迷宮 +++ 王城にて act.1


その糸玉はきっと貴方を救うでしょう



白い花が咲く。
行く道の頭上に渡された棚を這うように伸びた蔓から垂れる花も、大地を覆う小さな花も、これは啓太も知っている、綺麗に調えられた枝振りの薔薇も、庭にある花は、全てが白い。
白と緑とに設えられたその庭園は、全てが夢のように美しかった。
先程まで歩いてきたところは、そうではなかった。普通の、とんでもなく綺麗だったけれども、赤い花も黄色い花も、青い花も咲いている、普通の庭だったのだ。
もしかしたら、入ってはいけない場所に入り込んでしまったのではあるまいか?
現在進行形で迷子である啓太は、それでも、足を止めようとはしなかった。生来よりの前向き思考もあったが、普通に考えて、どこまでもこの庭園が続くという筈もなく、ならば、どこかに辿り着くのが道理というものであったし、そこで出会った人に事情を説明して、帰り道を尋ねるというのが最も建設的だと思われた。少なくともこんな時、啓太の養い親だったら、きっとそう言う。

てくてく。
てくてくてく。
てくてくてくてく。

しかし、行けども行けども白の庭だ。
本当に、果てなんかないのかもしれないと、ふと思う。だって、ここは啓太の生まれ育ったところとは、啓太の属するところとは、世界が違う。本来だったら、一生涯、足なんか踏み入れる事はなかっただろう、そんな場所なのだ。
そんな風に考えたら、何だかちょっぴり疲れてきた。
ちょっとだけ休んでいこうと、啓太は、花の生け垣にできた小さな窪みに、体を寄せて座り込んだ。はふ、と溜息とも呼吸を整えるともつかぬ息を吐いて、丁寧に裾の折り目を調える。養い親が用意してくれた、折角のよそ行きの服だったから。
見上げた空はどこまでも青くて、風は花の匂いがして、庭の花は全部、白。
まるで、不思議な物語の中に迷い込んだかのような。
……。
…………。
………………。
はっと、我に返る。
疲れたからといって、ぼんやりしていたら、このまま眠ってしまう。こんなところで眠り込んだら、それこそ、この庭から出られなくなってしまいそうだ。啓太は慌てて、立ち上がる。今まで歩いてきた方角を確認して、あちらこちらと周囲を見渡して。この白の庭を観賞する人のいるだろう場所は何処だろう。取り敢えず、一番、視界の拓けた場所に行ってみるのがいいんだろうな、と思いを巡らせ、それでも、目に飛び込んできた。その一際立派な真っ白い薔薇。
大輪の、香りの高い、艶やかさよりも高貴さの立った、凛とした姿の美しさ。
薔薇の花は、見たことがある。
だけど、こんなに綺麗な薔薇は、初めて見た。
つい、ふらふらとその花に寄った。もっと近くで見てみたい、とそう思って。
その時。
「おや。これは可愛らしい花盗人さんですね」
柔らかな声が、頭上から降ってきた。





「では、そのように取り計らおう」
固く、感情の色のない中嶋の声が告げるのを、横に座った丹羽はただ、聞いていた。
「ああ。協力に感謝する」
脅し混じりの圧力を『依頼』と言い切る男にとっては、それへの忍受もまた、『協力』に他ならないのだろう、と半ば皮肉に思いながら、横にいる友人兼宰相の腑の奥底をふと思う。
まぁ、煮えくり返ってるんだろうな。
氷のような、と称されながら、その実、苛烈、という言葉が相応しい、火のような気性の激しさの上に、山よりも高い自尊心を乗せたような奴なのだ。この中嶋という男は。
後で、八つ当たりされるのは俺なんだから、いい加減にしといてほしいよな、と思う丹羽は、この場では完全なる部外者である。国の政治を掌握する身としての自覚が欠けている、とは、中嶋がくどくどと言う常の言であったが、実際、政務を処理するのは宰相である中嶋だったし、政治的な観点で言うならば、丹羽はただ、飾り物のようなものじゃないかと思うのだ。決して、卑下する訳でなく。
だって、それでも、丹羽がこの国の王である事実は、変わりようもないのだし、王には王として、すべき仕事がある。そしてそれは、中嶋の領域に首を突っ込む事ではない。
国王は、軍事力を保持する事によって政治の実権を握り、各地の諸侯の手綱を握り、己の領域を平定する。力の象徴であり、その象徴が強大であればあるだけ、領域の平穏は保たれる。
支配する、とは、そういう事だ。国内の諸侯から、外国の諸王からナメられないだけの力を示すことが、この国に平和をもたらす。ならば、精々、派手な飾り物になる事が、丹羽の勤めというものだ。
ナメられる要因となりうる年齢で王位に就いて、王立学院で学友だった中嶋を口説いて引き抜いて、ただ、ここまで走り続けてきた。現在の丹羽は、周辺諸国を支配する王の中では、最大といわれる。つまりは、丹羽と中嶋とで治めるこの国の安定度もまた、同様の評価を受ける、という事だ。
しかし、それでも全てを治められる訳ではない。不安定要素はある。この世界のあらゆるところに。
例えば、今、目の前にいる男。
丹羽の治める国に住まいながら、丹羽に属さぬこの男は、大聖堂の支配の元に存在する。
国王である丹羽の前、儀礼として頭を下げた男、完璧な作法に則った、しかし如何にも用は済んだと言わんばかりの男に対して、素っ気なく頷いてみせる。退出を許すの意を滲ませて。
男は丹羽の民ではない。所属する国を持たない。国家に護られる権利を放棄した彼らは、現世に於ける全ての権力から、解放されている。己はそれを知り、そして、男もそれを知る。全て知った上での猿芝居。
この世界には、丹羽や諸侯の治める俗なる世界の他に、もうひとつ、異なる世界が存在する。
地上に7つ存在するという大聖堂は、7人の大主教が自ら治める、聖なる世界の王城である。
この世の全てに版図を広げる教会権力は、俗界の国境を全く無視して、丹羽の治める国土の上にも、影響力を及ぼす。
そこからやってくる使者のふっかける無理難題は、常に丹羽と、恐らく中嶋にも、己の力の及ばぬもうひとつの世界の存在を意識させずにはいられないのだった。
そんな面倒くさいものを、自国内に抱えた国は、さぞかし苦労しているのだろう。
少なくとも、丹羽と中嶋と同様の思いをしている者が、後6ヶ国にはいるという事だ。
ちらりと中嶋の様子を窺う。こちらに流した彼の視線と、しっかりと出会ってしまった。その中に、冷えた彼の感情が読み取れて。読み取れる程度には、この相棒との付き合いも長かったもので。
ああ、全く面倒くさい。
男が帰ってからの恒例行事と化した日常が繰り返されるのかと、つい溜息も洩れようかというその時に、扉の向こう、男が出て行った先で起こった非日常を丹羽は知ったのだった。





篠宮は、心中溜息を吐きつつ、廊下を歩む。今まで彼が王と宰相と対峙していた部屋も、非常識なほどに贅を凝らした空間であったが、ここもまた壁一面に彩色され、布が掛けられた美的な場となっている。ただ、部屋から部屋へと移動する為の通路に過ぎないというのに。
この王城という場所は、何処もかしこも金のかかった作りになっていて、篠宮をうんざりとさせる。彼はそもそも、質素を旨とする人間であったし、己の頭が固い事は、幼い頃から共に育った友人にも、友人と共に育ててきた養い児にも多々指摘されるところで、その自覚は充分にあったのだが、合わないものは合わないのだ。
確かに教会も、一般信者の出入りする区画は豪華なものとしているが、それはあくまで表向きだ。神の領域を表現するという目的を満たすための、言わば虚仮威しに過ぎない。
篠宮は、深く細い息を吐く。
しかし、ある意味、ここもそうか。
ここもまた、国王の偉功を示すためにある舞台装置のようなものかと思えば、ある程度許容はできるものかと思う。
教会の表門すら、非効率的だと思う篠宮にとって、それはあくまでも許容であって、理解では全くないのだけれども。
しかし、これで意に染まぬ仕事にも片が付いた。ようやっと、己の領域に戻ることができるのだ。
人の祈りと救済の約束で成り立つ教会は、金の卵を産む鵞鳥のようなものだ。事実、教会は人々より約束の見返りとして金銭を取る。配下にある無数の教会が集めた金は、その殆どが大聖堂へと集積される。その資産だけでも、ちょっとした国家並のものだろう。しかし、それ以上に教会は、人々の信仰の対象なのだ。
その頂点にある大聖堂は、人々の中で、王城以上の権威を持つ。
己らは、王城にとってはさぞかし、邪魔な存在なのだろう。その程度、篠宮にだって軽く想像のつくところだった。
だが、それはお互い様だ。
教会と俗界との対立は、既に世界に組み込まれた体系のひとつであるともいえる。
幾つもの火種はある。それがいつか、紛争の元となる可能性はある。大切なのは、負けない事だ。生き残る事だ。世の中とは、そう決まっている。
それが摂理というものであり、篠宮には勝ち残る自信がある。
篠宮は、控えの間として与えられた部屋へと入り、その内を一渡り見回した。ここもまた、寛ぐには充分な広さを持った豪奢な空間となっている。先程、王城の者との会談の前にここに来た、その時と全く変わらぬ、しかし、決定的に違っているその部屋。
「…啓太?」
先程までいた人間が、そこで待っている筈の養い児の姿が、そこにはなかった。





「いなくなった?誰が?」
「篠宮様のお連れの方です」
何やら、周辺がざわついているのを不審に思い、通りすがりの女官を捕まえて、何が起こったのかを聞き出すに、大聖堂特使殿の供であった少年の姿が見えなくなったとの事だった。
控えの間から廊下に出た者には全く気づかなかったと、業務で始終廊下を使う侍女達は言っているという。それでも、彼女らの目をすり抜けた可能性は残るし、部屋から直接下りる事のできる庭へ出たとも考えられる。つまりは、何処に行ったのか、皆目判らない。
国王だの宰相だのという存在には、とかく小さな現場情報は入ってこないものである。よって、こまめに自身の足で稼ぐしかない。
そして、こういった場合、その役割を担うのは、国王自身であった。この国の宰相閣下は、決して肉体労働はなさらない。
丹羽に対して、丁寧に腰を落とすと、女官は身を翻した。丹羽の前から逃げ出したくて、という訳ではない。自身で言うのも何だが、丹羽は女官達との間に友好的な関係を築いているし、彼女達も気安く声を掛けてくる国王に対して、肩肘張った態度を取るものでもなかった。ただ、常に冷静な大聖堂特使のあまりにも常ならぬ様は、彼女達をも皆常ならず、全面的に協力して、かの連れの者とやらを探し出さなくてはと、そんな思いを抱かせているらしかった。
つまり、丹羽に呼び止められ、丹羽と話すのは、時間を無駄にする行為であり、はっきり言って迷惑なのだ。
そもそも、あの大聖堂特使は、女官達の密かな、しかし熱の篭もった視線を集める存在であった。彼の役に立てるのなら、というところなのか。
過去、中嶋に、誰彼となく気安くつき合いすぎる、と忠告混じりに叱責された例を鑑みるに、どうやら丹羽は、彼女達にとってあまりにも気安すぎる存在と化してしまった節がある。既に現在、彼女達の中での上下関係は、篠宮>丹羽、という事になっているらしい。
丹羽は、少々むくれた気分で、目の前をあちらこちらぱたぱたと小走りに動き回る女官達を見遣る。誰を取っても、主君である王の存在が目に入っている様子もない。元々、平伏されたいという訳でもないのだけれど。
ちょっとくらい、気を遣ってくれたっていいじゃないかと思う。
ほんの数呼吸分、ダラダラと拗ねて、しかし、丹羽はそれで思考を切り替えた。
篠宮が供連れで登城するなんて、初めてなのではないだろうか。しかも、部屋からいなくなったという話ひとつで…丹羽は、精々城内で迷った程度のものだろうと思っていたが…ここまで動揺する程の人物だ。その上、子供だというではないか。
篠宮が連れてきた子供とは、一体何者か。
物見遊山でもあるまいから、大聖堂特使の補佐、又は篠宮の後を引き継ぐ者としたいのか。流石に、篠宮はまだ、引退を考えるような年でもないから、ゆくゆくは、という事なのであろうが。
少なくとも、大聖堂側は、それなりの期待をその子供にかけているという事なのだろう。
そういった、表向きにかかる比重もさることながら、何よりも面白いのは、あの篠宮がその子供とやらを、義務感以上に心を寄せているらしいところだ。
常にむっつり顔色を変えない、見るも腹立たしいあの男が。
いなくなった、たかが子供に顔色を変えて走り回る?
これを、面白い、と言わずして何と言うのか。
これは是非、中嶋にも教えてやらなければ。
どんなに小さな情報でも、役に立たないと確定するまでは重要な情報のひとつだ。情報の取捨択一は、手に入れたその時点ではできない事も多い。しかし、これはいかにも、といった話ではないか?





「なるほど。それは面白いな」
「だろ?」
丹羽は得意満面、にこにこと笑う。対する中嶋は、醒めた顔のままなのだが、それはいつもの事だ。この男は常日頃から正直ではないが、しかし、この発言は確実に本音だ。
何せ、相手があの篠宮である。中嶋の中では確実に敵設定されている、大聖堂特使である。少しでも相手の弱みに繋がりそうな情報は、何を於いても欲しがるだろう事くらい、当然といえよう。
そんな丹羽の予想を裏付けるように、中嶋が嗤う。
「あの鉄面皮が、な」
愉悦の滲む中嶋の呟きに対して。
いや、それはお前が言える事じゃないだろ、と。
喉の辺りまで持ち上がってきていた言葉を、丹羽はとっさに呑み込んだ。
我ながら、賢明な判断である。
しかし、そんな丹羽にちらりと冷めた視線を投げると、中嶋は踵を返した。バレた?丹羽の背に、一瞬、ひやりとしたものが過ぎる。中嶋の口撃に決して勝てない丹羽としては、彼の標的となるような行動は極力避けたいところだ。
「おい、どうした?」
かかる言葉を受けた背は、しかし、振り返らず、
「行くぞ」
とだけ、言った。
「何処に??」
「…その子供がいなくなったという、そもそもの場所に、だ」



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