温泉にいこう +++ act.17


さあ Paradise Believer 楽園を探そう
子供の頃に描いた夢をたよりに

パラダイス・ビリーバー/松岡英明



この週末の中嶋の予定は、既に決まっていた。それは、常に決まっていた、といっても過言ではなかった。中嶋にとって、週末とは、その週の仕事を片付ける予備日であり、朝から逃亡を図ろうとする会長を捕らえて連行し、共に学生会室に篭もる日の事であったので。
「…お前、そういう人生に疑問とか抱いた事ねーの?たまの休日に見るのが、書類の山とヤローの面って、どーよ。たまには遊びてー!とか、可愛い女の子拝みてー!とか、思わねー?」
ぶつくさ言うのは、本来の学生会室の主である丹羽だ。放課後、中嶋に捕獲され、この部屋へと入ってからずっと、何やらだらだらと文句ばかり言っている。その理由はというと、「仕事なら、昨日もしたじゃねぇか」である。本来、毎日やるのが当然なのだが。
「学生会々長が日々、真面目に働いてくれれば、たまの休日にまで仕事に駆り出される事もないかとは思うがな」
中嶋にとっては、嫌みにすらならない、それは事実である。が、うっ、と言葉を呑み込んだ丹羽は、ぐもぐもと更に何かを言いかけて、そして、「……すまん…」とその大きな身を縮めた。いつもながら、丹羽はこういう点では、非常に素直だ。何度となく謝っては、何度となく同じ誤りを繰り返すにせよ、中嶋には、決して真似のできない真っ正直さである。別に、真似たいとも思わなかったが。
中嶋は、思わず口元を緩める。
「まぁ、そう気にする程のものでもないさ。それに、可愛いものなら、日々、拝んでいるからな」
「ああ。啓太、最近、よくここに来てるんだってな」
と、既に気持ちを切り替えたらしい可愛い男は顔を上げ、あっさりとそう言った。
どうやら、丹羽の中には、可愛いもの=伊藤啓太という認識があるらしい。全く、中嶋には受け入れがたい感覚である。中嶋にとって、アレはどちらかというと、可愛くない部類に入るので。
意のままには動かないし、すぐ口答えもする。学生会の新メンバーとして、中嶋が求めていたのは、忠実な僕であり、従順なペットであったのに、アレは既に、そのどちらでもない。最近では、中嶋がからかってさえ、全く動じなくなってしまった。しかし、それなのに。
「お前が下級生を気に入るのって、珍しいよなぁ」
そうなのだった。自分でも驚くことに、それでも、己はあの可愛くない下級生を気に入っているのだ。
全く、この動物は、妙にこっちの気持ちを読んでくるのが忌々しい。
「…伊藤の話は、止めておけ。召還されてくるかもしれんぞ」
自分が言い出したくせに、とぶちぶち言う丹羽の誤解は、わざわざ解く程のものでもない。実際、今日の啓太は会計部に行っているはずで、学生会室へ来る予定もなかったが、丹羽がそれを知ったら、嬉々として会計部へと遊びに行ってしまうだろう。丹羽は妙に、愛らしいもの、というヤツに弱い。丹羽の理想そのものらしい外見を持った西園寺と、可愛いものの代名詞であるらしい啓太が一緒にいる、と聞いたら。
その絵だけですっかり骨抜きにされるのが、目に浮かぶ。
「啓太が来るんだったらいいじゃんかー。ちっとくらい、彩りをくれよー。俺は書類の山とヤローの面ばっかじゃ、いーやーだー」
丹羽の中では、伊藤啓太は男と認識されていないのか。ある種の問題発言を受けて、中嶋が口を開こうとした丁度その時。
図ったように、学生会室の扉を叩く音がした。
「本当に啓太か?!」
丹羽の目は、既にきらきらだ。
「入れ」
入室許可を与える中嶋の、感情を含まない声に続いて、
「失礼します」
その人物は、扉を開けた。扉の開け方ひとつとっても、彼の属する環境が語られる。張りのある品のいい声音は、啓太抜きでは決してこの場には現れないだろう存在を示していて。
面白そうな状況をその嗅覚で感じ取ったのか、丹羽が先程までとは違って、好奇心できらきらした目を扉へと向ける。
一年生に在学中の理事長が、行儀もよろしくそこに立っていた。


神妙な顔をした彼は、語った。啓太が成瀬と旅行に行く事。しかし、彼自身はどうしても外せない仕事が入っている事。で、結局、それでどうしたか。何故、彼らの元にやってきたのか。
答えはひとつである。
「俺の代わりに、ついてって下さい!」



「無論、馬鹿馬鹿しいと思ったがな。旅費は理事長のポケットマネー。作業予定だった書類も、鈴菱関連として、最優先で現地まで配送させる。それに何より、温泉だ豪華料理だと、丹羽が大乗り気になってしまったからな。奴が、旅行先でなら仕事をする、というので、こんな茶番にも付き合った、という訳だ」
中嶋の淡々とした言葉を、啓太はただ、呆然と聞いていた。
啓太の中に、その話は染み通り、行き渡り、体全体、ひいては頭の中まですっかり届いて、そして、啓太は悟ったのだった。この旅行の背後で糸を引いていた者の存在を。
「依頼は、お前と成瀬の監視、だったが、丹羽に自由にさせておけば、裏心もなく、お前達の間に割り込む事は目に見えていた」
楽なものだったな、と続ける中嶋の声に感情の色はなかった。多分、本当に計算通りに事は進んでいたんだろう。彼の行動も、計算の通りのものだったんだろう。そう。例えば。夜、部屋の戸口の前に、ちょこんと置かれていた。
「…まねき猫…」
中嶋を写したように、感情の抜け落ちた声でぽつんと呟いた啓太に、何を思ったのか、中嶋は小さく微笑った。
「夜、丹羽を部屋から追い出せば、お前達の部屋に行くしかなくなるだろう。実際、上手く事は運んだな」
多少は、予定外ではあったがな、と唇の端を歪めた中嶋は、啓太が中嶋の部屋に行った事を思い出しているのかもしれない。計算外の事もあったのか、と。ぼんやり思って、それにうっすらとした満足を覚える。全てが思い通りに動かされていた訳じゃなかったんだ、と思って。
「伊藤」
ふい、と。
顔を上げる。
そこには、冷笑の形に唇の端を刻みながら、何処か真摯な目をした中嶋があった。
「肝臓というのは、ここにある」
中嶋は、右胸の下あたりを自身の手刀で示してみせる。物を考えたり思ったりする部分が麻痺している状態だからだろう。そんな彼の唐突な話題の転換を不思議とも思わず、ついていく事ができる。
「人間の弱い部分のひとつだな。インパクトの瞬間だけ脇と手首を締めて、ここを打つ。武道を嗜まない人間でも、確実に相手にダメージを与えられる」
中嶋が、つい、と眼鏡のブリッジを指先で持ち上げ、押し上げた。
「一般知識だ」



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