温泉にいこう +++ act.13


さあ Paradise Believer 楽園を探そう
子供の頃に描いた夢をたよりに

パラダイス・ビリーバー/松岡英明



ひどく満ち足りた気分のまま、目が覚めた。こんなにぐっすり眠ったのは、久しぶりな気がする。布団をかけたまま、腹筋だけで身を起こして、うんと伸びをして。大きな欠伸をひとつついたら、それだけで、体も気持ちも、すっきりと覚醒した。
今日も、からりと晴れたいい天気だった。いわゆる、秋晴れ、というやつだ。
朝ご飯を食べて、温泉に入って。それから、今日は何をしよう。
楽しい計画は、それを考えているだけで、妙に幸せな気持ちにさせてくれて、啓太はえへへと笑いを洩らす。
「朝っぱらから、間抜けな面をさらすな」
頭上から降る、起伏のない冷徹な声。見上げると、既にきちんと着替えを済ませた人が立っていた。
「おはようございます、中嶋さん」
中嶋曰くの『間抜けな面』全開で彼に対すると、中嶋はいかにも呆れた風な顔をして、それでも「…ああ」と頷いてみせた。
「よだれ垂らして、寝てたぞ、お前」
「えっ嘘っ」
慌てて、口元を拳でこしこしと擦る。すると、
「嘘だ」
まことにあっさりとした言葉が返る。
「……中嶋さん」
ついつい、恨みがましい目で彼を見上げてしまう啓太を、責める者はいないだろう。
しかし、中嶋もまた、全く動じない目で啓太を見遣る。それで、気がついた。
「中嶋さん、もしかして、寝てないんですか?」
目が赤くなっている気がするし、妙に疲れてもいるようなのだ。
「いや。横にはなった」
隣の布団を確認すると、確かに使った形跡のようなものはある。啓太のように、布団の中でごろごろ転がったりしないのだろう中嶋の残した跡は、シーツのほんの小さな皺と窪みくらいのものであったのだけれども。
「…随分、早起きだったんですね?」
疑問系ではあったが、それは確認の意だ。
今だって、啓太にとっては、充分、早起きで通る時間だった。休日の朝のみならず、常の生活の中においてさえ、そうである。中嶋は、あまり眠らなくても大丈夫な体質なのだと、何かの折に聞いたことがあったけれど、やっぱり、眠るべき時間には寝ておいた方がいいと思うのだ。人間の体って、そういう風にできているはずだし。
啓太はすぐに感情が外に表れる、とよく言われる。だから、そんな啓太の心情も、中嶋にはすっかり判っているのかもしれない。けれど、全く気にした風もなく、中嶋はあっさりと首肯する。そして、続いた言葉は、啓太には思いも寄らないものだった。
「今のうちに書類整理をしておけば、朝食前に丹羽に一仕事させる事ができるからな」
「…中嶋さん、仕事持参だったんですか?終わってなかったんだ?」
「終わる訳がないだろう」
まぁ、確かに。
旅行前に手伝った中嶋の机の上に積まれていた書類の山、丹羽の決裁を待つ書類を入れる箱から溢れ出しそうだった紙の束を思う。アレが今、全て片付いていたら、中嶋の手には確実に、加速装置が付いている。…その存在については、実は普段の彼の仕事ぶりの中でだって、危ぶんだ事があるのだが。
「じゃあ、何で今回、旅行に?」
中嶋だったら、仕事を残して旅行に来たりしないだろうと思っていた。終わらなかったら、旅行の方を取りやめるだろうと思っていたし、そして、その想像は恐らく、正しい。
中嶋は目を眇めて、啓太を見遣った。啓太に己の行動を見抜かれているという事を、心底嫌がっている。そんな感じだった。
だけど、そんな目で見られたって、全然平気なのだ。いちいち気にしていたら、学生会の手伝いなんかできないし、始終、中嶋と一緒にいる事だって、できはしない。
多分、お局OLってこんな感じなんだな、と思うともなく思ったりする。既に、働く女性の気持ちに精通した15歳、男子高校生伊藤啓太は、ただただ、答えを求めて、中嶋をまっすぐに見返した。
沈黙。舌打ち。そして、溜息。
こういう場合、大方、先に折れてくれるのは、実は中嶋の方だったりする。
「……そのうち、教えてやる」
今じゃないんだ、と思ったが、そのうち、というのだから、中嶋が教える気になった時に、教えてくれるという事なのだろう。
得てして、引き際というものは、肝心だ。こくりとひとつ頷くと、それで啓太は布団から這い出した。寝間着代わりの浴衣も、前がはだけてよれよれになっている。着替えなくちゃ、と思って、そして、着替えがないという事に気づき、そして、ここが自分の部屋ではなく、よって、自分の荷物もここにはないのだという事に、また気づく。
啓太の思考を読み取ったかのような、絶妙なタイミングで、中嶋の声が降ってきた。
「お前はそろそろ、部屋に帰った方がいいんじゃないのか?お前の姿がないと、騒ぎ出しそうな奴がいるだろう」
「あ。そうですね。何をするにしても、まずは着替えないとだし」
成瀬さん、心配してるかも。
昨日の夜は、丹羽の行方が判らないと、同室の中嶋が心配するかも、と思ったものだが、現在、己が成瀬に同じ事をしているかもしれない、と啓太はようやっと思い当たった。

とりあえず、部屋に戻らなくちゃ。成瀬さん、王様と喧嘩なんかしたりしてない、よね?二人とも、まだ寝てるといいんだけどなぁ。

そして、啓太の願いは、ひとつも叶えられていなかった。往々にして、世の中というのは、そういうものなんである。



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