温泉にいこう +++ act.2


さあ Paradise Believer 楽園を探そう
子供の頃に描いた夢をたよりに

パラダイス・ビリーバー/松岡英明



お子様だの、脳天気だのと云われる啓太も、少しは考えていたのだ。本当に、ほんの少しだったかもしれないが。
和希が啓太のことを一人前だと思っていない、とか、啓太の保護者のつもりでいるんじゃないか、とか。だけど、それじゃあ、恋人同士だなんてとても言えない。
だから、しっかりしたいと思ったし、和希に迷惑も掛けたくないと思った。心配なんかしてほしくなかったのだ。なのに。
成瀬が、如何にも嬉しそうな笑顔で、休み時間毎に彼らの教室を訪ねてくるのに反比例して、和希の口数は極端に少なくなっていき、昼休みが終わって教室に戻ると、遂にはその姿さえ、どこにも見えなくなっていた。
「え?遠藤?早退するって言ってたけど。伊藤、聞いてなかったのか?」
級友からの軽い返答に、啓太は一瞬、言葉に詰まる。朝は何も言っていなかった、という事は、急な用事ができたのか、それとも、そんなに怒っていたのだろうか。
啓太の顔も、これ以上見たくない程に?
前に、和希が言っていた。啓太は、思っている事が全て顔に出てしまう、と。
思いがけない和希の不在に、あからさまに顔色を変えてしまったのだろうか。「お前ら、喧嘩でもしたのか?」と、心配そうな顔を向けてくれる級友達に、啓太は何とかいつもの笑顔を作ってみせる。
彼らは、啓太と和希の本当の関係を知らない。二人を、とても仲のいい友人同士だと思っていて、それで二人の事を心配してくれる。
遠藤も、お前が帰ってくるまでくらい、待っててもいいのにな、と、和希に文句を付けながら啓太を慰めてくれる。彼らのそんな気持ちは、とても嬉しかった。

しっかりしたかった。迷惑を掛けたくなかった。心配させたくなかった。
自分に恥ずかしくない気持ちで、和希の前に立ちたかった。和希に嫌な思いをさせたかった訳では決してなくて。

本当に、ただ友達だったなら、気遣いも心配してくれる事も、こんなに嬉しい事なのに。



理事長室を軽くノックすると、返るはずのない応えがあった。第一秘書である彼は、軽く目を眇める。この部屋に自由に入室する事ができるのは、部屋の主とただ、彼自身だけであり、ならば当然、応えを返した人物は、部屋の主、当人でしかあり得ない訳で。
扉を開けて、例え誰もいない場合でもするように、きっちりと45度の敬礼から顔を上げると、今いるはずのない人が、そこにいた。
「未だ授業中だったのでは?」
彼が所属しているのは、通常学力の生徒の通うクラスだ。午後もきちんと授業はある。
未だ未成年の時分に、アメリカのビジネススクールで経済学の修士を取った人間にとって、いかに名門学園とはいえ、普通高校の授業など、何という事はなかったのだろうけれども。
不審と、多少の心配を含んだ秘書の言は、それでも、彼の耳に届いた様子はなかった。
重厚なマホガニーテーブルの向こうに腰掛けた、彼の年若い主、年に似合わぬ切れ者と名高い学園の理事長は、テーブルの上に鎮座したクマのぬいぐるみの手を取り、何やら一心に動かしている。
彼を知らぬ者がその姿を見たら、立派な腑抜けと思うだろう。
「…和希様」
クマの微妙な姿勢を細かく直していた和希は、結局、片手を上げさせる姿を取らせて、それに納得したものか、深く静かに息を吐くと、目の前の秘書に向き直る。
「週末の会合なんだが…」
ひどく真摯な視線だった。
「…理事長代理を代わりに出席させてくれないか」
「……………」
机の上では、当の理事長代理が元気よく手を挙げている。まるで「任せておいてくれ!」とでもいうかのように。
「………忌憚なく言わせて頂いても?」
「勿論」
いい、のか、悪い、のか。最後まで訊かぬうちに、彼は口を開いた。
「バカですか?」



「今回の貴方は、BL学園の理事ではありません。お父様のご名代でしょう。鈴菱総裁代理として、ぬいぐるみを参加させる気ですか、アナタ。日経連の会合を何だと思ってるんですか」
「因業じじいどもの集まり」
口を開き、また、口を閉じる。言葉は、何も出てこない。
「半世紀前から経営者やってる妖怪共からすりゃあ、そりゃ、俺は若造だろうよ。だけどな、あんな処に行ってるから、朱に交わって、俺は年寄り臭くなるんだぞ。啓太に『肩でも揉もうか』と言われた気持ちが、お前に判るか、判るのかーっ」
判りません、と。
はっきり言わない程度の同情は、目の前の主に持ち合わせていたのだが。
幼少のみぎりから神童の誉れも高い人だった。ひどく大人びた瞳をした、物わかりのいい子供で、鈴菱の若君として何不自由なく育った人だった。それが今。
『鈴菱和希』としては、青二才と侮られ、『遠藤和希』としては、若年寄と呼ばれ。
いつの間にやら、中間管理職の悲哀めいたものまで知る人となっている事に、妙な感慨を覚える。
鈴菱コンツェルン。この国で、一度は解体された制度故、鈴菱は既に財閥ではない。実際、戦前より続く、家長が企業の総帥でもある財閥であった方が、より穏当であり、平和的であったかもしれない。
現在の鈴菱では、一族の長が総帥となる訳ではない。
総帥となった者が、一族の長となるのだ。
世界第2位の経済大国であり、この世の富の2割を保有するこの国の、更に半分は、鈴菱の物であると云われる。合併、または乗っ取りを繰り返し、何もかもを飲み込む勢いで成長を続ける、まるでそれ自体、貪欲な生き物ででもあるかの如き、この巨大複合企業。その主になりたいと願わぬ者がいるだろうか。それが決して見果てぬ夢ではない、手を伸ばせば届くかもしれない、その資格を持つ血族の男達の中にあって。
現総帥の一人息子であり、紛う方なき、跡取り、といわれながら、この人が鈴菱を継げるという保証はなく、それでも、目の前の青年、鈴菱和希は、確かに鈴菱の総帥となる。
何よりも、彼自身がそう言ったのだから。
経営のノウハウを学ぶ、という名目で、この学園の運営を任されたのは、彼の倍は生きている鈴菱の血縁者達による、彼の総帥レースからの排除を目的とした陰謀で。
グループ企業の中でも、とりわけ、重要度の低いこの学園の理事長職に、彼は抗議ひとつせぬまま、納まった。
ベルリバティ・スクール。才能豊かな若者達を育てるという目的で設立された、学園。
ここで得られるのは、『鈴菱』に忠実な若者ではない。『鈴菱和希』の子飼いとなる部下だ、と。つまりは、お前の同僚だな、と。
目の前の若者が微笑うので。
総帥の地位を獲り、この鈴菱をロスチャイルドに比する程に育ててみせると嘯いた野心家の瞳は、彼を強烈に惹き付けた。この人のために、この野心のために身を尽くそう、と、そう彼は誓ったのだ。あの日、和希と共に、この学園へとやってきた日に。
だが、しかし。
最近、彼はちょっと疑っている。
本人曰く、自身の経営する学園の学生から見た内情を探るため、一生徒として学園に潜り込んだ、その目的は、本当はただの趣味だったのではあるまいかと。
「…それのどこがご不満です?気遣われてるんじゃありませんか」
この若者の中で、たったひとつ、大切な想いでくるみ込まれた少年の存在は、知っている。彼が何を言うでもなかったが、伊藤啓太という名の少年へと向けられた顔、この人のあんなに優しい顔を見たのは、長年、付き従ってきた彼をして、初めてであった。
あの少年を手元に置くようになってから、この人は変わった、と思う。色んな意味において。
柔らかく微笑うようになった。感情を面に出すようになった。人を利用する事も、簡単に切り捨てる事も滅多にしなくなった。有り体に言って、随分と人間臭くなった。
「俺は、気遣われたい訳じゃないんだ」
最近では、子供っぽくすらある事もある。まるで、自身が演じている学生の時分に戻ったかのように。…実際、彼が十代半ばの頃だって、決してこんな風ではなかったのであるが。
ぷい、と、ふて腐れたようにそっぽをむく。
彼の相手が女性でないのは、残念ではあったけれど…相手が少年では、どうしたって跡継ぎは望めないだろうから…、それでも、あの少年は、この人が初めて、そして、唯一、望んだ人間であったし、彼がひとりの人間として幸せになれる事が、最も大切なのだから。
「まぁ、どちらでも構いませんが」
つい、微笑みそうになってしまう口元を引き締める。
この人の力、力量を疑った事は、一瞬たりともない。
野心家の瞳をした、彼の主。近い未来、世界をもその手中に収めるであろう男。
「理事長代理の会合出席だけは、決して容認できませんので」
だけれど、この学園は、世間から隔絶された別世界。彼の主が、子供のように振る舞える場所。そして、彼自身が主を叱り飛ばす事を許される場所だ。
「絶対に、ご自身に出席して頂きます。ええ、首に縄を付けてでも、お連れしますとも」
学園では『クマちゃんの弟』で通る、別名『クマちゃん秘書』であるところの彼は。
にっこりと、凄絶に微笑った。



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