温泉にいこう +++ act.14


さあ Paradise Believer 楽園を探そう
子供の頃に描いた夢をたよりに

パラダイス・ビリーバー/松岡英明



朝食の席は、完全な沈黙に包まれていた。
時折、食器に箸の当たる、又は膳に椀を置く、そんな所作の立てる音のみが耳をつく。啓太は、居心地悪げに身じろいで、こっそり、隣に座った成瀬を盗み見た。
こんなに静かな成瀬を見るのは、初めてかもしれない。考えたら、それこそ初めて出会ったその日から、成瀬は啓太の前では常にエンジン全開、徹底した躁、スーパーハイテンションの人であったので。
続いて啓太は、目の前で今まさに、白いご飯をかっ込んだところである丹羽に視線を飛ばした。いつもと同じようでありながら、やっぱりいつもとは違う。例えば、微妙に落とされた風に見える肩や、その箸に盛られた一口分の米の量が、常より2割は少ない事だとか。
丹羽の横では、中嶋がただ、黙々と食事を続けている。これは殆ど、いつも通りである。先程まで一緒にいたし、中嶋は今回の件には直接関係ないのだろう。という事は、啓太に思い当たる節は一つだけで。
啓太はそっと、息を吐く。
啓太はちゃんと謝った。啓太がいない事に気づいていないといいな、と思いながら、部屋の扉を開けた時、成瀬と丹羽との間には一触即発の空気がぱりぱりと音を立てそうで、それこそ口論が始まってしまいそうだった。部屋に戻ってきたばかりで、どういう流れでもってそんな状態になってしまったのか知るよしもない啓太だったけれど、いつもだったら、状況も判らないのに、二人の邪魔をしては、なんて思う事も全てすっ飛ばして。
ただいまとおはようございますとごめんなさい。
それで、ふわっと、殺気だった雰囲気が溶けて消えたのが判った。
心配したんだよ、とは成瀬の言。こいつがずっとうるさくてよ、と肩を竦めて、丹羽は啓太の頭を些か乱暴に撫でた。二人とも、それで許してくれた。彼らが、もういいよ、と言った事で、後を引いた事はない。少なくとも、今まではずっと、そうだった。
ただ、「中嶋さんと一緒だったから、大丈夫ですよ?」と言った時の、二人の不可解な表情だけは、ちょっと気になるところだったのだけれど。
そう言えば、成瀬と旅行に行くと言った時、和希も似たような顔をしたのだった。さすがの啓太だって、一人じゃなければ、迷子になったりはしない。恐らく。
彼らは、一度、もういいよ、と言った事を、後に引いたりはしない。今まではずっと、そうだった。だけど。
「…あの」
啓太が、恐々と口を開くと、共に食卓を囲んでいた3人は、一斉に顔を上げた。
「………何かあったんですか?」
これって、やっぱり、俺のせいなのかな。
部屋を抜け出した事が悪かっただろうか。起きた時、啓太がいない事が彼らをそんなにも心配させてしまっただろうか。それとも、啓太自身、気づかないところで、何かとんでもないことをやってしまったのだろうか。
「いや。何もないよ?」
成瀬の晴れやかな笑顔は、しかし、いかにも作られたものだ。そして、啓太を拒絶している。ここから先は、立ち入ってはならない、とはっきりと線を引かれているのだ。
こんな時、啓太は何となく、しょんぼりした気持ちになる。自分だけが対象外である、自分だけが判っていない、彼らの仲間に入れない、そんな気持ち。卑屈になりたくはないけれど。
そっと吐きかけた息は、だけど、丹羽の大きな溜息にかき消された。
「…啓太にしちゃ、ごついなー、とは思ったんだよなー…」
手にした茶碗に視線をやったまま、まるで茶碗に語りかけるかのように、丹羽は言った。まるで、それが合図だったかのようだった。成瀬は、嫌そうに目を眇めて丹羽を見遣った。中嶋の手にある箸は、一度、確かに動きを止めて、その後すぐ、何事もなかったかのようにまた、動き出したけれど、彼が周囲の動向に感覚網を伸ばしているのがはっきりと判る。
周囲は一遍に動き出した。そんな気がした。
「…あんたがそれを言いますか…」
地を這うような、成瀬の呟き。
「……ほう?」
いかにも興味深い、といった様子で、中嶋が片眉を上げてみせると。
「………ヒデー…」
恨みと非難と情けなさと悲しみと。
そんな諸々を全部詰め込んで、混ぜ合わせたら、かくなるか、と思わせる、茶碗を手にしたまま、卓に伏していた丹羽が、そんな声でひとつ呻き、そして、それに準ずる表情そのままの顔を上げた。
「何だよ、その態度はーっ。元はと言えば、お前のせいだっつーの!俺なんか、100%、被害者だろーっ」
「…えーと?」
何の話をしているのか、啓太は全く理解できない。まるで暗号のような言葉の端々から、それでも、己は全く無関係という訳でもないらしい、と受け取り、三者三様の顔に対して、等分に視線を飛ばす。要するに、きょときょとと幾度となく首を横に振りながら、何とか彼らの会話を理解しようとする。
しかし。だが、しかし。
「結局、中嶋さんが漁夫の利を得たって事ですよね…」
何処までも暗い成瀬の声は、ただただ啓太を翻弄する。
「…………えーと??」
丹羽が被害者で、中嶋が漁夫の利で。という事は、成瀬は、出し抜かれた、のだろうか?
だけど、何を??
ひたすら、クエスチョンマークを飛ばすのみの啓太を尻目に、成瀬が言った。
「中嶋さん。啓太に手を出したりしなかったでしょうね?」
確かに言った。そう聞こえた。
「……………………え???」
ものすごい直球である。そして、剛速球である。そのため、何を言っているのか、瞬間、啓太には判らなかった。まぁ、噛んで含めるような超スローボールであっても、遠回しな変化球であっても、判らない時には判らないのだが。
ただただ、目を瞬くのみの啓太の前で、中嶋はあからさまな様子で、溜息を吐いてみせた。
「こんなお子様、手を出す気になんかなるか」
「……………………………ふえぇぇぇえ???」
思いも寄らなすぎるその発言に、ようやっと理解が追いついた啓太は、おかしな奇声を発してしまったが、それはまさに、おかしなタイミングに嵌ってしまったらしい。これでは、中嶋の言葉に対して、異を唱えているかのようだ。
『中嶋さんは、お子様にあんな事するんですか?』てなカンジか。…怖すぎる。
啓太が想像する程度の事は、勿論、成瀬にだって想像がつくだろう。それを証立てるかのように、成瀬は、世にも悲しげな顔で啓太を見つめた。
「………ハニー。やっぱり…」
既に涙目である。
「いや、違う。違いますって。というか、何で俺と中嶋さん?」
本気で判らない。
だって、中嶋なのだ。和希ではない。中嶋なのだ。
確かに中嶋は、啓太をセクハラ発言でからかう。よく意地悪を言うし、するし、学生会の仕事で放課後、夜まで拘束されたりする事だってある。だけど、中嶋は和希じゃない。
「あり得ませんって、そんなの」
啓太が言い切ると、その場の空気が妙にシンとしたものになってしまった。
おかしい。
どうしてだろう。
「…そこまで、はっきり否定されると、その期待に応えてやりたくなるな」
「何ですか、『期待』って。誰もそんなのしてませんよ」
ふふん、と鼻で笑う中嶋に、啓太は唇を尖らせる。
「『手を出すには、面倒臭い奴』って、前に言ったじゃないですか」
「…そんな言葉を信じている訳か?」
「信じてますよ?」
啓太がさらりとそう返したら。
何故だか、中嶋は黙り込んでしまった。
後は、かちゃかちゃと箸を動かす音だけが響く食卓。
時折、丹羽の洩らす溜息だとか、成瀬が鼻を啜り上げるような音が混じるようになったのが、先からの重々しい空気に包まれた食事風景に加えられた変化である。
結局、何だったんだろうか。
やっぱり、啓太には、よく判らないままだった。



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