温泉にいこう +++ act.20


さあ Paradise Believer 楽園を探そう
子供の頃に描いた夢をたよりに

パラダイス・ビリーバー/松岡英明



「しかし、また、綺麗に入ったものだな」
まぁ、全くの無防備だったからな、と呟く男に対して、未だ脇腹を抱えて蹲る和希は、仄暗い殺意を覚える。
「…アレは、貴方の、差し金ですか…」
駆け寄った勢いのまま、和希を殴りつけるという、通り魔的犯行に及んだ啓太は、まさに通り魔の如く、もの凄い勢いで走り去っていった。今、和希の目に映るのは、性格上の問題はあるにせよ、滅法有能な学園の参謀中嶋の、常の如くの冷静な顔だけだ。
「さぁ。どうだろうな」
ついと眼鏡を押し上げて。
普段、和希は中嶋を好もしく思っている。
常に計算に於いて、状況を動かそうとする彼は、鈴菱和希と同類だから。
そして、同時に嫌悪し、忌避したくもなるのだ。彼が、鈴菱和希と同類だから。
幾度か、深く呼吸して、脇腹を庇わなくても立てる事、発する声が震えぬ事、目の前の相手に対して、無様を晒す事がないことを確認して、そして、和希は立ち上がる。
それを待っていたように、中嶋が口を開いた。
「今回の件に関しては、伊藤が怒っても、それは正統な権利のように思えるが?」
「…啓太にばらした、という事ですね」
和希の低い呟きに対する、肯定も否定もなかった。そもそも、言及するにも値しない。和希は、中嶋がそうしたという事を、既に知っているのだから。
「啓太に対しては、随分と親切なんだね」
皮肉にまみれた言に、中嶋が一瞬なりと本心を面に出したのは、それが遠藤ではなく、鈴菱和希の言葉であったからかもしれない。
大抵の人間は、中嶋の引いた設計図の中で、中嶋の書いた計略通りに動く。中嶋の予想を逸脱して動く者など、まずいない。だけど、伊藤啓太という少年は、違っていた。
まるで、目に見えるようなその成り行きを、和希は皮肉に思う。
啓太は、思いも寄らない動きを見せて、脳裏にあるゲームボード上から、あっという間に外れてしまう。始終、傍らでルートを修正してやらなければ、予定通りに動いてはくれない。
それを不快に思うか、興味深く思うか、どちらかだ。無関心である事だけは、あり得ない。
まさに、和希自身がそうであったように。
虚を突かれたといった風な中嶋は、年齢なりの、高校生であり、子供であるように見えた。くすりと洩らした和希の笑いに、一瞬にしていつもの仮面がかけられてしまったけれど。
「そうだな」
中嶋が、口角を吊り上げる。挑発的な、作られた、冷笑。
「アレは、とても面白い。俺の物にしてやってもいいと思うくらいには、な」
それもまた、たっぷりと皮肉を孕んではいたけれども、恐らくは本音。だけど。
半分は、嘘。
彼は、啓太を気に入っている。当人は無意識なのだろうけれど、啓太に対しては存外と当たりが柔らかい。優しいといってもいい程に。
彼が言うように、ただ啓太を自分の『物』にしたいだけだったら、彼をこんなにも危険視する事もなかったろうに。
和希は、小さく微笑んだ。その反応は、しかし、中嶋にとっては、望むものとは違ったのだろう、彼が不審そうに目を眇める。
彼の言葉が、全て本気だったなら、啓太の身辺警護だけで済む。それ以上に厄介なのは、中嶋の中に確かに存在する、啓太に対する感情、だ。
彼は、本当の意味で啓太を物扱いしていない。できない、といっていい。
そして啓太は、人から寄せられる好意を無下にできない。
中嶋からの本気の好意を感じたら、啓太は悩んで戸惑って、そして怖ず怖ずと腕を広げて、彼を受け入れてしまうだろう。
和希に対して、そうしたように。
だから。
「君が、そうであってくれて嬉しいよ」
中嶋が子供であること、己の高いプライドと引き替えに、欲しいものを得る事を選べる程に大人ではないことは、和希にとっては、僥倖なのだ。
この上なく上品に、ついてもいない膝の汚れを払って、和希は中嶋に向き直る。嫣然と、何ものにも動じない微笑みを浮かべたまま。
その様は明らかに、啓太の同級生である一年生の遠藤ではない。中嶋は、軽く目を細めて。
「………理事長?」
言葉の調子を改めた。しかし、傲岸な微笑のままでのそれは、慇懃無礼そのものだ。
「今回は、ご苦労だったね。感謝しているよ」
それらを全て受け流して。感情を全部覆い隠す事には自信がある。それくらいの技能と厚顔さは、持ち合わせている。
「勿論、お礼はさせてもらうよ。私の権限で、幾つか便宜を図る事はできるしね。前回、学生会から提出されて、差し戻しになった要望書の件では、どうだい?」
瞬間、中嶋の視線が鋭く引き締まった。
「結構だ」
再度検討の上、改訂して再提出の予定。そう、啓太が言っていた。『理事会から戻された書類をどう修正するかで、中嶋さんがかかり切りだったんだ』と。
多分、今度は通るよ、と、まるで自分のことのように、嬉しそうに言っていた。
「そう?じゃあ、何がいいかな。鈴菱本社の法務部の席、なんていうのも、いいかも知れないね。勿論、大学を出てからの事になるけど、君くらい優秀だったら…」
中嶋の顔を、何気ない風に見て、そして、軽く息を吐いてみせる。
「気に入らないみたいだね」
挙げた己の提案が、彼の自尊心を傷つけると、当然、判って言っている。
「重ねて言わせて貰うが」
感情の全く篭もらない声で、中嶋は続けた。
「礼など、一切、受け取る気はない」
分かり切った答えだった。
「そう。残念だよ」
故に、和希もまた、重ねて問うこともなく、頷いた。
「できれば、受け取ってもらいたかったんだけどね」
そうすれば、彼が啓太の上に感情を残さない、と判断できた。自身の利益のために、啓太につき合っているのだ、と。啓太にそれとなく、言って聞かせる事もできた。
啓太は傷つくだろうし、泣くかもしれない。けれど、それで中嶋の存在を彼の中から葬り去れるのならば、安いものだ。その分、和希の存在が深くなる、深くさせる自信もあったのだけれど。
「本当に、残念だ…」



「…喰えない男だ…」
後に残された中嶋は、舌打ちをひとつ。
その評価の対象は、勿論、先までここにいた男。
学園の理事長であり、研究所の所長であり。両施設を内包するこの島に張り巡らされた、管理システムの設計者。
鈴菱の、鈴菱による、鈴菱のための施設で成り立つこの島を、全てを有機的にシステムで繋がれたこの島を、あの男は、名実共に支配する。
『飾りものの御曹司』が、聞いて呆れる。
アレは化け物、妖怪の類だ。
一体、どこがいいというのか。全く、伊藤も趣味が悪い…。
似た者同士の男達にとって、まるでそれは自己評価にも似て。
しかし、中嶋は鼻先で小さく、笑う。
軽く嬲ってやるつもりではいたが、まさか相手が挑発に乗るとは思わなかった。
当人は、冷静なつもりでいたのだろうが、中嶋の目には、充分、彼の常ならなさが見て取れた。何よりも、普段だったら、一年生の遠藤としてしか、中嶋とは相対する事はなかっただろう。
売られた喧嘩を買ったのは、使われたネタが啓太であったから。
張られた分だけ打ち返して、ただそれだけで手を引いたのも、走り去った啓太を追うため。
キャスティングボートを握るのは、伊藤啓太という存在。
今頃は、啓太を探して、学園中を駆け回っているのか。あの男が、とそんな想像をしただけで、笑えてくる。
だから。
今はまだ。
あの男の弱みを、たったひとりの少年に振り回されるその様を、観察して楽しむだけで、満足しよう。
何しろ、相手は化け物で、こちらはしがない高校生。
いずれは反撃して叩き潰すにしても、まだまだ、こちらの分が悪い。
だから、今は。
まぁ、精々、頑張れ、と。
どこぞを走り回っているだろう二人に対して、思うのだ。

存外、人の良い己に半ば呆れながら。



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