温泉にいこう +++ 序


さあ Paradise Believer 楽園を探そう
子供の頃に描いた夢をたよりに

パラダイス・ビリーバー/松岡英明



『過日は、当社主催のクイズイベントにご参加頂き、誠にありがとうございます。この度、貴殿が一等温泉旅行に当選された事をここにお知らせ致します…』
伊藤啓太にとって、それはあまりにも見慣れた文面であると言ってよかった。
<秋の味覚満喫>の文字に惹かれて応募した、問題文の横に回答が書かれている類の、なんて事のない文字埋めクイズ。一等は、豪華露天風呂付き温泉旅館に一泊旅行。お二人様ご招待だ。自宅から転送されてきたために、啓太の手元に届くまでに随分時間がかかってしまった。実際の申し込み手続きの締め切りまで、もうあまり余裕はない。
「和希、行けるかな…」
口をついて出たその呟きに、己の思考が外に洩れている事に気づいた啓太は、思わず赤面する。寮の個室でたった一人、案内文を覗き込みつつの呟きなど、他の誰の耳に届く訳もないのに。
親友の和希がカズ兄で、実は理事長でもあった事を知ったのは、数ヶ月前の事だ。
啓太にとって、理事長は、BL学園への招待状を贈ってくれた足長おじさんであり、転校してすぐ、この学園が大好きになった啓太にとっては、大恩人であると言ってよく。
結果、『理事長のお気に入り』の看板がついたような啓太は、理事会の派閥抗争に巻き込まれたりもしたのだけれど、それも全て、雨降って地固まる、というもので。
生徒は決して足を踏み入れる事のできない理事長室に行く事ができたのも、学園MVPになったおかげだったし、啓太はそこで、初めて真実を知った。
足長おじさんで大恩人で。この学園でできた初めての友達。啓太の心の中で、彼が占めるウェートは、あまりにも大きくて。
同性同士であるという事実は、問題にならなかった。
そして、今までの親友は親友ではなくなり、恋人となった。少なくとも、啓太はそう思っていた。なのに。
あまりにも彼は、今までと変わらない。まるで、全てが啓太の夢か、妄想ででもあったかのように。
それは、彼が本当は啓太よりもずっと大人なせいなのかもしれないし、啓太よりもずっと落ち着いていて、理性的なせいかもしれなかった。それに、元々、あまりベタベタするのを好まないタチなのかもしれない。そういえば、『カズ兄』は、甘ったれて懐いた啓太に優しく接してくれたけれど、あの頃の啓太を好いていてくれた事も疑いはないのだけれど、べったりとしたスキンシップが多かったか、と言われるとそんな事もなかったし、どころか、抱っこをしたり手をつないだりといった、啓太が大好きだったそれらの事は、実は苦手な部類だったのではないだろうか、と、遠い昔の記憶を必死に掘り起こした結果、昔よりも多少は周囲の人々の心を推し量る事を覚えた今では、あの当時の『カズ兄』を思い起こすにつけ、そんな風に思ったりもするのだ。
いや、別に何かされたいって訳じゃない。前に一回だけやった時も、痛いわ苦しいわで大変だったし…って、何考えてんだ俺!
ベッド上を居間スペースにするのは、こういう時には便利だ。ひとしきり、じたばたと足掻き、ベッドの上を転がると、それで沸騰した脳みそも少し冷えて、ちゃんとものを考えられるようになる。
これは、深い意味なんかないのだ。ただ、旅行券が無駄になったらもったいないから。
そして、和希とゆっくり話をしよう。和希は最近、授業に出てこない事もある。顔を見られない日は退屈で、少し淋しいから、たまに一緒に出かけられたら、とても嬉しい。
いつもと違う環境で、同じ物を見て、食べて、一緒に笑いたい。
…本当に、それだけだぞ。それだけなんだからな。
己に対して念押しする。拳を握りしめてブツブツと呟く、その姿は相当に胡散臭げであったのだが、前にも述べた通り、見咎める者は誰もいない。
自然に、さりげなく、誘えばいいのだ。「今度の週末、空いてるか?」と。
明日こそは、和希も教室にいるといいのだが。



「…そっか。和希、忙しいんだ…」
週末は理事長としての業務に勤しむ、と苦笑する和希に、啓太は大慌てで手を横に振った。別に大した用事ではないのだと。努めて、何でもない事のように装って、何か他に用事でもあるかのような顔をして、彼の前を急いで辞する。
共にいられない事の落胆と、彼の忙しさを考慮していなかった事への反省。己の誘いを受けられない事だってあるのだという事に思い至らなかった恥ずかしさ。
そんな感情のない交ぜになったこの思いは、醜い。きっと今、己は嫌な顔をしている。
なのに、それを悟られたら、この我が儘さ加減を彼の前に晒されたら、己は和希に怒りを感じるかもしれない。和希が悪い訳じゃないと判っていても、その聡さを疎むかもしれなかったし、そして、それに和希が気づかない訳もない。そうなったら、また和希に負担をかける事になる。
ひたすら、啓太にとっていいように、と心を砕く優しい彼に。
思うに、己は今まで、和希に気を遣わせっぱなしだったのではないだろうか。
考えるまでもなく、『その通り!』と己の中では、白い羽を生やした厳しい啓太が告げている。だけど、和希だって、俺に何も言ってくれないし…、などと、己をフォローしようとする甘ったれた啓太の意見を対して、びしびしと入れられるつっこみに、ぐうの音もでない。
これからは、もうちょっとしっかりしたい。というか、しっかりしよう。
自己反省の極地から、前向きな自分目標を打ち立てるに至った啓太は、心に誓う。
ともかく、これ以上、和希に気を遣わせたくはない。和希が行けないんだったら、旅行は取りやめにしようか、なんて思った弱気な心に、活を入れる。そんな事をしたら、後で絶対に和希は気にしてしまうのだから。
和希がいなければ何もできない、なんて、思われたくないもんな。
心が決まると、足取りもゆっくり、落ち着いたものになった。学園の中庭は、光のよく通る緑溢れる回廊になっていて、啓太のお気に入りの場所のひとつだ。学園の中央に位置し、どこに行くにもちょうどいい場所でもある。
しきり直しには、最適だ。
…誰か、他に一緒に行ってくれそうな人、いないかなぁ。
その思いに反応するように、啓太の脳裏に、ひとりの人物の姿が浮かぶ。
いや、王様は無理だろう。いつだって週末は、学生会室に詰め切りだ。正確には、あちこち、校内を逃げ回っているんだけど。一週間分の仕事のサボりを解消させようと、中嶋さんが頑張っている。誘ったら、喜んで来てくれそうではあるけれど、その結果として中嶋さんに恨まれるのだけは、ご免被りたい。
西園寺さん…も、駄目だろうなぁ。何より、会計部に関しては、どちらか一人だけを誘うという気にはなれない。同じ理由で、七条さんも駄目。
篠宮さん、岩井さん、と常日頃、仲良くしてくれる人々の顔をつらつらと思い浮かべながら、ここはやはり、俊介かな、と心を決める。
なんたって、<秋の味覚満喫>は、大喜びしてくれそうだし。
その時だった。
「ああっ、ハニー!こんなところで会えるなんて、やっぱり僕たちは運命の紅い糸で結ばれているんだね!」
「……成瀬さん…」
会ってしまった。ちょっと変なテニス部々長に。
彼の何が変といって、勿論、このノリも相当変だとは思うが、何より、出会った当初から啓太を好きと言って憚らない、人目も気にせぬこの押しの強さだ。啓太にとっては、ちょっと苦手な人ではあったのだが、それでも、人から寄せられる好意というのは、それがどんなものであれ、嬉しい。何しろ彼は、テニスをしている時だけは、掛け値なしに格好いい人でもあったので。
変だけど、格好良くて親切な人。それが、啓太にとっての成瀬像である。彼を構成するその3要素が、啓太の中でどのようなバランスで存在するか、それはまた、その時々の話ではあるのだが。
「成瀬さん、テニス部はどうしたんですか?」
成瀬の言う、この広い校内でばったり出くわす偶然は、現在、部活動真っ最中であるはずの彼がここ、中庭にいる、という不思議の上に成り立っている。
対して、成瀬はちょっと渋面を作って見せた。
「ちょっとドジっちゃってね。足を捻っちゃったんだ」
なるほど、改めて見てみれば、短パンからすらりと伸びた長い足、靴下に隠れた足首の片方が少し、太くなっている。保健室で湿布され、包帯を巻かれたとすれば、成瀬の言い様よりも実はもう少し、症状は重いのかもしれない。
<神経痛、筋肉痛、関節痛、腰痛、打撲、捻挫、疲労回復…>
啓太の脳裏を、一般的にいわれる温泉の効能が流れ過ぎていく。
「…あの、成瀬さん。今度の週末なんですけど、時間空いてませんか?」



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