてるような事で。それが、何でこんなに恥ずかしいんだろう。
「…ハニー?どうしたの?気分でも悪くなった?」
「いえ、あの。…そういうんじゃ、なくて…」
「顔が赤いよ。少し風に当たっていこうか」
「いえ、その…」
「そんな時、バスに乗って、気持ち悪くなったら大変だからね」
「………あの…」
結局。
彼らがバスに乗ったのは、それから、3台ほど見送った後の事だった。



既に、彼らと同じ列車に乗っていた旅行者と思しき人もいない、明らかな地元民が何人か同乗したバスは、のんびりと坂道を上っていく。向かう先には、色づき始めた紅葉の赤に混じって、常緑の木々についた綺麗な橙色が見えた。ここは、古い温泉宿であると同時に、みかんの産地としても有名な場所なのだ。
啓太は、目を輝かせて、窓の外を見つめている。その顔色が、大分、平常に近くなっている事を見て取って、成瀬はそっと息を吐く。彼が元気になった事への安堵と、先程、ソフトクリームを差し出した彼の行動について。
彼が、あまりにも自然に差し出したそれは、明らかな慣れを思わせて。常日頃、その恩恵を一身に受けている人物もまた、容易に想像がついて。
要するに、ちょっと嫉妬してしまった訳なのである。
本当は、風に当たって気を落ち着けたかったのは、成瀬の方であったのだ。
我ながら、情けない。
啓太には、こんな気持ちは露程も知られたくないし、気づかれたくない。きっと彼は、気にしてしまうから。
こんなに相手を想う事なんて、今までなかった。
好きだと思った人は幾らもいた。可愛いと思った人も、一緒にいて楽しいと思った人も。けれど、大切だと思った人は彼だけだ。
啓太は、窓へと顔を寄せて、一心に外を見つめている。驚嘆と喜びとに顔を火照らせて。
ただそれだけで、成瀬も嬉しくなる。
自分はこんなに単純だっただろうか、と自問しつつ、しかし、それもまた、いいのだろう。彼によって、変えられるものであるならば。
バスは坂を上っていく。段々、山が近くなる。その中腹にある温泉宿が彼らの目的地。
列車で感じた視線も、今はない。つけられている、と感じたのも、やはり、気のせいであったのか。
取り越し苦労であったのならば、それでいい。安心して、彼と休日を楽しめるのだから。
目当てのバス停を告げる車掌の声に、啓太がぎゅっと降車ボタンを押す。ぽろりん、と、聞き慣れないメロディもまた、旅行にきたという気分を盛り上げる。目が合って、えへへ、と照れたように笑った啓太に、微笑みを返して。
そして、彼らはバスを降りる。二人のみを降ろして、再び、バスはゆっくりと走り出す。
目的地は、もうすぐそこだ。バス停から奥まった坂をほんの少し登ったところ。
しかし、そこには。
「………………え?」
「よう。遅かったじゃねぇか」
「…貴方達ですかっ」
言うべき言葉も見つからず、ただ呆然とするのみの啓太と、どこかに、やっぱり、という思いを滲ませ、怒りに満ちた視線も鋭い成瀬の前には。

「……え?何で、王様と中嶋さんが??」

学生会の会長と副会長、遠く学園島にいるはずの二人が揃って、すっかりくつろいだ様子の浴衣姿で立っていた、のだった。



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