温泉にいこう +++ act.12


さあ Paradise Believer 楽園を探そう
子供の頃に描いた夢をたよりに

パラダイス・ビリーバー/松岡英明



あんたは何を言っているんだ、と言いたい気持ちを、いやまて、救いの神だ、と手を合わせたい気持ちが押しとどめる。
啓太に嫌われるかもしれない事を、成瀬は一切、する気がなかった。啓太が許してくれるなら、もう少し、近くに寄りたいとは思うけれど、何より、啓太自身に受け入れてもらう事の方が、ずっと大切だったから。
啓太の瞳に自分しか映らない状況は何よりも甘美だし、ただ二人っきりで甘い空気を楽しみたい。軽い言葉にほんの少し、本音を混ぜて、それで啓太のどきまぎする姿を愛でて。ちょっと成瀬を意識するようになってくれたら、凄く嬉しい。
本当に、成瀬の野望はその程度のものだったし、実際、成瀬は、己の理性には自信があったのだ。少なくとも、つい先程までは。
直前の己の振る舞いは、丹羽が飛び込んできてくれなかったら確実にしでかしていただろうその結末は、しかし、成瀬の鉄壁の自信を揺るがせるには充分だった。
今はまずい。ヤバすぎる。今、二人っきりは危険すぎる。せめて、今だけはいてほしい。例え、あんたであってもいいから、と。
普段だったら、怒り心頭だったろう不作法な闖入者に対して、縋りたくなってしまった成瀬を非難する者は誰もいないに違いない。
…ああ、本当に、罪作りだね、ハニー。
つい、遠い目になってしまった成瀬を尻目に、丹羽と啓太の遣り取りは続いている。
「えーと?だけど、王様、中嶋さんと同じ部屋だったんじゃ?」
びくーん、と。丹羽の背が凍り付いたのが見て取れた。
「…うーんと」
さすがに、それ以上は追求しない方がいいと思ったのか、啓太は困った風に口篭もって、そして、成瀬をちらりと見遣る。どうしましょう、と、意見を求めているのを理解して、成瀬は柔らかく微笑んで返す。気にしてくれるのは、嬉しいけれど、啓太が決めていいんだよ、と。つい、いつものように、啓太の気持ちを優先させてしまって。
その上で。何やら、急速に気持ちは落ち着いてきてしまって。
成瀬は腹をくくった。なるようにしかなるまい、と。
今、この状態で啓太と二人っきりは、あまりにも危険だ。
だけど、啓太と二人っきりの夜、というあまりにも美味しいシチュエーションを自ら手放す事もまた、できない。
結局のところ、丹羽はいてくれればそれはそれで、いないでくれてもそれはそれで、どちらにせよ、ありがたいものであると同時に、不快にもなるという訳なのだ。ならば、成り行きに任せてみるのも、いいかもしれない。
半丁博打の一発勝負。どちらに転んでも、恨みっこなし、というヤツだ。
ごめんね、ハニー。だけど。
…できるだけ、努力してみるからね?
そんな成瀬の微妙な気持ちに、何がだ、と、つっこむ人間はいなかった。いたとしても、成瀬は全く気にしなかっただろうけれど。
己の貞操の危機的状況に全く気づいていないだろう啓太は、丹羽に向き直ると、如何にも申し訳なさそうに言う。
「だけど、ここ、布団二組しかないんですよ、王様」
恐縮する啓太に対して。
「啓太の布団に入れてくれれば、大丈夫だ。狭くても、気にしないから」
堂々と、あくまでも堂々と、丹羽は言ってのけた。その瞬間。
不安定に揺らいでいた成瀬の理性が。
ぷっつりと。
音を立てて、はじけ飛んだ。
「…あんたは何を言っているんだーーーーーっっ」



結局。
2つの布団をくっつけて、三人は川の字になって眠っている。啓太は真ん中で、布団と布団の隙間に体が入り込みそうになりながら、両脇から伸びた二組の手が、啓太の頭を抱えていたり、啓太の腰に掛かっていたりで、先程から変な姿勢を強いられている。このままでは、翌朝は体がぱきぱきの大変なことになるだろう。
啓太は、もそもそと体を捩って、二人の腕の檻からの脱出を試みた。頭を上げて、体を下へと引き下ろして。腰に掛かっていた手は、そっと持ち上げて、布団に下ろす。ごそごそと、ただ、ごそごそと。啓太は何とか、布団から這い出した。
啓太の頭の重みがなくなった丹羽は、少し眉を顰めて、目を閉じたまま、布団の上に手を彷徨わせた。腰に掛かっていた手を布団に下ろされた成瀬は、不服そうな声で唸って、布団の真ん中へと身を寄せる。啓太が抜け出た隙間を、二人が寄り合って塞ぐのを見て取って、二人が目を覚ます様子もない事を確認して、そして、啓太は部屋を忍び出た。
足元を照らす暗い明かりだけになった深夜の廊下を、小走りに進む。
行くべき場所は、きちんと判っていた。



そっと戸を叩く。夜だから、周りの迷惑にならないように、だけど、中には聞こえるように、力を加減して。
しばらく待ってみたけれど、ノックに対する応えはない。
もう、眠ってしまっているかもしれない。
諦め半分、それでもドアノブを握ると、それはすんなりと回ってしまった。
王様が帰ってくるのを待っていたのだろうか。こっそり覗くと、上がり框に、白い小さな置物がちょこんと置かれているのが目に入った。
白をベースに黒と赤と黄色でできた、小さな手を耳まで挙げた、招き猫。
煙草以外の、今日の彼唯一の戦利品。
拾い上げて、手の中に包み込む。部屋へと続く襖戸を開けると、白く冷たい光が溢れた。
カーテンを全て開いた窓には、丸い大きな月。
基本的に、啓太達の部屋と同じ作りの部屋だった。純和風の室内の中に、唯一、窓辺に小さな板張りのスペース。簡易ソファセットが置かれたそこに、その人はいた。
先程までの啓太自身のように、中嶋はただ、窓越しの空を見上げていた。
怜悧な横顔は、常以上に峻険で、なのにひどく幻想的でもある。『月宮殿に住む人、とでもいった風情ですね』と悪戯っぽく微笑う、会計部補佐のそんな言葉をふと思い出す。いつ、どんな状況で聞いたのだったか、忘れてしまったけれど、その綺麗な言葉も、その言葉の意味もとても印象的で、その折の彼の微笑みと共に、啓太の内に深く刻まれている。
月から降りてきた仙人。本当に、そんな風に見える。
常ならむ空気をまとった人は、不意に啓太へと視線を転じた。
「…どうした?」
口角の端を吊り上げるようにして、嗤う。もう、いつもの中嶋だった。
「それは、こっちの台詞ですよ」
啓太はほっと息を吐きながら、手の中の招き猫を差し出す。
「こんなの入り口に置いてあったら、王様、部屋に帰ってこられないじゃないですか」
喧嘩でもしたんですか?と、小首を傾げると、中嶋は啓太に射抜くような視線を投げた。
「奴はどうした?」
「俺達の部屋で寝てます。成瀬さんも一緒だから、心配いりませんよ」
ふん、と息をついて、中嶋はようやっと、啓太の差し出した招き猫を受け取り、目の前のテーブルの上に置いた。
それから先、中嶋は口を開かなかった。啓太も喋ろうとは思わなかった。
静かな部屋、静かな夜だった。
空には綺麗な月が浮いていて、中嶋はそれを見つめている。啓太もまた、同じだった。彼と今、同じものを見ているという事が、何だか不思議だった。
大きく綺麗な月の放つ、冴えた光が創り上げた世界に、二人だけしかいない。そんな気にさえなるような、不思議な夜だった。
このまま、ずっと続くといい。そんな風にも思う、優しい夜だった。
しかし、静けさはいつか破られる。造られた世界は、一瞬で霧散する。きっかけは、啓太だった。
「………っくしゅん」
何だか少し、寒くなってきてしまった。
部屋の真ん中に敷かれた布団の前掛けをはぐる。もそもそと見動いて、一番、収まりのいいところに納まると、ようやっとほっこり暖かくなってきて、気持ちもまた、ほっこりとしたものになる。えへへと笑いを洩らした啓太は、そのまま瞼を落としかけたが、しかし、思い出した、とでもいった様子で、再び、目を開け、窓辺に座る人へと視線を向けた。
中嶋もまた、啓太を見ていたので、ばっちり目が合ってしまった。
「中嶋さんも、そろそろ寝た方がいいですよ?」
「………そこで寝る気か?」
「いいじゃないですか。ここ、布団、余ってるんだし」
俺の布団、王様が使ってるんだもん。
ふあー、と。
大きな欠伸が洩れた。横になって、暖かくなってきて、丹羽と中嶋が大喧嘩をした訳ではないらしい事も確認して。いつになく静かな中嶋の顔を見て。
安心したせいかもしれない。
うつらうつらし出した意識の中で、中嶋が呆れたように何か言っているのは判ったが、何を言っているのかは、もう判らなかった。
だって、旅館の部屋で一人で寝るのって、寂しいよ。
「ほう?では、お前が一緒に寝てくれると?」
朝、起きた時、誰かがいてくれるのって、嬉しいから。
「…お前、飛んで火に入る、という奴だぞ?判ってるか?」
もう、よく判らない。眠くて眠くて。このまま、すとんと落ちるように、眠りに入ったら、きっとすごく気持ちいい。
その時、額にひんやりとした感触が当たるのが判った。中嶋さんの手だ、と。目も開かないまま、何故か啓太はそう思った。
えへへ、と笑って、啓太は顔の半分を布団に埋める。

お休みなさい、中嶋さん。

その後の啓太の記憶は、ない。



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