温泉にいこう +++ act.3


さあ Paradise Believer 楽園を探そう
子供の頃に描いた夢をたよりに

パラダイス・ビリーバー/松岡英明



生まれた瞬間から、和希は鈴菱の直系としての人生を運命づけられていた。
手を伸ばせば、大抵のものは手に入った。だけど、本当に望んで手に入れたものなんか、今までひとつもなかった。気まぐれに手を伸ばして、そして、簡単に放り捨てる。大切なものなんか、存在しなかった。あの夏の日、小さな一人の子供に出会うまでは。

『お兄ちゃん。淋しいの?』

そんな事を、鈴菱である和希に言った者など、今まで何処にもいなかった。どこまでも素直な真っ直ぐな瞳で、あの子供は、和希自身も気づかなかった心に踏み込んだ。それは当初、彼にとっては、弱点そのものである柔らかな部分を、土足で踏み荒らすが如き所行に思えて。
初めは、彼の事を邪険に扱ったと思う。これ以上、自身に近寄らせたくなくて、あの未だ何処か乳臭い体臭も、子供特有の高い体温も、ぺったりとした手の感触も、全てが嫌で、苛ついて。
それが、何よりも大切なものになったのは、いつからだっただろう。

『お兄ちゃん。淋しいの?』

全てを得られる立場にいて、それでも、本当には何も得られない。多分、当時の和希が欲しかったのは、両親の愛、とか、周囲の人々の気遣い、とか、ふとした優しさ、とか。そんな形にならないものばかりで。
感傷的な自分を嘲笑いながらも、子供の無邪気で残酷な問いに対する答えもまた、持ち合わせていない。そうだ、と肯定するにも、いいや、と否定するにも、プライドが高すぎて。
ただ、子供の手を握りしめて、歩いた。子供のはしゃいだような甲高い声。小さく湿った手の感触。高い体温。乳臭く、甘い匂い。


涙が、出そうに、なった。


本当に欲しかったのは、形にならないもの。鈴菱の力では、決して手に入らないもの。
愛、とか、気遣い、とか、優しさ、とか。
それが、確かに手の中にあった。あの瞬間。
大切なのは、血の繋がりなんかじゃなくて。
気持ちが繋がっていること。相手を思いやる気持ち。愛されたいと思う以上に、愛したいと思う心。
『家族』を自分で選んで、何が悪いというのだろう。
自身が望んだ、唯一のもの。
絶対に手に入れようと、あの時、決めた。
そのために、和希は考えた。そもそも、和希にとって、考える、という事は、習い性であり、生活であり、鈴菱和希というパーソナリティそのものであるといってよかった。
考える事。感情に囚われない事。行動を抑制する事。己自身を支配できない者に、他者を支配する事などできはしないのだから。
そして、策を講じ、自身にとって、鈴菱にとって、最も利益となるよう、取り計らう事。
鈴菱に連なる者として、経営者として、支配者として、幼い日々より叩き込まれた帝王学。
鈴菱和希は、ずっとそんな方法しか知らなかったのだ。
だから。
その思想に従って、まるっきり子供の彼を騙すみたいにして、他に選ぶ道なんかないように、和希の事しか目に入らないようにして。
そうして、彼を手に入れた。
その事を、鈴菱和希は、当然だ、と嘯き、遠藤和希は、ほんの少しの胸の痛みを覚える。
和希にとって、遠藤和希は、なり得なかった自分。彼が、鈴菱という名を背負っていなければ、ごくふつうの子供、少年、青年となっていたら、こうなっていただろう、こうなりたかった自分。
啓太のような子と親友になり、そして、こんな時、啓太が感じるだろう良心の咎めもまた、同じように感じる。
善良な、子供。

大切にしたいのだ。
手の中に囲って、冷たい風なんか絶対、当てないように。どんなものからも護ってあげる。
今の己には、それだけの力があるから。
だから、ここにいてほしい。ずっと、この腕の中にいて。
もう握りしめた手を、決して離しはしないから。

だけど、あの子は、和希の願い通りに大人しくなんてしていてくれない。
自分で立って、自分で歩いて、そして、己の思うままに走っていく。あの日、つまらなそうに本を開いていた和希に向かって、一直線に走り寄って来た時のように。

啓太は言った。明るく笑って。
『…あのさ。心配しなくて、大丈夫だから。週末一泊だけだし、成瀬さんも一緒なんだし』
成瀬さんも一緒『だから』、心配なんだ、と。
判ってくれない可愛い恋人に、和希はふと、不安になる。
…俺の事、恋人だって、思ってくれてるのかな…。

まるっきり子供の彼を騙すみたいにして、他に選ぶ道なんかないように、和希の事しか目に入らないようにして。
そうして、彼を手に入れた。
そんな事、負い目になんか思わない。絶対、手に入れたいものを確実に手にするためだったら、それくらい当然なのだから。
だけど。
「…まだまだ青いな、俺も…」
吐く息は長く、重かった。



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