カードの裏側 +++ act.5 2/3


睫毛が濡れて

(6のお題 キスの甘さ/「as far as I know」様)


「…会おうとしなければ、会わないもんなんだなぁ…」
頭上に広がる青い空を、高く鳥が横切っていく。
長く続いた臨時業務も、会計部での作業を終えて、学生会も会計部も、既にいつも通りの業務内容に戻っている。なのに、啓太は注意力が散漫で、失敗ばかりが多くなってしまって。最近忙しかったから、しばらくは休んでいいと丹羽に言われて、それ以来、啓太が彼らに会う事は、ぱったりとなくなってしまった。
また手が足りなくなったら呼び出すから、と言ってはもらえたものの、いわゆるお暇を出されちゃったって事なのかなぁ、と思う。
元々、学年が違う。教室のある階が違う。彼らは啓太のような一般クラスでもないから、授業の時間帯もまた違う。生活時間帯自体も違うから、寮や食堂で顔を見る事もまた稀で。
住む世界が違うとはこういう事かとしみじみと思う。
「ん?何か言ったか?」
降る声と、己を覗き込む人の気配とに。
「んー、独り言ー」
啓太は枕にしていた和希の膝の上で寝返りを打った。
学生会と会計部へと足を運ぶ機会がなくなるのと反比例して、和希と一緒に過ごす時間が増えた。手芸部に顔を出す事も多くなったし、放課後に課題をやったり、ただ、何となく一緒にいるだけの事もある。和希の常の忙しさを見知っている啓太が投げた、心配を含んだ問いかけの視線に、ただ返る優しい微笑み。
それに何も言えなかったのは、今、和希が一緒にいてくれる事が何よりも嬉しく、また心強いことだったから。
ほかほかと暖かな日差しと下生え。この学園は、芝生内立ち入り禁止、なんて野暮な事を言わないのが好きだ、と和希に言ってから、二人して空いた時間には、中庭の芝生でごろごろしたりする習慣ができてしまった。実際には、ただ、ごろごろしているのは啓太のみで、和希の手元ではすいすい編み棒が動いていたり、難しそうな本が繰られていたりするのが常だったのだが、それは今日もそうだった。大きな上製本の、一定のリズムで繰られる頁の音が、何だかとても心地好くて、芝生の上に伸ばされた和希の足に縋りつく。
「眠いんだったら、寝ちゃえって。時間になったら起こしてやるから」
頁を繰る気配は変わらなかったから、多分、本から目を離さないままだろう、和希が啓太の頭を軽く撫でた。俺って猫みたいだなあ、なんて思って、自分の想像がちょっと可笑しい。
「うん、そうする」
和希の膝に頭を預けたまま、それこそ猫のように体を丸めて、啓太はそっと目を閉じた。





結局、3日間、あの人の部屋にいかなかった。
あの人は、不在だったかもしれない。あの日、啓太が扉を叩かなかった事に気づいていないかもしれない。そう思ったから。
翌日、扉を叩いて、素知らぬふりで、あのまま続けていく事ができないように。そんな逃げを自分に許さないように、3日間。
いつものように、部屋を訪ねたのは、4日目の事だ。
その時、言った。もう来ない、と。
もう止めると、はっきり言った。
そうしたら、あの人はただ、一言。そうか、と。
言った。
それで、全部、終わってしまった。なんて簡単。

あの扉を拒否したのは、啓太だった。開かれたままの扉。それでも、啓太を決して受け入れない扉。

これまでだって、変わらなかった。あの部屋の外では、あの人も、啓太も。
だからきっと、これからだって、変わらない。あの人がそれを許してくれるのなら、啓太は仕事を手伝うために、放課後はあの人のいる場所を訪れる。
陽の光の下で。ただ、普通の先輩と後輩で。
いつか、あの人が大切にしている彼のような、友人になれるだろうか。
過ぎる望みかもしれないけれど、叶うのならば、その方がいい。その方がずっといい。

腕の痣も、胸の傷も、今はもうない。あんなにはっきりとついていた跡さえ、ほんの数日の時を経ただけで消え失せてしまうのだ。
塞がった傷の奥は、まだ時折、じくりと痛むけれど、それもきっと、そのうち癒えるのだろう。いつか、そんな事もあったと軽く笑えるようになるかもしれない。

今はまだ、無理だけれど。

いつかきっと。





「啓太が望んでいたから、君のことは黙認していた」

「だけど、啓太は誤りを正した。君も啓太の手を離した。俺は、もう目を瞑らない」

啓太を傷つけるのなら、容赦はしない。


和希の声が、遠く聞こえた。だけど、何を言っているのか判らない。意味をなさない単語の羅列は、ただ、声の響きが『和希』であると啓太に教えるのみだ。
うとうとと、意識が揺れる。髪を撫でる優しい手が、心地好い。張り付いたように、目蓋が上がらなくて。だけど、こんな風に撫でてくれる存在なんて、啓太は一人しか思いつかなくて。
「…かずき…?」
今、そこにいるはずの人の名を、呟いた。
そうしたら、柔らかかった指先は不意に硬くなって、頬に当たる風は急に冷たくなってしまって、何だか不安になってしまったのだけれど。
「…うん?まだ寝てていいぞ」
遅れて届いた声と、ぽんぽんと背を叩いた手は、確かに和希の物だったから。
もう、それだけで安心して、啓太は再び、眠りの淵につく。
優しい手。暖かな手。啓太を、まるで大切な物であるかのように扱ってくれる手。


「…もう行ってくれないか?啓太が目を覚ます前に」
どこか冷たい和希の声は、意識の上を滑って消えた。



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