温泉にいこう +++ act.21


さあ Paradise Believer 楽園を探そう
子供の頃に描いた夢をたよりに

パラダイス・ビリーバー/松岡英明



滅茶苦茶に全力疾走で駆け抜けた。肺に入る冷たい空気が痛くて、息を吸う度に苦しくて、それでも足りない酸素を肺に取り込む。脇腹が引きつって、足がもつれて、それでも足を止めたくなくて、よろめいて倒れ込んだ。汗にまみれた顔を上げると、そこは学園の中庭で。
前も後ろも見ることなく、ただ、一心に突き進んできたはずなのに、結局、お気に入りの場所に来ている、そんな自分の単純さが可笑しくて。
涙が溢れた。
啓太は、怒っていた。悔しかった。悲しかった。それでも、嬉しかった。
そんな、全てがごちゃごちゃと入り交じって、自分でも何が何だか判らない、そんな感情は、それでも全部、たったひとりの人のため。
自分でも消化しきれない感情は、凝ってどろどろになって、頬を濡らす水は、後から後から湧いて出て、啓太は握り拳で己の顔を乱暴に擦る。
さっき、和希を殴りつけた拳だ。
和希が全部、計画していた事を知って、頭が真っ白になって、それでも沸々と湧いてきたのは、明らかな怒り。それは、悔しさに変わって、悲しみになって。そして、校門前で啓太を待っていた和希の姿を目にして、最後に残った感情は、喜び。
そんな自分の気持ちさえもが、悔しい。
和希に、自分の気持ちを伝えなくちゃ、なんて言って。中嶋に偉そうな事を言って。
結局、逃げてきてしまっている自分が、悔しい。
何とかまともに呼吸できるようになって、啓太は大きく息を吐いた。這うように、設置されたベンチへと移動して、崩れ落ちるようにして腰掛ける。
ひんやりとした風が、汗の滲む額を撫でた。
ほんのり夕闇の気配が漂う、日曜午後の学園は、どこか知らない場所のような顔をしている。
秋風に乗って遠く聞こえる、運動部の活動中らしい声だけが、唯一感じられる人の気配であり、ここが見慣れたいつもの学園なのだと証立てるかのようだった。
涙を服の袖で拭って、後は風に晒せば、汗と一緒に乾いていく。
最後に逃げてしまったけれど、全部を投げ出した訳じゃない。少なくとも、初めの一歩を踏み出すことはできた。言いたかった事も全部、まぁいいか、で呑み込んで、和希に対する事はもうできないから。
和希に会って、話さなくちゃいけないから。
啓太の気持ちを伝えなくちゃいけないから。
和希を捜しに行こう、と心に決めて、立ち上がる。顔を上げて、視線を投げたら。

そこに、和希の姿があった。



啓太が和希に気づいたのと同じように、和希も啓太がそこにいることに気づいた。渡り廊下から中庭へと慌てたように降りてくる。そんなに急がなくても、逃げたりしないのに、と思って、己が前科持ちである事を思い出す。
和希を殴って、逃亡した訳だから、また逃げると思われても当然か。
既に心を決めたからだろうか。我ながら、妙に落ち着いている。
だけど、ベンチから立ち上がった状態のまま、啓太はただ、ぼんやりと立ち尽くしている風に見えたかもしれない。
啓太の元へ辿り着いた和希は、髪は乱れてるし、汗まみれだし、上着も縒れた感じだし、随分、啓太を探して走り回ったのではないかと思われた。
だけど、和希は啓太を責めない。
「…もう、俺、運動不足かなぁ。格好悪い…」
膝に手をついて、息を弾ませて。
照れたように笑う。
そんな姿も可愛いなんて狡い。何だか、また誤魔化されてしまいそうで。
「…和希」
強いて、感情を交えないように、啓太は言った。和希が、らしくない啓太の様子に、不審げな顔して、それでも微笑むのを見て。
「俺のこと、ぶって」
きっぱりと、言った。



和希が、ぽかんと口を開けた。全く、予想通りの顔。
「俺は、和希をぶったんだから。和希は俺をぶたなくちゃ。やり返すのが、当然だろ?」
和希は、呆れたような顔をして。
「啓太、何言ってんの…」
それでも、宥めるように笑うから。子供をあやすみたいに笑うから。
汚れてるよ、と、啓太のズボンについた土を払おうとした和希の肩を突く。バランスを崩してたたらを踏んだけれど、和希は転んだりはしなかった。
「何で怒らないんだよ!」
感情が昂ぶって、せっかく止まっていた涙がまた湧き出しそうになって、啓太は唇を噛み締める。うんと唇をへの字に落として、目に力を入れて、和希を見据えて。
和希を睨み付けているように見えただろうに、やっぱり、和希は困ったように微笑う。
だから、何で!
言いたかったけれど、言っても多分、判ってはもらえないのだろう。
だって、自分でも思うのだ。まるで、子供のような事をしている、と。
思わず、その場にしゃがみ込んで、顔を伏せる。本当に、涙が零れてしまいそうだった。
和希を殴ったのは、半分くらいは八つ当たりだった。啓太は、それを知っていた。己が、和希に甘えているんだという事も気づいていた。和希にもたれ掛かった自分も理解していた。なのに今、和希に子供扱いされた事に、癇癪を起こしている。
和希はいつも、啓太に甘い。とても優しい。たまに怒るのだって、啓太が和希の手から離れた事をしようとした時だけだ。まるで、小さな子供に対するように。
まるで、保護者みたいに。自分の手の中に全てを収めていないと気が済まない、とでもいった風に。
「…俺は、和希に護られたくなんかない」
くぐもった声だった。俯いたまま発したその言葉は、それでも確かに、和希の耳に届いた。
啓太の肩にかけようと、伸ばしかけていた手は、その場に固まり、そして、戻された。何かを恐れるかのように。いかにも、ギクシャクとした様子で。
その手を握りしめ、俯いた和希に、啓太は気づかない。蹲って顔を伏せて、だけど目はしっかりと開いて、足元の石畳の綺麗に調えられた継ぎ目を見据えて、そこから視線は全く動かさなかったから。自身の気持ちに手一杯で、周囲に気を配る余裕もなくなっていたから。
俺は子供だ。自分勝手だし、我が儘だ。よく判っているけれど、子供扱いされたくなかった。和希にだけは。
その理由も、今では判る。全く、目に入らなかった時分があったという事が信じられないくらい、それは明白だった。
和希は、最初に会った時からずっと、優しかった。親切だった。啓太の事を好きになろうと、決めていたみたいだった。
多分、どこかで気づいていた。
和希にとって、啓太は昔、夏の日を共に過ごした子供で、何故だか気に入ってくれたらしい子供で、だから、今の啓太を好きになってくれたのだと。
だから、大人になりたかった。夏の子供じゃなくて、秋も冬も、ずっと和希と一緒にいる存在になりたかった。和希の隣にいてもいいんだと、誰もが認めてくれるような、何よりも和希が認めてくれるような、そんな人になりたかった。
結局、無理だった訳だけれど。
握った拳で目を擦って、鼻を擦って、滲みかけた涙を拭い去る。せめて、笑顔を見せたい。和希はずっと、啓太の笑顔が好きだと、そう言っていたから。
顔を上げて、にっこり笑って。和希は、何故か動揺した風な顔をしている。どこか、引きつったりしてしまっただろうか。口の端を持ち上げて。大丈夫。ちゃんと笑えている、と思う。
「あのね、和希。俺、聞いてほしい事があるんだ…」

感情的になったりしないで、最後まで、ちゃんと話せますように。



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