温泉にいこう +++ act.18


さあ Paradise Believer 楽園を探そう
子供の頃に描いた夢をたよりに

パラダイス・ビリーバー/松岡英明



ふと気がつくと、手に、青くて固い、ライム程度の大きさの蜜柑があった。啓太は、周囲に一渡り、視線を流す。地面に置かれた籠は、蜜柑を入れるためとして、畑に入る時、渡された物だ。今、その中には、青い蜜柑がたくさん入っていて、状況から察するに、恐らく、啓太自身がもいで入れたものなのだろうと思われた。
どうやら、現実逃避に走っていたらしい。
その場にしゃがみ込んで、深い深い溜息をひとつ。
これまでの経緯だとか、この旅行に関するあれやこれやが、段々、飲み込めるようになってきた。突然、目の前に現れたそれが何なのか、すぐに啓太の目に理解できるという訳でもなく、まるで、今まで一部分しか見えなかったものが、時間が経ち、徐々に霧が晴れるにしたがって、全体が像の形を結ぶようになってきた、とでもいったように。
空は気持ちよく青く、渡る風は、柑橘系の爽やかな香りを含んでいる。眼下に広がる一面の木々は、橙色を滲ませた、鮮やかな緑。先程までと、全く変わらない情景だけれど、先程までとは全く違う。その最大の違いであるところの、人物の不在を埋めるべく、啓太は周囲を見渡した。
幸い、目的はすぐに達成された。
中嶋は、啓太から少し離れた場所にいた。まるで、清々した、とでもいった風情で、斜面から遠く映った海を眺めながら、煙草を吹かしていた。
彼の手元から立ち上る紫煙は、ゆったりと穏やかで、彼がこの状況を、喫煙を本当に楽しんでいる、というのが見て取れて。
啓太は、手の中の青い果実を握りしめる。
中嶋に、思いっきり投げつけてやりたくなったが、しかし、食べ物を粗末にしてはならない。それは、幼い頃から身に染みついた、道徳とすら言えないような代物で、ただただ、この常識故に、啓太は怒りの衝動を呑み込み、押さえつけた。いかにも、業腹であったが。
視線に気づいたのか、中嶋が啓太の方へと振り返った。
「ああ、やっと正気づいたのか」
中嶋は、手にした煙草を胸ポケットから取り出した携帯灰皿に落とし込み、しまい込んだ。
真面目なんだか、不真面目なんだか判らない。だけど、いつだって、彼は彼なりの規範に則って行動している。だから、今回の事だって、悪気があったとか、そういう訳ではなかったんだろう。多分。
だけど、それで啓太の気持ちが収まるというものでもない。
せめてもの批判として、じっとり睨み上げてみたが、中嶋は全く気に留める様子もない。判ってはいたけれども、その反応…無反応…は、あんまりなんじゃないかと思う。
悔しい。
勿論、それは中嶋が、啓太の反応、気持ち、行動、そんな諸々を全く意に介さないという事に対しての思いであったが、それのみという訳ではなかった。
この旅行に関わる全て、事情を全く知らない、今でも知らないだろう成瀬を除いた全てに対して覚えた感情は、まさにこの一言に集約されていた。
思い通りに動かされて、まるでゲームの駒か人形みたいに、啓太の気持ちなんか全く斟酌しないで。
ええ、どうせ俺は子供ですよ。単細胞の考えなしですよ。だけど、おバカな子供にだって、プライドはあるのだ。
『一寸の虫にも五分の魂』っていうんだぞ、などと思い、そして、この思考はあまりに自虐的なんじゃないかと、ちょっぴり凹む。『虫』って何なんだよ、自分…。
一度踏み込むと、蟻地獄の如く深みに嵌る。ネガティブ・シンキング・スパイラルである。
「…で。どうする?」
頭上から降る声に、鬱々とした気分のまま、顔を上げる。
眼鏡のレンズ越しの瞳は、変わらずの無感情。
問うように、軽く首を傾げると、ひょいと眉を上げてみせる。普段から、あまり感情を出さないのと相まって、整いすぎて冷たい人形のようにすら見える容貌故に、その様は、妙に芝居がかって見える。
「これから、どうするつもりだ?」
中嶋が、言葉を補って、再度問う。
どうしたらいいんだろう。
答えは出ない。
「お前は、これからどうしたいんだ?」
どうしたいんだろう。
これは、疑問の余地なく、判り切っている。
啓太の感情は、中嶋と反比例して、面に全て出てしまう。あまりにも分かり易い、と言われるそれを正しく読み取ったのか、中嶋はひとつ、頷いてみせた。
「だったら、帰るぞ」
「ほえ?」
あまりにも唐突な発言に、啓太はただ、中嶋を凝視した。彼の真意が、その面に書かれているのではないかと思ったが、中嶋が啓太を読めるようには、啓太は中嶋を読む事はできない。
「…えっと。今から、ですか?もしかして。だけど、帰りの電車の時間とかまだ、先だし」
「馬鹿か、お前は」
「ですよねー。今すぐとか、あり得ないですよねー」
やーもー、中嶋さんがあんまり、真面目な顔で言うから、つい…。
照れ笑いながら、続けようとした啓太に、中嶋は。
「タクシーで帰ればいいだろう。鈴菱からブラックカードを預かっているからな。せいぜい、遣い込んでやればいい」
眼鏡のブリッジを押し上げながら、淡々と続けた。
「……………………………………」
いや。もう。あり得ないですって。本気で。
しかし、啓太には判っていた。こういう時の中嶋は、本気なのだ。冗談口としか思えないような事を言いつつ、完全に真剣なのだ。
おぶおぶうろうろと視線を周囲へ泳がせつつ、啓太は考える。どうしたら、中嶋を思い留まらせるべく、説得できるのか?
啓太は、考えた。兎も角、考えた。これ以上ないほど、真剣に考えた。
近年ない程、ものすごい勢いで思考回路を回転させたので、頭がくらくらした。このままだと、早晩、熱暴走を始めるだろう。つまりは、フリーズする。
「だけど、王様と成瀬さん…」
せめてもの抵抗に、と啓太は、追って後から来るはずの二人の名を上げる。彼らを待っていなければならないのは、本当だった。二人を仲直りさせたかった啓太に応じて、中嶋は、仕事が残っている、と、二人を宿に残す方策を作り出したのだから。
…もしかして、それも計算通りだったとか?
啓太が言い出さなくても、中嶋だったら、自分でそのような状況は作ってしまったのかもしれない。啓太と二人だけになって、こんな話も、二人の耳に届かないように、なんて事も気にせずにすむ、そんな時間と場所を用意して。
何やら、ぐるぐるし始めてしまった啓太に、中嶋は軽く、鼻で笑う。変わらず底の見えないその様は、つい先までの啓太の思考を裏付けるかのようだったが、その発言は、妙に正直で、啓太に彼の気持ちを全て信じさせてしまうくらい、説得力に満ちていて。
「普段、丹羽には好き勝手に振り回されているからな。たまには、出し抜いてやるのも面白い」
常日頃からの中嶋の労苦を知る啓太をして、一瞬なりとも、一枚噛みたい、なんて、思わせる代物、だったのだ。
だって、学生会の仕事をしていて、いつも置いてけぼりにされているのは中嶋だから。丹羽の事は大好きだけど、丹羽はずるいと思うのも本当で。
この場合、中嶋に協力したくなるのが、人情というものだ。
だけど、成瀬さんは関係ない、よなぁ。どう考えても。
完全な、とばっちりだ。それもどうよ、と思う訳なのだが、中嶋の言を真面目に検討している己こそが、既に半分中嶋に説得され掛かっているのだという事に、啓太は未だに気づいていない。
悩み出した啓太を前に、中嶋もまた、黙り込む。
「………………」
「………………」
ほんの数呼吸分の沈黙。
「…えー、と。やっぱり…」
成瀬さんと王様を置いていっちゃうのは、どうかと思うんです…。
啓太の出した答えは、続くはずだった言葉は。
「お前がグダグダ悩んでも、時間の無駄だ。何の益もない」
何の感情も交えぬ中嶋の声に遮られた。
流石にちょっと、むっとする。その言い方はないんじゃないかと思う。
「確かに俺は、中嶋さんみたいに頭よくないですけど!」
憤然と睨み返すと、返ってくるのは何処までも静謐な瞳。
「お前はどうしたいのか、と訊いたはずだ。俺は、言い訳が聞きたい訳じゃない」
どきりとした。
啓太はいつも、最後まで、我を貫き通せない。それを『いい子』と評する人もいるし、『優しい』とかいう人もいる。だけど、そんなのは買いかぶりだ。
和希に早く会いたくて、だけど顔を合わせたくない。もっと落ち着いて考える時間がなければ、言わずもがなな事まで口走るだろう自分を啓太は知っていた。我が儘を言ったらいけないのに。大人にならなくちゃいけないのに。落ち着いて、もっとよく考えて。まだ駄目だ。まだ時間が足りない。後もうちょっとここにいたい。
それは、結局、逃げてるだけじゃないのか?
だけど。
「…俺、和希を困らせたくないんです…」
それって、いけない事なのか?
「だったら、いつになったら、困らせないようになるんだ?」
啓太は、ぐっと息を呑む。
どうして、この人は、こう、痛いところをピンポイントで突いてくるのか。
「そんなんじゃ、この先、奴に会える事なんかないだろうに。今のうちに、止めておいたらどうだ?」
別れてしまえ、と言っているのだ。流石の啓太も、それは解った。
はぐはぐ、と口を開いては閉じる。中嶋は、和希と啓太の関係に気づいているのだろうと思っていた。啓太は全て感情が顔に出てしまう方だったし、中嶋は啓太の顔色を読むのが異常に上手かった。だけど、今までそのネタで揶揄された事もなかったし、彼が気づかぬ振りでいてくれるなら、その方がありがたいと思っていたから。
その状況に、甘えていた訳なのだけれども。
ここで、こんな真っ正面から、指摘されるとは思わなかった。からかわれるでもなく、馬鹿にされるでもなく。ただ、事実のみを述べる、とでもいった調子で。
「言いたい事も言えず、やりたい事もできず、何でも全て、呑み込んで。そんな関係、長続きするはずがないだろう」
全部、なかった事にしろと彼は言う。
はにかんだ笑顔が可愛くて。啓太を見つめる目が優しくて。状況に立ち向かう背中は強くて、気概に溢れていて。
何でも作れる魔法の手で、啓太の頭を撫でてくれる。
親友で、幼なじみのお兄ちゃんで、恩人で。
啓太にとって、彼は全ての人だった。
何よりも、大好きな人だった。

過去形なんかにしたくない。まだ、全然、過去なんかじゃないのだ。

「第一、お前がそんな一途に尽くすようなタマか」
更に言い募る中嶋に対して。
「そんな事、ありませんーっ」
唇を尖らせながら、単語を区切りながら、むくれたような顔を作ってみせる。
ひょい、と眉を上げて見せた中嶋に。
「和希に会いに、行きます」
晴れ晴れと、笑ってみせた。



一度、決めてしまってからは早かった。
蜜柑畑の管理人に、丹羽と成瀬の容貌を伝えて、彼らがやってきたら、先に帰る旨書かれたメモを渡してくれるように頼んで、採った蜜柑は学園の寮へと配送されるようにして、そんな諸事を全て済ませて、啓太と中嶋が車中の人となるのに、数十分といったところ。
走り出した車は、背後に鮮やかな色彩の山々を置いていく。やっぱり、心中での罪悪感、二人に申し訳ないと思う気持ちは沸々と湧いてきたのだけれど。
ごめんなさい、と小さく呟いて、だけど、後悔はしていない。和希に会う事、ただ、それだけが、今の啓太にとっては、大事な事であったから。
横にちらりと視線を送ると、涼しい顔をした中嶋の姿。
ありがとうございます、と、これは心の中だけで呟く。
彼に背中を押されて、それで啓太は行動できた。勢いのままに行動してしまうのでも構わない。多分、今現在の気持ち、衝動、それが大切なのだ。それを和希に伝える事が。
中嶋さんは、本当に優しい。
啓太の胸に、ほっこりと満ちる想い。


丹羽がこの場にいたならば、「騙されてるぞ、啓太…」と言ったかもしれない。
蓋を開けてみれば、結局のところ、中嶋が自分の思ったように事を運んだだけだ、とも言えるのだが、幸いにして、今、この場に丹羽はいない。



わー。それがブラックカードですかー。俺、初めて見ましたよ。

世界でも、ホルダーは千人規模だと言うからな。

ふえー。もう、その後は一生、お目にかかれないかもしれませんねぇ。うん。もっとしっかり触っておこう。

……………………………………まぁ、いいが。



奇妙に和やかに、車は学園へと進む。



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