カードの裏側 +++ act.5 3/3


睫毛が濡れて

(6のお題 キスの甘さ/「as far as I know」様)


夢を見た。
あの人が、微笑っていた。眠る啓太を優しく見つめて。啓太の髪を緩やかに撫でて。ただ、幸せそうに微笑っていた。
啓太は、そんな事はあり得ないと知っていて、だからこれは夢なのだとすぐに判った。
優しい手。暖かな手。啓太を、まるで大切な物であるかのように扱ってくれる手。
胸が痛くて。苦しくて。

息ができない。

白々と明けた朝の空気はひんやりと冷えて、濡れた頬はまるで凍るようだった。





酷く長かった今日一日の授業もようやっと終わった。午後の日差しは薄く黄昏色を忍び込ませて、どこか湿って仄暗い。放課後の部活動に向かう級友達もすっかり捌けて、誰もいない教室は寒々しくて、まるで世界と隔絶してしまったかのような、世界中に一人きりで取り残されてしまったような、一瞬、そんな気さえした。
「ねぇ、和希…」
啓太は、くったりと机に凭れたまま、頭も上げずに、隣にいるはずの相手に向かって呟いた。
「うん?どうした?」
当然のように返る言葉に安心して、啓太はただ、うっとりと微笑む。世界にいる人間は、今、二人になった。
「んー。呼んでみただけー」
和希の声は、とても優しくて、とても暖かい。何よりも啓太に安心感をくれる。
苦笑した和希の手が、啓太の髪に触れて、頭を撫でる。微笑む視線が目に見えるようだった。
和希が傍にいてくれて。大切なこともくだらないことも、何でも話して、笑い合って。
いっそ、あの人との事は、全部、妄想だったんじゃないか、なんて思うくらい。
途端に、和希の手が、あの人の姿にすり替わる。今朝方に見た、あの夢。
夢の中のあの人は、和希そのものだった。
あれは、あの人じゃなかった。あれは、和希の手だった。
優しくて暖かな、啓太が大好きな和希の手だ。
なんで、あんな夢を見たんだろう。
あの人が、あんな事をする訳がない。啓太に優しく触れるだなんて、あり得ない。だったら、あれは啓太の願望、というものなのだろうか。
あの人が、和希のようだったらいい、と?
それもまた、あり得ない。
啓太は、与えられる和希の手に自らすり寄る。包み込む庇護を象徴する和希の手。
ただ、目が合って。微笑み合って。一緒にいられるだけで、幸せで。
あの人に対して、そんな風に思ったことなんか一度だってない。
一頻り、啓太を撫でた手が、離れがたそうにそっと引かれて。
「啓太、今日はサーバー棟に来ないか?」
続いて降ってきた、さらりと流すような和希の言葉に、啓太は頭を机から上げた。
見ると、和希は帰る準備も万端整っている。そもそも常日頃から、和希はてきぱきとすべき事をこなすタイプであるし、授業が終わった後も無為に教室に居残ったりはしない。何も知らない級友に、付き合いが悪い、なんて言われる事もあるくらい。
「ごめん。仕事があるんだね」
常に時間が貴重である人を、自堕落なだらだらにつき合わせてしまった。啓太は慌てて、机に放り出したままだった教科書を鞄にしまい込む。そして、今言われた事を思い出して。
顔を上げて、和希を見た。
「サーバー棟は、生徒は近付いたらいけない場所だろ?俺なら、寮に戻るから。大丈夫だよ」
そう言っても、和希は納得したようには見えなかった。だけど、本当に大丈夫だから。そういつまでも、和希に甘えてばかりもいられないから。
「俺を待ってなくていいから。和希は仕事に行きなよ」
だけど、ありがとね、と笑いかけたら。
しかし、和希は微笑わなかった。
「啓太だったら、いいよ。俺が来てほしいと思ってるんだから」
ひどく真剣な顔をした和希に、虚をつかれた啓太がぽかんと口を開けて。ようやっと、和希が悪戯っぽく笑う。
「もっと言うとね。これから放課後はサーバー棟に来ないか?って言いたいんだ」
冗談、と言いかけて、和希を見つめて。
啓太は口を閉じた。全部、本気で言っているのだと気づいたから。
「俺の仕事を手伝うのでも、結構、勉強になると思うよ。啓太が将来、何になりたいのか、希望も色々あるだろうけど、経験しておいて損にはならない」
損どころか。
鈴菱のトップに近い場所での業務経験だなんて、喉から手が出るほどに欲する人間は星の数ほど存在していて、だけれど、それは望んで得られるようなものではないのだという事も、啓太にだって容易く想像できるところで。
「石塚も、啓太が来てくれたら喜ぶしね…」
幾度か会った和希の秘書は、とても静かな佇まいの穏やかな笑顔の人で、だけどとても有能な人なのだそうで。
なのに、啓太のような子供相手であってもとても礼儀正しくて、ちゃんと啓太を尊重してくれているという事も判って。
いい人で、素敵な人で。啓太にとっては、理想の大人、と言えるかもしれない人で。
和希に言ったら、じゃあ俺は?とむくれるのが目に見えているので、言わないけれど、それでもやっぱり、啓太の思いなど和希にはお見通しなのだろう。全く、啓太の周囲はどいつもこいつも怪しいったらありゃしない、とぶちぶちと呟く。その様に、啓太の脳裏にひとつの映像が描かれた。
丹羽のように仕事から逃げる和希と、中嶋のように和希を追いかける石塚と。
不意に浮かんだその印象は奇妙に鮮明で、かみ合わないようでいて、不思議としっくり来てしまうその画に、思わずくすりと笑ってしまいそうになる。多分、これは逃避だ。こんなにも自分を客観視している自分は、おかしいと思う。
だけど、そんな啓太の前でも、和希は微笑う。全部受け止めて、ただ、大丈夫だよ、と言ってくれる。そんな微笑み。

「俺は、啓太のことが好きだよ」

その。瞬間。
判ってしまった。
その言葉が、啓太へと伸べられた和希の手が、常の如く与えられる慈雨のような想いや、常のように手を取って歩く、そんな意味とは違っているのだという事に。
最近では、流石に気づいていた。和希は啓太を独りにしないようにと気を遣ってくれているのだという事に。和希は、ずっと啓太の傍にいてくれた。まるで昼間は啓太の傍らにいるのだと己に律したかのようだった。何処まで和希が気づいているのか判らない。もしかしたら、全部知っているのかもしれないと思う。和希はとても聡いから。全部、気づいてしまっていたのかもしれない。
もし、和希に訊かれたら、啓太は、あの人とのことを正直に応えていただろう。
和希に対しては常に誠実でありたいと思っていたし、そして、何があっても和希は啓太を嫌ったりしないと、啓太は確信していたから。
和希は、絶対、啓太を傷つけたりしないと。
知っていたから。

「俺だって、和希のこと、大好きだよ」

そんなこと、考えるまでもなかった。
和希より大切な人なんて、何処にもいない。大好きな和希。
彼のためだったら、何でもしたい。どんな願いも叶えたい。そう思う、唯一の人。

啓太の目に、大粒の涙が盛り上がる。

この手は、啓太を包み込む手。優しさと暖かさとを伴う護りの手。
優しい彼の用意してくれる場所は、きっと完璧な無風状態で、ただ幸せで。
愛情に溢れる穏やかな世界を約束してくれるのだろう。
なのに。

「…ごめん、和希…」
ごめん。ごめん。ごめんなさい。
何度言っても、言い足りなかった。

何で。あの人なんだろう。
何で。和希じゃ駄目だったんだろう。
俺は、和希が好きで。大好きで。
なのに、何で。

あの人じゃなきゃ駄目だなんて、思うんだろう。

あの人は、和希とは違う。
夢で会った、それだけで、こんなにも苦しい。
ちっとも、幸せな気持ちになんか、なれなかった。
なのに。

会いたいのだ。苦しくてもいい。ただ、会いたいのだ。


ほんの一呼吸の間があって。
「うん。いいんだよ」
判っていたから、と。そんな調子の和希の声。
啓太をうんと甘やかしてあげたかったけれど、そのうち、啓太はそれを望まなくだろう事も知っていた。それが多分、大人になる、という事で。
空元気ではしゃいで、だけど、明らかに日に日に憔悴していく啓太を見続けるのは、とても辛かった。俺なら、そんな顔なんかさせないのに、と思った。ずっと守って、啓太を保護して、大切に大切に抱え込んで。
和希を選べば、楽なのに。
だけど、それを由としない啓太だからこそ、好きになったのだ。
自分を選ばないから好きとは、大概屈折している、と和希は心中自嘲する。だけど。
「俺は啓太のことが好きで、啓太は俺のことが好きで。だから、俺達は両思いなんだろ?」
目を赤くして、それでも和希から目を逸らさない啓太を覗き込むようにして、悪戯っぽく笑う。
前にそう言ったのは、啓太だった。それはほんの軽口で、だけど、和希にとっては全部本当の気持ちで。
啓太にとっても、そうだったろう。
和希を選べないけれど、和希が一番好きだと啓太は言うから。
だから、それで満足しようと、和希は思うのだ。
まぁ、それでも。
これからは表だって、『彼』に嫌がらせをしてやろうか。啓太を困らせない程度に、との注釈付きではあるが、それくらいしたってバチは当たらないだろう。
そんな内心など露程にも感じさせない和希の笑顔は、それでも本物だった。啓太のみに向けられる、優しさのみに溢れるそれも、びっくり眼を見開いた啓太の頭を撫でる、そんな仕草も全く変わらなかった。
今まで通り、なんて。そんな虫の良いこと、ありだろうか?
そんな困惑も、和希の笑顔が全て溶かし出してくれる。
「行っといで、啓太」
主語のないその言葉の意味が理解できない啓太が、ぱしぱしと目を瞬く。対して、和希が啓太の頭をぽんと叩いた。
「今頃、学生会は書類が散乱してるよ」
それは啓太の居場所。仕事と、厳しくも優しい先輩とがいるところ。和希がサーバー棟へと通うように、啓太は学生会室へと通っていたのだ。ほんの何日か前までは。
「だけど俺、来なくていいって言われてるんだよ」
多分、馘になっちゃったんだ…。
俯く啓太に、和希は。
「それ、俺が啓太の休暇を貰っといたの」
事も無げに、言った。
「『啓太が過労で倒れたらどうしてくれるんですか!』って、学生会に怒鳴り込んだんだよ。今頃は、王様が過労で倒れそうかも」
開いた口が塞がらない。
この過保護なお兄ちゃんを一体、どうしたらいいものか。
「怒った?」
なのに、困った風に不安そうに、和希が言うから。
「…ううん。ありがとう、和希」
そう、微笑んだ。

常の如く与えられる慈雨のような想いや、常のように手を取って歩く、そんな意味とは違っていて、だけど、本当は同じ意味なのかもしれなくて。
実は、好きという気持ちに、同じも違うもないのかもしれない。
本当は、意味なんて、考えるようなものではないんじゃないかと思うから。
世界で一番、和希が好きだ。これまでも、そして多分、これからもずっと。



「先輩が、衣装できたって言ってたから。そのうち、また手芸部にも来いよ。ジュリエット」
廊下で、互いに別の行き先へと向かう、その分かれ道で。
和希の軽口めいた言葉に笑いながら、行ってくるね、と手を振った。


今でも、涙は出そうだけれど。
それでも、これは幸せな涙だ。和希がいてくれる事が、こんなに嬉しい。
何度言っても言い足りない。だけど。
ありがとうと。
ただ、言いたかった。



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