温泉にいこう +++ act.15


さあ Paradise Believer 楽園を探そう
子供の頃に描いた夢をたよりに

パラダイス・ビリーバー/松岡英明



その後は、めそめそしたまま温泉につかる者あり、部屋で楽しそうにガイドブックをめくる者あり、朝食前にすべきだった予定の仕事を終えられず、自室兼仕事部屋へと連行される者あり。
学園にいる時のような逃げ場がないからか、丹羽は、珍しくも大人しく、粛々と書類に目を通し、これに署名をしている。たまには場所を変えてみるのも、動物相手には有効という事か、と思ったりする中嶋は、きっぱり無情の男である。
丹羽が署名を終えた書類を再度チェックして、了承印を押す。未決済として山になっていた書類は、あっという間に片付いていく。
始めからまめに作業を進めていれば、今、こんなに大量の仕事を抱え込む事もなかったのに、この動物は、まさにこの、作業、というものが大嫌いなのだ。しかし、それもまた、致し方なし、といったところか。人には向き不向きというものがある。丹羽はこういった作業や根回しに不向きであり、中嶋は向いている。そして、表だって人を惹く事に丹羽は向いており、中嶋は向いていないのだ。これも、適材適所というものだろう。
言うと彼がつけ上がるので、決して口には出さないが。
しかし、こうまで順調に進むのだったら、啓太も連れてくればよかったか、と思う。処理済書類を業務別に仕分けさせておけば、帰ってからの仕事の効率もよかっただろうに。
「…おう。もう終わりかよ」
「この束で最後だな」
「よっしゃ」
書類をめくる。添付資料に目を通して、内容を確認する程度の間を置いて、署名のためのペンを走らせる。そんな一連の動きの見える音だけが響く部屋で、丹羽が唐突にぽつりと言った。
「…お前と啓太って、いつからあんななんだよ」
別資料に目を通していた中嶋は、一瞬、その言葉を取り落としそうになった。顔を上げ、同じ卓についた男の顔を見遣る。彼は、何やら真剣な瞳で中嶋を見据えていた。
「…あんな、とは?」
「自覚ねーのかよ…」
ほとほと呆れ果てた、とでもいった大仰な溜息。常ならば、己が彼に対して向けているのと同じそれに、妙にむっとする。しかし、続く彼の言葉はまた、中嶋をこそ呆れ果てさせるような代物だった。
「あんな空気、連れ添って30年のご夫婦くらいしか出しちゃいけないだろ。あり得ないだろ。許されないだろーっ」
何が『連れ添って30年』か。
全く、訳のわからない事をほざく。
「…手を止めるな」
言い捨てると、丹羽はぶつくさ言いながらも、素直に書類へと視線を戻した。その後は、口を開く事もない。一瞬で目の前のすべき事へと意識が戻る。その集中力は流石である。
中嶋もまた、手にした資料へと視線を落としながら、それでも心の内は別のところを漂い出す。
伊藤啓太。
始めは、ただ、理事長のお気に入り、という認識しかなかった。それが、丹羽の可愛がっている後輩、になり。学園MVPとして、学内に知らぬ者とてない有名人になり。
今では、学生会になくてはならないメンバーの一人にもなった。
既に、丹羽に回す書類の別添資料を集める程度の事は、一人でもできるのだから、今後、集中的に仕込めば、現在、中嶋がやっている仕事も任せられるようになるだろう。
ああ言えば、こう言う。その上で、中嶋に言い負かされても、へこたれない。その気丈さ、もしくは図太さは、あの自由すぎ、個人意識が高すぎ、容易に一つにまとまろうとしない学園の生徒達を統率する立場の者には必要となる。

「何で俺と中嶋さん?」
「あり得ませんって、そんなの」

明るく軽く笑いながら、きっぱりと言い切った。その笑顔が奇妙にかんに障る。そのうち、人生の厳しさについて、きっちり教えてやろうかとも思う。が、実際、手を出すのに、こんなに面倒臭い奴もまた、いない訳で。
理事長のお気に入り、とか、学園MVP、とか。丹羽の可愛がっている後輩だとか。
そういった諸々を全て除いても、なお面倒臭い。
一度だけ、触れた。未だ、彼をよく知らない頃に。彼がただ、季節外れの転校生だった頃に。
いっとき、遊んで。そして、捨てて。
それでも、いいかと思った、そんな頃に。
普通は警戒するようになるだろう、そんな目に遭わされて、なのに、あの子供は中嶋を妙に信頼していて。
時々、その信頼を手酷く裏切ってやりたくなる。
その時、部屋の扉が叩かれる音がした。
「王様ー、中嶋さーん。お仕事、終わりましたー?」
相も変わらぬ、脳天気な声がする。
そして、戸の影からひょっこり出されたのは、声と違わぬ脳天気な顔。
「これから行く場所、決めましたよ!近くにみかん狩りができるところがあるんですって!」
足に怪我をしている成瀬に気を遣って、このまま宿でゆっくりしよう、と言った啓太と、啓太に気を遣わせるのを嫌って、どこかに出かけたい、と言った成瀬と、遊べる場所がいい、と言った丹羽。
更には、俺たちが仕事してる間に、啓太が場所を選べ、との丹羽の言に、朝食後からずっと、ガイドブックと首っ引きだった啓太が出した答えが、これらしい。
時間いっぱいまで宿にいて、帰り際、寄り道をするようにして、みかん狩り。
「みかんだったら、お土産にもなりますよね」とは、啓太の談。
「おう!もうちょいで終わるから、待ってろよ」
先程とは一転、楽しそうに笑う丹羽に、嬉しそうな笑いを返す。
「仕事、すごく進んだんですね!俺も、お手伝いしましょうか?」
「あー、だったら、茶ー入れてくんねーか?昨日の旨かったからよ」
こんな丹羽の気軽な求めにも、心底嬉しそうな顔を見せるのだ。
「はい。中嶋さん」
目の前に出された茶碗には、中嶋の好みを加味して、濃いめに出された緑茶。
理事長のお気に入り、とか、学園MVP、とか。丹羽の可愛がっている後輩だとか。
そういった諸々を全て除いても、手を出す気になんかならない、馬鹿な子供。
たまには、そんなものがあったっていいのかもしれない。



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