温泉にいこう +++ act.23


さあ Paradise Believer 楽園を探そう
子供の頃に描いた夢をたよりに

パラダイス・ビリーバー/松岡英明



別に、ショックだったという訳ではなかった。判っていた事だから。いや、本当はショックだったのかもしれない。少なくとも、ベンチに座ったままでよかったと思った。力の抜けた膝を抱えて、その場にへたり込むような羽目には陥らなかった。
「………そっか…」
これで、啓太の片思いは確定してしまった訳なのだ。
夕焼け混じりの秋の空は妙に美しくて、何だかなぁ、と思ったりする。もしかしなくても、失恋してしまったというのに、胸を掻きむしられるような苦しみとか、大号泣とか、ドラマチックな感情の昂ぶりは一切なくて、ただただ、ぽっかりと、どこかに穴が空いたといった感じだった。
どうしようかなぁ、なんて思いながら、空を見上げる。ああ、雲もオレンジ色だ。
ぼんやりとしたままの啓太を他所に、どうやら何かを吹っ切ったらしい和希は、独白モードに突入していた。どうせなら、最後まで言ってしまおう、という事か、あるいはやけくそか。
「夏、初めて出会った時から、俺は、小さい啓太を弟みたいに思ってて。家族にするんだって決めてた」
妙にさばさばとした口調で、はっきりと言い切った。
そうか。そんなに前から、決めちゃってたんだ。というか、そんなに前から、望みゼロってやつだったんだ。
流石に、ここまで来ると、ちょっぴり悲しいかもしれない。
「俺は、啓太にとって、何よりも近い存在になろうと決めてたから。弟にするのが一番だと思ってた」
己の今までの独り相撲っぷりに、ほんのり涙ぐみそうになっていた啓太は、心の中で軽く小首を傾げる。
「学園に呼んだ時も、ずっとそのつもりだったよ。啓太は俺が護ろうって。だって、啓太は俺のだから」
何やら、和希の言は、啓太の予想を遙かに超えたところを進みつつあるように思える。
「だけど、小さくない啓太に初めて会った時。啓太、俺に笑ってくれただろう?」
季節外れの転校生が、妙に存在感のある上級生に教室まで案内されて。すっかり緊張していた啓太に、笑いかけてくれたのは、和希の方だった。その笑顔に惹き付けられたのは、啓太の方だった。慰めと優しさといっぱいの好意の詰まった微笑みは、啓太をすっかり満たしてくれたのだ。
「あの笑顔を全部、独り占めしたくなって。俺にだけ、笑って欲しくなって。少し、人生設計を修正する事にしたんだ。弟にするのは止めて、奥さんにしようかなって」
「……………………………………………………………はい?」
「まぁ、それでも、家族にするっていう計画に支障はない訳だし」
「………………もしもし。和希さん?」
弟から奥さんって、なんだそりゃ。お前は、光源氏か。
と、心の奥底で突っ込む啓太は、ちょっと混乱している。
そもそも、己と若紫との間には、性別という大きな壁があったりするのだが、それはスルーである。
全く知らないうちに、色々なことを勝手に決められちゃってた事に、口をあんぐりとさせるのみの啓太を置いて、和希は更に突っ走る。
「なのに、何で、今になって、俺が啓太のことを好きじゃないなんて言うんだ。俺は、啓太を護りたかったのに、啓太は護られたくないっていう。じゃあ、俺にどうしろっていうんだよ」
人を魅了して、操る。男惚れに惚れさせる、というのは、人の上に立つ者として、当然持つべき技量だ。
人を惹き付ける事はできる。掴んだ目を逸らさせない方法も知っている。相手を萎縮させる技術とリラックスさせる技術。鈴菱を名乗る者として、和希は全て教わった。だけど、こんな時どうしたらいいのか、ここにいてほしい相手が、どうしたら自分のものになってくれるのか。
それは教えてくれなかった。ただのひとりも。

感情を昂ぶらせた和希が、切れた息と共に吐いた言葉は、暫し周囲を漂った。それは、確かに和希の本音。何よりも、啓太が聞きたい、知りたいと欲した言葉と、その片鱗で。

今まで、和希は啓太に対して、ろくに怒ったこともなかった。いつだって優しくて、鷹揚で。それが今、和希を本気で怒らせて、和希は啓太を嫌いになるかもしれない、と思うくらい怒らせて。
と思っていたのだが。
どうも、これはそういうものじゃなくて。
「…逆ギレかよ…」
癇癪を起こしているってやつだ。
呆れ返った啓太の前で、更に和希の独白は続く。
「何で、啓太は俺を信じてくれないんだろうと思ったけど、信じられなくて当たり前だよな。俺が啓太でも、やっぱり、こんな奴、信じないと思うし」
だけど、仕方ないじゃないか。そういうやり方で、今までずっとやってきたんだから。
今更、変えようなんかないんだ。
もう、無理なんだ。

その上、拗ねるのかよ…。

妙にウェットになってきた空気を、冷たい風が攫っていった。
これまで、和希はずっと大人だった。優しくて大きくて、余裕があって。いつも、啓太を包んでくれた。
なのに、今の和希は、まるで。
「…おい、和希?」
「だけど、俺は、啓太が欲しいんだ」
まるで、まるっきり、子供のようだ。
「ずっと傍にいて欲しいのに、どうしたらいいんだ?どうしたら、一緒にいてくれる?」

啓太よりも、ずっとずっと幼い、こども。

ちゃんと自覚しなくちゃいけないんだと思った。和希に子供扱いされても、仕方がないんだと。
だって、俺は本当に子供だし、我が儘なんだ。子供扱いされたって、当たり前なんだと。
だけど、大人だったら、今の正直な気持ちを伝えられない。だから、子供でもいいんじゃないかと思う。我が儘で自分勝手な子供だから、できる事だってあるのだから。
まずは、初めの第一歩。
啓太は、にじにじと、和希の座るベンチ中央に向けて、いざり寄る。冷たい風の抜けるスペースを埋めたら、少し暖かい。
「和希、俺のこと、好き?」
身を乗り出して、顔を寄せたら、和希が恨みがましい目を向けた。まだ言うのか、と。
「ああ、好きだよ。この気持ちが『好き』ってものじゃなかったら、どれが『好き』って事なんだってくらい。啓太の事が好きだよ」
えへへ、と笑って。更に寄る。更に風は通らなくなって、いよいよ、体は温かい。
「啓太は?」
和希が、不機嫌そうな視線のまま、啓太を軽く睨んでみせる。
「俺にばっかり、言わせるのは狡いぞ」
むくれた顔が可愛くて。啓太の胸を、きゅうっと締め付ける。
和希の方が、絶対、狡い。
「大好き。和希より大切な人なんて、いないくらい。和希が一番、好き」
背中にぎゅうぎゅうとしがみついて。もう、二人の間に通れる風なんか、どこにもない。
俺の方が、もっと好き。俺の方が、と互いに言い合う二人は、紛う方なきバカップルだったけれど、幸いにして、二人を見咎める者もいない、休日の学園。黄昏時の仄暗さが、二人の影を隠してくれる。
手を繋いで。笑いあって。髪を撫でて。頬をくっつけあって。
それだけで、胸が温かくなる。こんなに幸せなことなんかない、とそう思える。

本当は、今でもわからない。和希が、どんな風に啓太を好きでいてくれるのか、なんて。
多分、和希自身にだって、判ってない。今回の件で、今まで思っていたよりもずっとずっと、和希は子供っぽいんだということを、啓太は知ってしまった。
実際、家族だったら一番近い、なんて、ものすごくストレートだ。
だけど。

啓太は、くすくす笑う。

だけど、好きだと言ってくれるから。それが和希にとって、最上級なんだって、今では判ってるから。
そんなに、問題は大きくないんじゃないかな。
だって、これから、俺のことを、恋人みたいに好きにさせればいいんだし。

茜がかった空は、夜の藍を帯びて、不思議な紫の色。空には薄い月が浮いている。
そういえば、今日は満月だったっけ、なんて思って。今日の月は、和希と一緒に見られるんだな、と思ったら、妙に浮き浮きとした気分。


絶対に手に入れたいと思った人だから。

諦める、なんて、論外です。

これから、ずっと家族みたいに傍にいて。

まだまだ、時間はいっぱいあるから。


「啓太。何か可笑しい?」
「だって、和希ったら、『奥さん』ってさー」
ちょっと頬を膨らませた和希に、啓太は更に笑う。
「俺、男なんだから。『奥さん』になるんだったら、和希の方だろー?裁縫だってできるんだし」
突っ込みどころ満載の啓太の言に、今度は和希がほんわかと微笑う。
「じゃあ、啓太が俺をもらってくれる?」
軽く、冗談めかしてそう言ったら。
「うん。いいよ」
啓太は、あっさり頷いた。
「じゃあ、もう和希は俺のだよな」
そんな風に、嬉しそうに、啓太が笑うから。
「…うん。啓太だけのものにして」
ぎゅっと、きつく抱きしめた。啓太が苦しいかもしれない、と思いながら、それでも、絶対に離さないのだと、そう誓う。

絶対、手放さないと決めた、たった一人の人だから。






「痛いよ、和希」
背中をとんとんと軽く叩く。それでも、和希の背に回した腕は外さないまま。こうしていると暖かい。和希がいてくれるという事が、素直に嬉しい。和希の胸元に顔を寄せて、えへへ、と笑う。そうしたら、もう一度、和希はぎゅっと抱きしめて。
「…もー、これ以上なんて、無理っぽい…」
ぽつり。そう呟いた。
「あのね、啓太。俺、今晩、啓太の部屋に行ってもいい?」
「へ?」
それは、明日締め切りの課題が、とか、数学の予習を、とか。そういう事じゃない、のかな?やっぱり。いや、だけど。
「啓太も帰ってきたばっかりで、疲れてるかな、とは思うけど。ちょっと我慢できそうにない」
「…和希、そういうの、したいの?」
つい、口をついて出た。…何だか、即物的な言葉が。
「いや、だって。今まで、全然、そんなのなかったから…」
ぷるぷると頭を横に振る啓太に、和希はあっさりと返す。
「うん。今まではね。がっついたら、啓太に嫌われるかなー、と思ってたんだけど。啓太、『嫌いにならない』って言ってくれたからさ」
頭のてっぺんに、キスを落とされて。

それって、それって、それってーーーー??

啓太の顔は、真っ赤に染まる。
「…嫌?」
甘くも艶やかな和希の微笑みに。
「………………………嫌じゃ、ない、です…」
何だか、罠に嵌められたかのような気がする。だけど。

こんなに幸せな罠なんだったら、それでもいいや、と思う自分は、やっぱり、流され体質なのかも知れない、と思ったり、した。



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