カードの裏側 +++ act.6 1/3


醒めない夢

(6のお題 キスの甘さ/「as far as I know」様)


一歩一歩、近付く度にどきどきする。口から心臓が飛び出しそう、と言うけれど、本当に飛び出しそうな気分なんて、啓太は味わった事がない。今、この時より前には。
掌に汗は滲むし、足は震えてくるし、学生会室の前に辿り着いた時には、もう息も切れ切れの状態で。
体温だって、瞬間温度で40度くらいまで上がってしまっているような気がする。
何しに来た、とか、別に呼んでない、とか。
脳裏を巡る中嶋と丹羽の声は、今は幻聴だけれど、ほんの少し先の未来の持ってくる現実かもしれなくて。
不安と緊張は、啓太の体を鉛のように重くした。だけど。
啓太が学生会の二人に対する時、いつだって二人に負けないくらい持ち合わせていると言えるのは、せめてそれだけは持ち合わせていると思いたいのは、気合いと根性、それだけだ。
その一心で。
頑張れ、俺!
啓太は、目の前に聳え立つ扉に拳を振り下ろした。
がこん、と激しい音がした。…ちょっと力が籠もり過ぎたかもしれない。これではまるで、殴り込みのようだ。思ったら、ちょっと逃げたくなったが、そうしたら今度は、ピンポンダッシュのようだ。おぶおぶぐるぐると回る思考の中、啓太の気合いと根性は、半ばやけくそへと転化した。勢いのまま、力任せに扉を押し開く。扉は、壁に当たってまたしても激しい音を立てたが、頭に血の上った状態の啓太にとっては、もうそれどころではなくて。
「すいません!伊藤です!こんにちわ!お邪魔します!」
そのまま、深く頭を下げた。拒否される恐怖。思い通りに行かなかった自身の行動への困惑。ひっくり返ってしまった声がまた、羞恥心を掻き立てる。
部屋の中は、静まり返っていた。驚かせたのだろうか。それはそうだろう。呆れられたのかも。それもそうか。うう。恥ずかし過ぎる。
耳の奥では、どくどく血管を血が流れる音がしていて。ただ、くらくらと眩暈がした。
ちょっと遅れて。
「…うるさい」
如何にもうんざり、といった様子の中嶋の声。
「…啓太ー。来てくれたのかー」
学生会の作業も窮まった末の掠れた丹羽の呻きも、ほんの数日前まで確かに存在していた啓太の日常で。今、目の前にそれが在るという奇跡に、不意に涙が出そうになる。
「啓太、もう体は大丈夫なのかよ」
こき使っちまったからな、とすまなそうに頭を掻いた丹羽曰く。
啓太の注意力が散漫になっていると、体調が悪いんじゃないかと傍目にも判る程だった、前回の臨時業務が終わった後、憤然とした様子の和希が学生会へと怒鳴り込んできたという。有無を言わせぬ勢いで啓太の休暇をもぎ取ると、和希はきっぱりと言い切った。「その間、啓太には、絶対に顔を見せないで下さい」と。
「お二人の顔を見たら、何だかんだで手伝いに行くって言い出しますから」と。
言葉遣いは丁寧だったが、あれは完全なる厳命だった、とは丹羽の弁。
啓太は、目の前が暗くなるのを感じた。
……いや。和希は、俺のことを心配してくれてたんだ。そうなんだ。
それは判っている。判ってはいるけれど、二人に会えもしなかったこの数日、疎まれたかも、嫌われたかもしれないと思ったこの数日の心の痛みといったら一体…。
つい、和希に恨み言のひとつも言いたくなったが、しかし。
「もうすっかり元気ですから」
啓太は、明るく笑って見せた。和希と話をするのは、寮に帰ってからでいい。
「お休みもらっちゃって、すみませんでした。これからまた、一生懸命お手伝いします」
「ああ、お前が悠長に休暇なんか取っている間に、細かい作業がたんまり溜まっている。時間の無駄だ、さっさと仕事に就け」
難しい作業の途中なのかディスプレイから目を上げぬまま、中嶋は顎をしゃくった。
啓太の使う作業台の上に、そのまま残った書類の束。主処理、大きな処理は中嶋が、単発の仕事やサブの作業は啓太がと、自然と割り振られた学生会での仕事の中で、流石に急ぎのものは中嶋が処理したのだろうけれど、啓太のすべき仕事はそのまま残っている。
「そんなん、中嶋がやってやればいいのによー。それは啓太のだから、残しとけって言うんだぜ」
冷たいよな、とぶちぶちと言う丹羽の言葉に、啓太は笑顔を作る。今度こそ、本当に泣いてしまいそうで。
今はそんなに作業量も多くなくて、丹羽も学生会室にちゃんと来ていて…啓太がいない間は、ちゃんと仕事をしていた、と丹羽が言っていたから…、中嶋がやってしまった方が早かったろうに、それでも残された啓太の仕事。それは、啓太の居場所そのものでもあって。彼が、啓太はここにいてもいいのだと、そう言ってくれているのを確かに感じて。
「そんな事ないです。俺、嬉しいです」
晴れやかな啓太の言に、丹羽は思い切り顔を顰めた。
「…仕事中毒かよ。中嶋2世か、啓太…」
いつかどこかで聞いたような表現に、啓太は軽やかに笑う。
「そうかも。またここで仕事して、中嶋さんのいやみ聞いたり、叱られたりできるんだと思ったら、凄く嬉しいですもん」
啓太と丹羽の遣り取りは耳に届いているだろうに、中嶋は全く気にした風もない。まるっきりのノーリアクションだ。ひたすらにこにこ笑う啓太と、冷静冷徹な表情を崩さずPCに向かったままの中嶋と。双方を視界に納め、丹羽は深々と息を吐く。
「…相変わらず、マゾっぽいな、啓太…」
中嶋とは、ベストカップルってやつかもな、と独り頷く丹羽に対して。
「だから、止めて下さいよ、王様、そういうの」
和希と一緒の食事時にも、「デート」などと称された事を思い出し、半分むくれた顔をしながら、それでもこの空気の中に帰ってこられた事が嬉しくて。
啓太は、えへへと笑う。
「…お前ら、いい加減…」
「はーい。仕事に入りまーす」
中嶋の言葉の後を引き取って、笑顔の啓太はまっすぐ作業台に向かう。
己に許された居場所へと。



もーやだ。もー疲れた。もーやんねー。

そんな事言わないで、王様。今日の分、後これだけですから。

手っ取り早く、そこでストリップでもしてやれ、伊藤。そうしたら、そこの動物もやる気になるかもしれんぞ。

…何言ってんですか、中嶋さん。訳わかんないですよ。…って王様。何ですか、その期待の眼差しーっ。すぐ面白がるんだから、もー。やんないですよ、やんないですったらーっ。


扉越しに洩れ伝わる笑いと穏やかな空気。
まるで春の暖かさとでもいったものがそこに溢れている事は、入室しなくても判った。その事が、無性に腹立たしくて。彼が今、ここにいるという事が、何よりも許し難くて。
力任せに、目の前の扉を開け放った。途端に集まる視線。自分を見つめる不思議そうな顔と、常に冷静な顔を崩さぬ男の目に浮かんだ嘲弄。常ならば、決してしない不作法だと自分でも判っていた。そんな中。
彼が、何が起こったのか判らない、そんな顔をしていた彼が、不意に顔をこわばらせ、目を逸らす。そんな事実も、許せなくて。
先程までは、あんなに楽しそうにしていたくせに。
己の姿を目にする事も厭うのか。
そう思ったら。

彼の腕を掴んでいた。



「…全く。今日は騒々しい事だな」
扉にガタがきたら、会計部に請求を回してやろう、との思いつきに、中嶋は一人ほくそ笑む。
もし、本当に扉が壊れたとしても、それは八割方、常日頃からの学生会々長の乱暴粗暴な扱いに遂に耐えきれなくなって、といったところなのだが、会計部への嫌がらせになるのだったら何でも活用するべきだ。
常に超然としたあの男が。
氷のようなと称された彼が。
こんな感情と執着を剥き出しにした振る舞いに及ぶだなんて。
つい先程、眼前で繰り広げられた一幕を思い出すだけで笑えてくる。
しかし、そんな中嶋とは遠いところにいる丹羽は、未だに目を丸くしている。啓太が連れ去られたという状況と、連れ去った人物が上手くかみ合っていないのだろう、何か難しい顔で考えて、答えを出す事を諦めたのか、やがて軽く溜息を吐いた。
「…なんか。怖かったなー、郁ちゃん…」
らしくもなく乱暴に学生会室へと乗り込んだ西園寺は、啓太の腕を掴むとそのまま、部屋を出て行った。彼が、急ぎの仕事以外で学生会室を訪れる事なんかあり得ないのに、学生会の二人には一顧だにしないまま、一度も口を開かずに。
鬼気迫るといったその様子に、声も掛けそびれてしまった。
ぽつりと呟く丹羽に、妙に上機嫌な中嶋が応じた。
「ああ。あれ程、女王様の悋気がきついものだとはな」
面白いネタが増えた、と嘯く中嶋に。
「…へ?」
目を瞬かせる丹羽。
「…まさか、まだ気づいていないのか、哲っちゃん…」
啓太に近付く度に、あんなにあからさまに睨まれていたのに、とある意味尊敬の念の篭もった視線にも、「ああ、日頃から冷たくあしらわれ慣れているからな」と続いた中嶋の言葉にも、全く状況が理解できない丹羽はただ、きょとんとした顔をするばかり、だった。



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