温泉にいこう +++ act.11


さあ Paradise Believer 楽園を探そう
子供の頃に描いた夢をたよりに

パラダイス・ビリーバー/松岡英明



夕食はとても美味しかった。ふんだんな山の幸のみならず、海の幸も新鮮で、来る途中、列車の窓からずっと見え隠れしていた、きらきらと太陽の光を弾く、岩場を交えた海岸線を啓太に思い起こさせた。
お土産に、干物を買って帰ろうかな。
いつも、綺麗に綺麗に魚を食べる和希を思って、何だかちょっと笑ってしまう。啓太に、好き嫌いしてると大きくなれないぞ、なんて言いながら、自分だって、アジフライや和風ハンバーグや、ナポリタンが好きな和希。嫌いなものが出た時も、きちんと残さず食べるけど、箸使いが妙に上品になるから、啓太にはすぐに判ってしまう。当の和希は、啓太に気づかれているとは夢にも思っていないみたいだけれど。
ひとり、くすくすと思い出し笑って。
胸の隙間に入り込んだ冷たさを、思う。
王様がいて、中嶋さんがいて、成瀬さんがいて。大好きな人達に囲まれて、賑やかで和やかで、すごく楽しい。今日はとてもいい天気だったし、陽光をいっぱいに受けた景色はより一層綺麗で、出された食事はどれも美味しい。啓太にとっての幸せの条件は全て満たして、それ故にだろうか、胸に空いた小さな穴に、そこを通り抜ける風の冷たさに、ふと気づいてしまうのだ。
王様がいて、中嶋さんがいて、成瀬さんがいて。大好きな人達に囲まれて、賑やかで和やかで、すごく楽しい。だけど、ここには和希がいない。啓太の胸を埋める最後の、だけど最大の一欠片。
和希が足りない。
……会いたいなぁ…、なんて。
急にしんみり思ってしまった。
和希は、仕事があるから。忙しいから。啓太が我が儘を言ったりしたら、きっと困らせてしまうだろう。和希に心配かけないような、和希が安心して仕事に行けるような、そんなしっかりした大人になりたいと、ずっと思って。
だけど、やっぱり、俺って子供だし、いつまでたっても甘ったれなんだ。
それでも、いいか、と思う。今、この時だけは。
だって、和希はここにいないから。我が儘を言って、困らせるなんて事にはならないから。
会いたいな、と、啓太が勝手に思っているだけだから。
窓越しに見上げた空には、大きな月が浮かんでいる。今、和希も見ているだろうか。啓太と同じ月を見て、啓太と同じように、綺麗だな、と思っているだろうか。
そうだったらいいな、と思う。一緒に美味しい物は食べられなかったし、ゆっくり話もできなかったけれど。
同じものを見ているかもしれないというその思いは、啓太の心を暖めた。

和希、今、何してる?



「…啓太?」
窓辺に置かれた一人掛け用のソファに座って、ただ、空を眺めていた啓太が、振り返って、ふわりと微笑う。
「成瀬さん」
明るくて朗らかで、いつも陽の光のような彼が、まるで別人のようだった。
月の銀燐が降り注ぐ。風呂上がりの濡れた髪に、水を含んで湿った肌に。ちゃんと一般的男子としての身長はあるのに、浴衣の端から覗く手首と足首は、妙に細く見えて、前袷がずれて掠める白い胸が眩しくて、成瀬をらしくもなく、どぎまぎさせる。
「月が凄く綺麗ですよ。まん丸です」
にっこり笑う。その笑顔は、確かにいつもの啓太なのに、どことなく、今にも消え入りそうな儚い雰囲気を漂わせていて。
「今日は、十五夜なのかなぁ」
「いや。十四夜っていうのかな。確か、明日が満月だったと思うよ」
成瀬の言に、啓太は幾度か目を瞬いた。そうすると、先程までの頼りなげな瞳が、不意をついて現れて。
「成瀬さん、物知りですねー」
なんて。いつものように笑ったけれど。
賛嘆の吐息さえもが蠱惑的だなんて、罪作りだね、ハニー。
ふらり、と。
自身、無意識のうちに、伸ばされた手は。
しかし、啓太に届く事はなかった。
彼らの背後で、部屋の戸が、蹴破らんばかりの勢いで開かれた。
勿論、こんな時にこんな乱入の仕方をするような人間は、一人しかいない。
「……とっ、とっとっとっとっ…」
「…王様?どうしたんですか?」
大きな体をがたがたぶるぶる震わせた丹羽が、そこに立っていた。
丹羽へと振り向く啓太から、一歩退き、成瀬は伸ばしかけたままだった己の腕に気づいて、慌ててこれを引き戻して、そして、その手を固く握りしめた。己の冒しかけた所行が啓太に気づかれなかったのは、僥倖であると言ってよかった。
ああもう、全く、冷や汗ものだ。
顔を赤く染めた成瀬は、冷静になろうと、深い呼吸を繰り返す。
あれは、いつものように、子供を抱くように彼を抱きしめる、そんな生易しい衝動ではなかった。例えば、あのまま、成瀬に手を引かれた啓太が、いつものように、この胸の中に落ちてきて。状況のよく飲み込めない啓太が、きょとんとした顔を成瀬に向ける。
濡れた髪。湿った肌。細い手足。いつもと違う、揺れる啓太の瞳。
………いくとこまで、行っちゃってたかもしれない。
よくぞ、邪魔をしてくれた、と。
今回ばかりは、深く丹羽に感謝する。
対して、丹羽は未だに混乱しているようであった。ただただ、「…とっ」を繰り返す丹羽に。
「『と』?」
啓太が、小首を傾げて、続きを促す。
「……………とめてくれ…」
「はい?」
「俺を、ここに、泊めてくれ!」



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