温泉にいこう +++ act.19


さあ Paradise Believer 楽園を探そう
子供の頃に描いた夢をたよりに

パラダイス・ビリーバー/松岡英明



遠く近く、鳥の囀る声がした。
爽やかに甘い香を含んだ風が、梢を揺らす。木々の緑、実りのオレンジ。そして、光を弾く遠い海。それは、誰の心をも和ませるだろう情景であったが、あいにく、そんなものどもに心を砕く余裕もない男達の前には、全くの無力であった。
「……………あの野郎…」
手の中の手紙をぐしゃりと握りつぶし、丹羽が呻く。
遅かった。後、30分早く辿り着いていたら、間に合ったかもしれないのに。
だが、それも全て、予想済みだったのだろう。丹羽と成瀬が仕事を終える事のできる時間を逆算して、行動を起こしたのに違いない。奴ならば、それくらいはやる。やってのける。
まるで、神か悪魔か、のような言われようだが、そこは当然、後者の方だ。何せ、中嶋だ。色んな意味で中嶋なのだ。
丹羽の手から、潰れた手紙を抜き取り、成瀬はそれに目を通す。
「…………中嶋さんですか」
しわくちゃになったその手紙を、更に握りつぶしそうな勢いに反して、成瀬は綺麗に紙を伸ばして、丁寧に畳みこむ。それが、明らかに中嶋の字ではない故に、つまりは啓太の手によって綴られたものだと思われるからだろう。
「ああ。中嶋の奴、やりやがった…」
文面は、全てが啓太の心情によって表されていた。自分の都合で先に帰る事、本当に申し訳なく思っている事、中嶋が同行してくれるのも、己に気を遣ってくれたからである事、等々。
『中嶋さんまで一緒に連れていってしまって、ごめんなさい』
最後には、そんな一文が添えられていた。
最初から最後まで、全面に、ごめんなさい、がのっていた。肩を丸めて、眉をハの字に落として、それでもこの手紙を書いた啓太の姿が、目に見えるようだった。
強制されて書いた文章じゃない。そもそも、中嶋にどうされたって、己の意に反したものを書く啓太ではないけれど。
だから、啓太は自分の足で、中嶋についていった。それは間違いない。
つまりは、中嶋が啓太を騙くらかして、連れていった事に間違いない。
激しく強引な三段論法だったが、その予測が100%正しい事を丹羽は確信している。
そして、それは本当に、100%正しい。
「で。どうするつもりですか?」
「『どうする』?そんなの、決まってんだろ」
成瀬は、丹羽を見つめた。丹羽は、成瀬を見つめた。二人は、互いの目の中に、ひとつの思いを見た。それは確かに覚えのある、まさに今、自身の目にも浮かんでいるだろうものと同じ色をしていた。
「追いかけるぞ!」
「追いかけましょう!」
勢いのままに、二人はがしりと互いの腕を突き合わせる。
完全に、体育会系のノリだった。
今、この時、二人の心は、確かにひとつになっていた。
二人が仲良くなればいいのに、との啓太の願いは、ある意味に於いては、聞き届けられていた。
いわゆる、悪魔の奸知によって。



さて。
その頃の悪魔、もとい中嶋と啓太である。
さしたる渋滞もなく、学園島まで一直線に進む車の中、当初は妙にはしゃいでいた啓太は、徐々に口数も少なくなり、俯きがちになり、そして、ついには黙り込んでしまった。そもそも、適当な相づちを打つ程度に啓太をあしらっていた中嶋は、己から口を開くこともない。車内は、完全な沈黙に包まれていた。
こうしている間にも、学園は、和希はどんどん近くなる。…いや。和希は出かけているのだ。まだ帰っていないという可能性もある。というよりも、帰っていないと思う方が自然なのではないだろうか?外に出て、しかも外泊する時の和希は、いつも遠出な事が多い。前回、帰ってきた時、お土産といってくれたチョコレートは、一目でわかる外国製だった。とすれば、1日2日で帰るはずがない。
だって、昨日は朝早く出かけていったんだし。
うん。そうだよ。まだ帰ってきてないよ。
「期待を裏切るようで悪いが」
啓太が、ようやっと己の気持ちを整理して、落ち着きを取り戻しかけた頃。
「鈴菱だったら、学園に戻っているらしいぞ」
淡々と、中嶋は言った。
「………中嶋さん?」
何で考えてる事が判ったの、という啓太の思いは、やっぱり、中嶋には伝わっていると思うのだが、生憎、その問いに応えるつもりもないらしい。あまりにも分かり易すぎて、何を今更、というところなのかもしれないが。
「タクシーを呼ぶ時に、カードを使うと言って、鈴菱の名を出したからな。普通の高校生が、何故、鈴菱のカードを持っているのか、不審に思うのが当然だろう。あちらに連絡がいったらしい」
あくまでも淡々と、微妙に啓太の疑問から外れた言葉が戻る。
それに。
『普通の高校生』って、もしかして、中嶋さんの事ですか、と。
つっこみを入れたいのは、やまやまだった。
だって、カード黒くなかったら、絶対、不審になんて思われてないし。中嶋さんって、年齢10才くらいサバ読んで申告しても、絶対、バレないし。
啓太は思う。思うのだが。しかし、それより、何より。

それって、和希は俺達がもうすぐ帰ってくるのを知ってるって事ですね。もう、待っちゃってるって事なんですね。

もたらされたその情報に、「…うあー…」と呻いた啓太は、そのまま、頭を抱えて突っ伏しかけた。スペースがない故に、運転席のシートに頭をぶつける羽目になったが。
シートに額を預けたまま、うんうん唸る啓太に、中嶋は呆れたように息を吐く。
「全く。まだ何か悩んでいるのか」
余程、暇なんだな、と呟く中嶋に対して、啓太は握り拳を作る。悪気はない、はず、とか。やったって、どうせ避けられるんだから無意味、とか。色々と思うところはありつつも、啓太は時々、無性に中嶋を殴ってやりたい気分になる事がある。
「悩んでなんか、いません!会うって決めたんだから!」
顔を上げると、憤然と中嶋に相対する。
「ただ、会ってからどうしたらいいのか、考えてるだけです!」
「…それを、悩んでいる、というんじゃないか?」
「ちーがーいーまーすーっ」
「今更、悩んだって仕方がないだろう」
「だから、悩んでなんか、ないって」
「言いたい事を言って、やりたい事をやって、それで跳ね返されたら、拾ってやる」
さらり、と、なんて事のないような顔をして言った中嶋に。
振り上げた拳を下ろすタイミングを外されてしまった。そんな気がした。

骨を?なんて。
冗談めかして、軽口を返す気分でもなくて。
悲しい訳でもないのに、涙が出そうになった。
多分、己はとてもとても、緊張していたのだ。どうしたらいいのか判らなくて、たくさん狼狽えていて、まるで暗い夜道で迷子になったような気分で。
そこに、ふいと掲げられた、小さな明かり。大丈夫だよ、と言っているような、暖かな光。

本当に。
この人は。
いつもは意地悪でしょうがないのに、時々、こんな事を言うんだから、参ってしまう。
ああ、本当に。
啓太は時々、無性に中嶋に抱きつきたい気分になる。
今回も、ありがとうって大声で叫んで、抱きつきたくなってしまったけれど。
「大丈夫ですよ」
にっかりと、笑ってみせた。
「跳ね返されたって、いいんです。もう一度、当たりにいくから。何度だって当たりに行きますから。絶対、諦めません」
子供みたいでも、我が儘でもいい。諦めないって決めたんだ。
和希だけは、諦めないし、手放さないんだ。
「…そうか」
小さな、それでも、呆れ返った、といった風ではない溜息をひとつ吐いて、中嶋は前方に向き直る。シートに凭れて、軽く目を瞑って、それきり、学園に着くまで、何も言わなかったけれど、その沈黙は少しも苦にならなかった。何も言わない中嶋の優しさを、啓太は確かに感じていたから。
えへへ、と照れたように笑って、啓太もまた、前方に向き直る。

もう迷わないし、悩まない。
やるべき事は、判っている。





旅行先で見た外海の力強さはない。西日に煌めく海は穏やかで、啓太に、帰ってきたんだ、という思いを抱かせた。もう既に、啓太にとって、この学園は『帰る場所』なのだ。
だけど、多分、それはただ、場所、としてではなくて。
この学園には、啓太が居るべき場所だと思う、そんな気持ちを結びつける人達がいるから。
そして、とりわけ、たったひとりの人が、いるから。
橋を渡ったタクシーが、正門前に横付けされる前から、門の前に立っている人の姿には気づいていた。
啓太にとって、学園そのものである、たったひとりのひと。
扉を開けて。身を滑らせるように、地に足をつけて。彼の元へと、走り出す。両手を広げた、あの人の元へ。
やるべき事は、判っている。
拳は硬く握りしめて。
インパクトの瞬間だけ脇と手首を締めて。
そして、狙うのは、右胸の下あたり。
それは、見事にクリーンヒットした。完璧なレバー打ちだった。



「…まさか、本当にやるとは思わなかったな」
その場に蹲る人の前に、遅れて歩き着いた中嶋は、常の如くの無感情な様で、呟いた。



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