温泉にいこう +++ act.5


さあ Paradise Believer 楽園を探そう
子供の頃に描いた夢をたよりに

パラダイス・ビリーバー/松岡英明



潮の匂いのしない風が、木々の緑を染め変える。そんな思いつきも、正しいのかもしれないと思う程、列車の窓越しに見る山の色合いは、学園島周辺とはまるで違って見える。
何を見るともなく、ぼんやりと顔を外へと向けた啓太の視界の中で、鮮やかに色づき初めた山肌は、ただ流れ、過ぎ去っていく。
結局、和希に会う事はできなかった。
彼もこの週末を外で過ごすのだと知って、何だかもやもやした気持ちを抱えたまま、まんじりともせずに朝を迎えて。
出かける前に和希の顔を見て、少しの時間だけでも和希と話して、「行ってきます」と「行ってらっしゃい」を一緒に言って、お互いに笑い合ったら、それで安心できるのではないかと思ったのに、そんな淡い期待はあっさりと打ち砕かれてしまった。
早朝、休日という事を鑑みても、一応、和希は起きているだろう時間帯、部屋の扉を叩いてみたが、ノックの音に返るひんやりとした沈黙は、確かに部屋の住人の不在を伝えていて。
多分、もっと早く訪ねればよかったのだろう。それとも、深夜の内に出てしまったのかもしれない。きっと和希は、啓太を起こさないように、と気を遣ってくれて、それで何も言わずに行ったのだ。
啓太が、朝早く寮を出るという事は知っていたから、ぎりぎりまで寝かせたままにしておこう、とでも思ったのだろうか。それは如何にも、和希らしい。
たった一泊の事なんだから、と思って?それも、和希らしいけれど。
だけど、胸のもやもやは晴れない。
そんなの叩き起こしてくれたらよかったのだ。
だって、ちょっとくらい寝不足になる事より、和希の顔を見る方が、ずっと大切なのなんて、当たり前じゃないか。
胸のつかえを吐き出すように、啓太はひとつ、溜息をつく。
和希に対する不満と、自身に対する嫌悪。
常日頃から、啓太は寝汚い。目覚まし時計も、しっかりベルのなるものを起床予定時刻の40分前にはセットしておかないと行けないし、それでも二度寝で寝過ごして、遅刻ギリギリに教室に飛び込む事だって日常茶飯事だ。それをよく知ってるから、だから、和希は気を遣う。
結局、啓太自身のせい。
吐く息は苦く、重い。
「6回目、だよ」
その時、不意に声が降ってきた。
苦笑を含んだ軽い物言いは、それでも優しさに満ちている。
啓太が顔を上げると、隣に座った成瀬が、その声音そのものの表情をして、啓太を見つめていた。
「さっきから、溜息ばかりだね。何か、心配事でもあった?僕と一緒じゃ退屈だったかな」
恥ずかしさに、啓太は顔を赤く染める。
俺ったら、なんてバカなんだろう。
隣には成瀬さんがいて。それは、旅行に一緒に行ってほしい、と啓太が頼んだからで。
それでいて、自分は遠くを見ては溜息ばかりだなんて、そんなの成瀬さんに失礼すぎる。
つき合ってもらっているのに気を遣わせて、そんなの最低じゃないか。
「ごめんなさい。そんなんじゃないんです。ただ、やっぱり朝早かったから、頭がぼんやりしてるみたいで」
朝って弱くて、と、ふにゃりと笑って頭を掻いたら、それに併せるようにして成瀬も微笑う。
「成瀬さんは、朝強そうですよね」
「遠征に出かける時は、まだ夜も明けてないって事もあるからね。自然と、そうなっちゃったみたいだよ」
「…凄いですね」
啓太の素直な尊敬に満ちた眼差しに、成瀬はまた、微笑った。
啓太の上の空を気づかなかった訳はないのに、彼はその微笑みで許してくれる。
こんな時、本当に成瀬は大人なのだとそう思う。相手に負担に思わせないで、何も言葉にしないまま、場の空気を和ませてしまう。とても、心の広い人なのだ。
本当に、ごく自然にこんな風に相手に接せられたら、とても素敵だと思う。
「啓太は、よっぽど、朝が駄目なんだね?」
「そうなんです。何でなんだろう。ちゃんと目覚ましもセットしてるのに、いつの間にか止めちゃうしなぁ」
悔しそうに息を吐く啓太に、甘く微笑んで。
「これからは、毎朝、僕が起こしに行ってあげようか?ハニーの寝顔、可愛いだろうな」
囁く声まで、シロップみたい。
思わず、啓太は頬を赤く染める。
「もー。そういう冗談、止めて下さいよー」
成瀬のこういうところは、やっぱり、ちょっと苦手なんだけれど。



「…ねぇ、ハニー。何か見られてるような気がしないかい?」
「そんなの、さっきから、ずっとですよ、成瀬さん…」
それでなくても、成瀬は目立つ。鍛えた長身、甘いマスク。しかも、テニス界では知る人ぞ知る有名選手。その彼が、お手製と思しき弁当を取り出し、隣の少年相手に細々と世話を焼いているのだから、先程から注目など嫌という程集めまくりだ。
常日頃から、人々の注目を集める事に慣れきっているからか、それとも、そもそもの性格なのか、成瀬はそんな周囲の視線など、歯牙にも掛けない。故に、一緒にいるだけの己が気にするのも変な話かと、顔を赤く染めたまま、周囲からちらちらと送られる視線や囁きに、何も見えない聞こえない、と自身に言い聞かせて、それでも黙々と弁当を頬張っていた啓太…意地汚いといわれても、成瀬の料理はどうしたって美味しいのだ!…は、ちょっと唇を尖らせる。
しかし、そんな啓太に対して、成瀬はきっぱりと首を横に振った。
「いや。そういうんじゃなくて、ね」
学園を出てから、遠く近く、それはずっと感じていた。
物見高い聴衆の目、といったものではなく、それは言うなれば、観察、あるいは監視。
そんな目的のみが察せられる、注視。
先程から、何も気づいていない振りをして、緩く周囲に視線を向けると、ふいと逸らされる。だけど、しばらくすると再び、彼らへと据えられる、それ。
「成瀬さん?」
「んー。やっぱり、気のせいかな」
だけど、啓太が知ったら、気にするか、あるいは怯えさせてしまうかもしれない。
疾走する列車の中、今、この場から逃げるという訳にもいかないだろうし、もうしばらくは、様子見、といったところかな。
成瀬は、慈愛たっぷりの笑顔で、目の前の愛しい少年へと向き直った。
「その卵焼き、味はどう?出汁にちょっと凝ってみたんだよ」



 ◆→ NEXT






 ◆◆ INDEX〜FREUD