カードの裏側 +++ act.6 2/3


醒めない夢

(6のお題 キスの甘さ/「as far as I know」様)


今、己の腕を取る手の存在が信じられない。
あんなにも触れたいと欲して、そして、触れられなかった手。
「…あの、…さ」
掠れた喉に、息を呑む。喉を湿して、そして、改めて口を開く。彼は本物だろうか。そんな捨て切れない疑問を乗せて、その名を口にする。言ってはならないと、陽の光の下に暴き立てる事なんか許されないと、自らに律したあの人の名。
「……さいおんじ、さん…?」
啓太の声が届いたのか、足早に突き進むといった様子だった西園寺は、歩みを止めた。彼は軽く息を上げていて、その事実故に啓太は、ああ、本当に西園寺さんだ、とぼんやりとした心のどこかで思う。
西園寺は、啓太へと向き直る。
白くて細くて、綺麗な手。差し伸べる、その仕草だけで啓太を支配した、手。それが。
啓太の元へと伸ばされて。
今にも頬に触れる。その瞬間。
啓太はびくりとその身を竦めた。
そして、彼の手はその場に留まり。
結局は触れぬまま、引き戻された。


何で。
どうして。

会うと苦しい。苦しいけれど、会いたい。彼に対する思いは常に矛盾を孕んでいる。
会いたくて、会いたくなくて。だけど、会いたくて。
そんな気持ちに自分で折り合いがつけられるようになるまで、会いたくなかった。

全部、なかった事にして。
いつか、普通に笑って貴方の傍にいられるようになる。せめて、そう演じられるようになる。

もういらないんなら、いつかいらなくなるんなら。
一欠片の興味も失って、飽きた玩具が捨てられるみたいに貴方の中から消え去る前に。

ただ、貴方に憧れるだけの後輩に戻りたかった。


吹く風が頬の温度を奪っていって、それで己が泣いているのだという事に気づく。そして、今は放課後で、構内には部活動で残っている生徒は幾らもいるという事にも。
慌てて、制服の袖で己の顔を拭う。そして笑って。
「お久し振りです。西園寺さん」
彼の前で見せたいと思っていた、とびきりの笑顔を作って。
「俺、今日から学生会に復帰したんです。また会計部に顔を出す事もあるかと思いますけど、よろしくお願いします」
西園寺さん、学生会に用事があったんですよね、書類だったら俺、預かりますよ。


だから。

早く。

離れてしまおう。


早く帰りたい。学生会室へ。己に許された居場所へ。
そんな啓太の心中を読み取る事など、彼には簡単な事だったのか。
西園寺が嗤う。
その顔は、啓太が守ろうとした、捨て去ろうとした夜の顔。
啓太の腕を再び取って、乱暴に引く。そんな事をされると思いもしなかった啓太は、引かれるままに彼の胸の中に落ちて、だけどそれは殆どぶつかるといった勢いで、彼の足をもよろけさせて。
途端に溢れた、彼の匂い。バラとムスクと紅茶と。そんな色々が入り交じった西園寺の匂い。
眩暈がする。
「……啓太」
耳元に落ちた囁きに。
けれど、啓太は我に返った。
誰かに見られたら。
その思いは、極端に回転の鈍っていた頭に冷水を浴びせ掛けて。
啓太は西園寺の胸を突いて、飛び退いた。


駄目なんだ。


何が、とか。
そんな思いは、浮かばなかった。ただ、駄目なんだと思った。
肺一杯に、空気を吸い込んで、彼の匂いのしない空気で己を満たして、そして彼に向き直る。
笑顔を。
作って。
だけど。
目の前の西園寺は。
啓太が、今まで見た事のない、顔をしていた。
冷静で、常に自分と周囲とをコントロールする、曲げぬ自身をしっかりと持った昼の顔。
嫣然とした笑みひとつで啓太を支配した、夜の顔。
そのどちらでもない。まるで寄る辺ない子供のような。
儚い微笑み。
今更、そんな顔を見せるなんて、反則だ。
「お前は、狡い」
狡いのは、西園寺の方なのに。
何故、そんな事を言うのだろう。
「お前はいつも、私の前から逃げる」
逃がしてなんてくれないくせに。
「何かあると、いつも遠藤や学生会へと逃げて…」
淡く儚く、西園寺が微笑う。
「それを、私がどう感じるのかは、全く考えないのか?」
何故、涙を湛えているように見えるのだろう。


ただ、貴方に憧れるだけの後輩に戻りたい。時を戻して。何もなかった事にして。
だけど、そんなのは嘘だった。
啓太は、全部が欲しかった。夜だけじゃなくて、昼の彼も。そんな権利なんかないのに、欲張りにも、何もかも全部が欲しかったのだ。
手に入らないと知りながら、願う自分が惨めで、哀れで。
そんな自分に気づきたくなかった。気づかれたくなかった。彼にだけは。


西園寺はいつだって、見たくなかったそんな自分を、啓太の前に突きつける。
酷いのは、西園寺の方なのに。
なのに何故、啓太が彼に酷い事をしたかのような気持ちになってしまうのか。
「もう、いい」
西園寺が言った時。
「全部、終わりにしよう」
何を言われたのか、判らなかった。
「初めから、何もなかった。…それが、お前の望みなんだろう?」
薄く微笑んで。冷たく微笑んで。
西園寺は、啓太に背を向ける。いつものように優雅な様子で、不必要なものには気持ちなんて一欠片も残さない、そんな様子で。
啓太の事を、切り捨てる。
その瞬間。
足元が崩れ去るのを感じた。
何で元に戻れるなんて思ったんだろう。彼は、そんな甘えを許してくれる人じゃない。もう二度と、啓太を視界にも入れてくれないかもしれない。それが、彼にとっての『何もない』という事だ。彼の中から、完全に啓太の影を消し去って。そして、啓太は居なくなるのだ。
目の前が暗くなって、その場にへたり込んで、もう一歩も動けない、歩けない。そんな感じ。


嫌だ。彼の中から消えるのは、嫌だ。お願いだから、残しておいて。
俺が居られる場所を。ほんの少しでいいから、片隅で構わないから。
お願いだから。


「西園寺さん!」



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