温泉にいこう +++ act.16


さあ Paradise Believer 楽園を探そう
子供の頃に描いた夢をたよりに

パラダイス・ビリーバー/松岡英明



眼下に広がる一面の木々は、橙色を滲ませた、鮮やかな緑。それは、不思議な常緑の森。紅葉する周囲とは、全く違う世界にいるかのように、そこに在る。そして、斜面の向こうに光を弾く、遠い海が垣間見えた。
見慣れた海の光は、しかし仄かで、何より潮の香を運ばないほどに遠い。代わりに周囲に漂うのは、爽やかな柑橘系特有の香りだ。
斜面に続く蜜柑の木は、枝も葉も、そよぐ風に身を揺すって、その芳香を周囲に漂わせる。
蜜柑は、その木もまた、蜜柑の匂いがするものなのだと、啓太は初めて知った。
変わらない緑と豊かに実った果実。いい匂いのする風と静かな海。それは、何処かで聞いた楽園のイメージを啓太に思い起こさせた。
「凄い、綺麗ですねー」
己の諸々な思いの全てを、感嘆に溢れた一言といっぱいの笑顔とで表現して、啓太は横にいてくれる人へと振り返る。相変わらず、その人は表情ひとつ動かしはしなかったのだけれど。
「…王様と成瀬さん、二人だけで、本当に大丈夫でしょうか…」
今、ここにいない人達への心配の言には、応えが返った。
「子供じゃあないんだ。何とでもするだろう」
あまりにもさらりとした中嶋の言葉に感じる、ちょっとした違和感に、啓太はつい押し黙る。
常日頃から、啓太は、中嶋に散々、子供扱いされている訳で。あの二人と啓太とは、一つか二つしか違わない訳で。でも、それを言ったら、中嶋自身とだってそうなのだけれど。
だけど、まぁ、確かに啓太と彼らとでは精神の成熟度が全く違う訳で。
となると、自身と比較などしてはならないのだろう、恐らく。
それに、朝、二人の間の空気が険悪だった事を、中嶋に相談したのは啓太だったし、それに対して、中嶋の「しばらく、奴らを二人だけにしておいたら、幾ら何でも上手くやろうとするだろうさ」との意見に賛同し、中嶋と先に山に来る事を選んだのも啓太なのだ。
一緒に遊べないのは、残念だけれど、二人が仲直りできる方が、ずっといい。
「…大丈夫、ですよね…」
それは、答えを必要としていない呟きで、そして、それは中嶋にも判ったのだろう、彼も何も言わなかった。
二人は、仕事が終わったら、追いかけてくる事になっている。多分、二人一緒にこの道を上がってきて、蟠りなんか全然ない顔をして笑ってくれるだろう。
それまでは、ただ、ここで風に吹かれて、景色を眺めているだけでも、充分に気持ちがいい。だけど。
二人が早く、姿を見せてくれたらいいのに。



その部屋の空気は重かった。事実、重量を伴っているのではないかと思われる重さだった。呼吸するのさえもが息苦しかった。
「…ちくしょー。ヒデの奴ー」
宿を出るほんの少し前、中嶋は、新たに書類を持ってきた。しゃらっとした顔で、見落としがあった、などと言っていたが、それは嘘だと丹羽は確信している。そもそも、書類の内容を見るに、急ぎなどでは全然ない。中嶋が、その場ででっち上げたのだ。絶対だ。
都合よく、テニス部からの関連資料が抜け落ちていた事が、それを証明している。
目の前で、空気を重くしている、生きた関連資料に目をやり、丹羽は溜息を吐く。
「もう終わったんですか?」
「いや。後ちょっと」
「なら、ちゃっちゃとやっちゃって下さいよ。俺は早く、啓太を追いかけたいんだから」
啓太と中嶋は、先に山へと行っている。山、といっても、宿の裏手にある坂道を上った先にある、いわゆる裏山なのだが、そこが蜜柑畑になっていて、海も見える、ちょっとした散歩にもいい穴場なのだとか。宿の人が教えてくれた、と、啓太が目をきらきらさせながら、そう言っていた。
今頃は、中嶋と散歩したり、蜜柑を採ったりしているのだろうか。
何やら、その絵は、丹羽の想像力の範疇を超えていた。
見るからに、心配だ、との心中を曝して、いらいらしている人間を前に、丹羽は指先でペンをくるくる回しながら、ぼんやりと思う。
「啓太、中嶋の事、安全牌だと思ってるもんなぁ…」
あの中嶋を、である。つくづく、啓太は偉大だ、と、息を吐く丹羽に対して、成瀬の言はにべもない。
「だから、危険なんじゃないですか」
ああ、あんなに可愛らしいハニーが、まるっきりの無防備だなんて!もう、『食べてくれ』って言ってるようなもんじゃないかーーーっ。
成瀬、心の叫びである。
丹羽は指先でペンをくるくる回しつつ、やっぱりぼんやりと、今ではすっかり見慣れてしまった男のテンションを受け流す。
「…俺は、お前がそんな奴だったなんてのも、知らなかったな…」
いつだって、人当たりよくにこにこして、熱狂的な好意も妬みや嫉みも全部、柳に風と受け流して。適度に遊び人で、適度に真面目で。それが、成瀬由紀彦という男なんだと思っていた。
「スタープレーヤーには、期待されるイメージってもんがあるんですよ」
あんたにゃ判るまい、との言外の言葉は、流石に丹羽にも読み取れて、本当だったら腹を立ててもいいような気もするのだが、不思議に怒りは湧いてこない。何というか、新鮮、なのだ。
人を魅せるための自分を仕立てる。相手に見せるのは、それだけでいい。元々、相手だって、成瀬個人の人格なんか、求めてもいないのだ。だったら、受けのいい顔で全てを流してしまった方が、気も楽だ。
それの何処が悪いんだ、と言い立てて、開き直っている。そんな風に見えるし、事実、そうなんだろうと思う。
彼の物言いは、多分に自虐的で、露悪的ですらある。実際、丹羽が彼を侮蔑する事を、軽視する事を望んでいるのは、容易に見て取れた。
だけど、彼は確かに『スター』なのだった。平等という名の横並びを尊ぶ、ぬるい建前を全て、その存在だけで否定する、そういった類の人間は、確実に存在する。
選ばれた、一握りの、本物の人間。そういった存在が。
「………大変なんだなぁ」
しみじみと言ったら、成瀬がふいと顔を上げた。思いも寄らない事を言われた。そんな顔をしていた。
「俺はよく、考えなしだとか、デリカシーがないとか言われるからよ。そういうのって、凄いと思うぜ。何というか。偉い!」
言ったら、何やら盛大に呆れ返った顔をされてしまったが。
だけど、それは本音だった。丹羽は、いつも自分の好きなようにしか動かなかったし、相手が嫌がると判っていても、自分の意を通してきた。けれど、それは全く相手を尊重しないという事だ。自分ではどう思っているのかは知らないが、丹羽の目には、成瀬の有り様は、他者を立てる事そのもののように映る。
思った事を言ったら、それですっきりした。目の前の事物に興味も薄れた丹羽は、再び書類に目を移した。ともかく、仕事を終わらせてしまわないと、どうしようもない。丹羽だって、啓太と中嶋がどうしているか、心配は心配であったので。
しばらく、カリカリと紙の上をペンが走る音のみが聞こえた室内で。
「…貴方だって、ちゃんと学園を統率してるじゃないですか。みんな、貴方だからまとまってるんですよ…」
ぽつり、と。
成瀬が呟くように、言った。
見ると、そっぽを向いたままの成瀬の頬は、ほんのりと赤い。
これは、フォローされたというヤツだろうか。
何というか。本当に。
「…いい奴だなぁ、お前って…」
思った通り、あからさまに嫌な顔をされたけれど、それでも、嫌な気持ちになんか、少しもならなかった。
「そう思うんだったら、早く仕事を終わらせて、俺を解放して下さいよ」
肩を竦めての憎まれ口に、「おう。ほんとに、もうちょっとだからよ」と気楽に返す。現金なもので、室内の空気もすんなり軽くなっている。
「早いとこ終わらせて、中嶋と啓太を追いかけるか」
木々を渡る風も、きっと爽やかに軽いだろう。



そして、その頃の中嶋と啓太はと言えば。
「あ!中嶋さん!アレ!アレが赤くて、美味しそうです!」
結局、蜜柑を採っていた。
啓太の手の届く辺りにある蜜柑は、既に人の手が入っているらしく、鮮やかに赤く色づいていない。それよりも高い位置に実っているものは、断然美味しそうだった。しかし、ここは踏み台を置くのも躊躇される斜面だ。だからこそ、よく実った果実が未だ木に残ってもいるのだけれど。
「中嶋さん、アレアレ!あれがいいです!」
結果、啓太の望み通りに、中嶋が蜜柑をもいでもいでもいでもいでいる訳なのだ。
しかし、中嶋はもういい加減、飽きていた。
「お前の手に届くものを採ればいいだろう」
うんざりと言えば。
「駄目です!美味しいのじゃないと!お土産にするんですから!」
はっきりきっぱり、啓太の気迫の載った言葉が返ってきた。土産だからこそ、味などどうでもいいのではないか、と思う中嶋とは、そもそもの考え方が違うらしい。
和希と西園寺さんと七条さんと。篠宮さん、岩井さん、俊介に海野先生。あ、トノサマにも!
指折る啓太に、中嶋。
「…それを全て、持ち帰る気か?」
「いえ。宅配便で送るんです」
翌日配送してくれるそうですよ。凄い便利ですよね。
「……そうか」
何やら、妙に疲れてきてしまった。
この腹癒せに、啓太のいう、会計部への土産には、とびきり酸っぱそうな蜜柑を選んでおいてやろうかと思うが、全て一括で送るとなると、啓太は中から美味そうなものだけを選び取って彼らに贈り、酸っぱいもの、潰れたものについては、学生会に持ち込んでくるのだろう事は必定である。中嶋も、その程度には、伊藤啓太の人となりを読み切っていたので。
結局、啓太の望み通り、蜜柑をもいでもいでもいでもいでいるのが、最も面倒が少ない。
全てを計算する性分と、面倒が何よりも嫌いな己の性格故の現状が、また腹立たしい。それでも、現在の面倒とその後の面倒とを秤にかけ、全てを先送りしてしまうか、と何処ぞの政治家か官僚のような事を思い始めた頃。
「…ねー、中嶋さん」
「今度は何だ」
苛立ちを隠そうともせず振り向いた中嶋の目の前に。
「はい」
差し出されたのは、綺麗に皮を剥かれた蜜柑が半分。
「結局、俺達、全然食べてないですよ。ちょっと休みましょう?」
にこにこ笑った啓太のもう一方の手には、割られた蜜柑の片割れがある。彼が無造作に口を付け、白い歯で房を割ると、豊かな果汁が甘い香りを弾けさせた。疲労を潤す恵みの果実。その誘惑。
「…ふうん?」
面白そうに唇の端を持ち上げた中嶋は、啓太の手を取った。中嶋へと差し出された方ではない、啓太が口を付けた蜜柑を、囓る。滴る果汁は、啓太の手を濡らした。
「うわっ?!ちょっと、中嶋さ…」
そこへ。
滴りに。
中嶋の。
舌が。

………ぎゃーーーーーーーーーっっ。

「なっなっなっ」
啓太は、顔を真っ赤に染めた。
「何するんですかあーっ」
信じらんない。信じらんない。信じらんない。
「中嶋さんの分、ちゃんと渡したじゃないですかぁ!」
既に涙目である。
きゃんきゃんと喚く。まるで子犬だ。
しかし、耳まで赤く染めた啓太は、怒ってみせても挙動の不審さは否めない。
どうやら、中嶋は全く意識されていないという訳でもないらしい。
「ちょっと、聞いてるんですかーーーっ。何笑ってるんですかーーーっ、っもーーーーーっ」
今、ここに丹羽がいたら、アノ中嶋に、声を立てて笑わせるなんて、と更に感じ入らせたのだろうけれど。



「ひとつ、駄賃をやろうか」
それは、中嶋の口からよく出てくる言葉のひとつだ。いつもだったら、お仕置き、と称するから、いわゆる、亜流、というものかも知れない。
「…もー、セクハラはいりません。いい加減にしないと、生徒総会で訴えますからね」
ぷりぷりむくれた啓太を気にした風もない。中嶋は軽く、鼻先で笑う。
「まぁ、そう言うな。珍しく、機嫌がいいんだ」
それは、気がついていた。一体全体、何でそんなに満足げなのか。未だ笑いを含んだ声音で、中嶋は続けた。
「後で教えてやる、と言っただろう?」
楽しげに、だけど、意地悪そうな光を帯びた中嶋の目が、嗤う。
「俺たちが旅行に来た理由を、だ」



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