温泉にいこう +++ act.1


さあ Paradise Believer 楽園を探そう
子供の頃に描いた夢をたよりに

パラダイス・ビリーバー/松岡英明



「……けーいーたー…」
「うわ?!」
永久凍土を這うかのごとき声を背後から耳元へと注ぎ込まれて、啓太は思わず飛び上がった。
「…何逃げてるんだよ…」
「逃げてなんかいないだろ!」
憤然と告げながら、啓太の腰はちょっぴり引けている。
実は、和希に背後から囁かれるのは、苦手なのだ。理事長室での事を思い出すから。
普段とは違う和希の、熱く湿った声とか、背中に当たったネクタイの感触だとか。完全に自分というものを失ってしまった当時の己を思うにつれ、顔から火を噴く思いがする。
だけど、こちらを胡乱げに見やる和希には、そんな啓太の気持ちなど思いも寄らないみたいで、自分だけが意識しているのだと思うと、また余計に気恥ずかしい。
「それで、何なんだよ。和希、何か用があったのか?」
ぞわぞわする首元をさすりたいのを我慢して、啓太は正面から和希と対する。あくまでも自然に。和希に後ろに立たれたくない、なんて、気づかれないように。まるで、何でもない事みたいに。
啓太の態度に気を取り直したのか、和希は不審を湛えた愁眉を解き、しかし、きりりと結ばれた口角に真剣さを漂わせながら、ゆっくりと口を開く。
「…啓太。俺に何か、言う事があるだろう」
「え?」
その言葉の冷ややかさ、重々しさ。心なしか、刺々しくさえあるような。
滅多にお目にかかれない和希のその様子に、啓太の腰は先程とは別の意味で引き気味になる。
和希は酷く怒っている。それにようやく、啓太は気が付いた。
だけど、何に対して?
「何か隠してないか?」
ぷるり、と首を横に振る。全く心当たりがない。
しかし、対する和希の視線は、妙に鋭くなってしまった。だけど、本当に何の事を言っているのか判らないのだ。
「………今週末、誰と何処に行くって?」
「成瀬さんと温泉、って、和希、何で知ってるんだ?」
「成瀬さんが言ってたから」
「和希も、成瀬さんに会ったのか?!」
偶然は続くよ、どこまでも。
「ああ、ご丁寧に教室まで訪ねてきたさ。『週末の計画を立てたい』とか言って、旅行雑誌を山と抱えてね」
どうやら、偶然ではなかったらしい。
「…成瀬さん。……30分前に別れたばっかりなのに…」
「で。どういう事なのか、説明してもらおうか」
「温泉旅行が当たったんだよ、ペアで」
天地神明に誓って、後ろ暗い処など一切ない啓太の返答は、明快だった。
「和希は仕事だって言ってたし、王様もそれは同じだし。みんな忙しそうだなぁ、と思ってたら、成瀬さんに会って。成瀬さん、足に怪我したって言ってたから、ちょうどいいかなって」
「…その割には、えらく軽い足取りだったけどな」
どん底まで沈み込むような和希の声に、啓太は小首を傾げた。和希があまり成瀬さんの事を好きではないのは知っているけれど。
保護しなければならない子供が、自分の手を離れるのが心配で?
啓太は軽く顎を引く。
だけど、啓太はもう昔のような幼稚園児ではないし、和希も啓太のお守りをしてくれるお兄ちゃんではない。もうちゃんと大人なのだ。和希の目に、どんなに危なっかしく映っていようとも。
何しろ、先程、自己目標を高く掲げたばかりだ。これからは、和希に気を遣わせたりしてはいけないのだ。
「…あのさ。心配しなくて、大丈夫だから。週末一泊だけだし、成瀬さんも一緒なんだし」
がっくりと肩を落とした和希に、殊更に明るく軽く言ってみせる。
「お土産買ってくるからさ。期待して待ってろよ」



成瀬は幸せだった。
旅行計画と称して、休み時間毎に啓太を教室外に連れ出す幸福。その度に、遠藤和希が浴びせてくる恨みがましい視線を、背中に感じながら、これを綺麗に無視してみせる至福。
怪しげな親父に「最高ですかー!」と問われたら、「最高でーす!!」と拳を突き上げて返してしまいそうだ。
「…あの。成瀬さん…」
「なんだい?ハニー」
昼休みの時間。一緒に昼食をとって、中庭の芝生の上で、現在は日向ぼっこの真っ最中。
ああ、ほんとに、いつ見ても可愛いなぁ、なんて、うっとり見つめる成瀬の前で、啓太はちょっと俯いて、それから意を決したように、顔を上げた。
「あの。…本当に、ご迷惑じゃなかったですか?」
「何が?」
にこやかに微笑む。すると、らしくなく気弱そうだった表情に、成瀬につられたかのように、安堵を湛えた微笑が混じる。
「こんな突然、旅行なんて誘っちゃって。準備も慌ただしい事になっちゃうし、かえって迷惑だったんじゃないかなって、そう思ってたんです…」
「何だ、そんな事」
軽く言うと、啓太は不満そうな顔をする。
だけど、本当に『そんな事』なのだ。
「ハニーに誘われて、僕は、すっごくすっごく嬉しかったんだから。今更、『やっぱり止めましょうか』なんて言われた方が、ずっと辛いんだって事、判ってるよね?」
すると、何かを丸飲みしたようなびっくり顔。本当に『止めましょうか』と言おうとしていたんだね。
「最近、部でもちょっと忙しかったからね。怪我をしたのも、そろそろ骨休めをするべきだって神様の思し召しかもしれないって思ってたけど、それでも、不安がない訳じゃなかったんだよ。休めばそれだけライバルとの差がついてしまう、僕がいるのは、そんな世界だからね」
途端に、はっとした顔をして、そして、真摯な瞳で僕を見つめる。素直で、正直で、優しい君。
成瀬は、慈愛の微笑を浮かべて、続ける。
「だからね。そんな時、君が一緒にいてくれたら、それはとても嬉しいし、心強い事なんだよ」
…ああ、こぼれ落ちそうな瞳だなぁ。大きく見開いた目いっぱいに僕を映して。
「…キスしてもいい?ハニー」
「………ふえ?」
唐突な成瀬の発言に、何を言われたものか、判っていなかったらしい啓太は、目を瞬いて成瀬を見返す。
にっこり笑顔で顔を近づけると、ようやっと先程の成瀬の言葉が脳に到達したといった風情の啓太は、突如、顔を真っ赤にして後退った。ぺったり芝生に腰を下ろしていた啓太は、殆ど仰向けに転がってしまいそうな勢いだったのだけれど。
「冗談だよ」
くすくすと笑って手を差し出すと、啓太はぽかんと見つめ返して、そして、むっとしたように成瀬を見据える。
そんな、目元を赤く染めた顔をして睨んでも、色っぽいだけなんだけどね。
結局、大人しく成瀬の手を借りて身を起こす啓太を、これ以上怒らせないように、と笑いは堪えて。
この少年が、成瀬の先程の言動全て、彼に向かって吐いた弱音も全部、冗談だと捉えた事は明白だった。実際、成瀬はそのように彼が受け取るだろう風に、振る舞ったのだから。
だけど、語った言葉は、多分、ほんのちょっとだけ本気。
捻挫を治すために少し休んで、それでライバル達の追随を許す程、成瀬は自分に自信がない訳ではない。この学園へのチケットを手に入れる程の者なら、このくらいの矜持は皆、抱いているだろう。
だけど、彼の同情を買えるかもしれないという下心つきの小さな弱音は、それを口にした瞬間、全く胸の内になかった訳でもないのだと、そう成瀬は気がついた。
この少年の前では、自分の全てがさらけ出されてしまうのを感じる。作った弱音ではない、本当の弱さなんて、人に見せない。見せたくない。そんな成瀬のプライドが作り上げた障壁を、この少年はいとも容易く踏み越えてしまう。
ふと気がつくと、常に彼が隣にいる不思議。
ハニー。本当に、君は素敵だよ。その瞳に映るのが、僕一人だったらいいのに。



結局、啓太が、やっぱり旅行は取りやめよう、と言い出せなかった事に気づいたのは、昼休みも終わりを告げるチャイムも鳴り響く頃の事だった。



 ◆→ NEXT






 ◆◆ INDEX〜FREUD