カードの裏側 +++ act.5 1/3


睫毛が濡れて

(6のお題 キスの甘さ/「as far as I know」様)


きつく握り締めた手が残した指の跡も。胸に立てた爪の引いた傷も。
今では全部消えてしまった。





「あー、面白かったー。和希、誘ってくれてありがとうね」
「…いや、いいんだけどさ」
ひたすら明るく笑う啓太に反して、和希の表情は冴えない。それに啓太、小首を傾げてみせる。
「…やっぱり、俺、邪魔しちゃってた?折角の手芸部の活動だったのに、俺が一緒に行ったから…」
「全然、邪魔になんかなってないよ。先輩達も大喜びだったじゃないか」
そう。大盛り上がりだった。
久しぶりに和希と共に手芸部を訪れた啓太は、部員一同からの大歓迎を受けた。始めは和希に乞われた折りの女性衣装のフィッティング要員だったのだが、「啓太の体型は、女性モデルに近い」との和希の言は、あからさまに方便という訳でもなかったらしいのだ。実は多少、疑っていた啓太は、心中で和希に謝りつつも、軽く落ち込んでしまったのだが。
外人モデルは割とがっしりしてるんだよ、とか、啓太はまだ成長期だからね、とか。フォローらしき言葉をかけられるのがまた物悲しかったが、手芸部の先輩にモデルを頼まれ、啓太はそれを快諾した。ここ手芸部では啓太は部外者で、和希のおまけで付いてきてしまっただけの見学者だったから、正直、マネキンとしての役目は嬉しかった。何かの役に立てるのなら、と。
始めはそれでよかったのだが、後が少し、マズかった、かもしれないと思う。部員が出してきた、前に作った舞台衣装だという白雪姫のドレス…いわゆる、黒鼠をメインキャラクターにした米企業のアレ…を身につけ、即興の芝居を披露する、というのは。
「だけどみんな、全然、作業にならなかったみたいだからさ。はしゃぎすぎたなぁって、そう思って」
はしゃぎすぎ。
本当に、そうだった。最近、感情の振り幅が大きすぎる。
反省する啓太を慰めるため、というより、本当にそう思っているのだろう和希が、戯けたように肩を竦める。
「それが、創作意欲をかき立てたりもしたみたいだし。よかったんじゃないかな」
だったら、何故和希は不機嫌そうな様子なんだろう。
啓太がその疑問を口にする前に、和希が更に言葉を続けた。
「…なんで、ジュリエットかな、と思っただけで」
「ああ…」
苦虫を噛み潰したようなその様に、啓太は苦笑する。
変なノリで盛り上がってしまった部室内、感激に目を潤ませ、頬を紅潮させ、今度はジュリエットの衣装を伊藤のために作っておくよ!と、熱く語った先輩は、啓太の手を握り締めんばかりだった。和希の編み物のみならず、手芸部の縫製技術は素晴らしいもので、それをよく知っていたから啓太は、楽しみにしています、とにこやかに返した。是非、見てみたいというのは、確かに啓太の本心だったから。
その時も、和希は今この時と同じような顔をしていた。
和希は、啓太がドレスを着せられるのが嫌らしいのだ。始めは和希が着せたがったドレスなのに、と思うと、少し可笑しい。
優しい彼らのためだったら、ジュリエットにくらい、幾らでもなろうと、啓太はそう思うのだが。
ジュリエット。
あっという間の恋に堕ち、重なる誤解で死ぬ少女。あまりにも有名な悲恋物語。
ある種、定番になってしまっていて、和希は好きではないのかもしれない。けれど。
「いいじゃん、ジュリエット。俺、好きだな」
悲恋物語の主人公だというのに、可憐でも繊細でもなく、ジュリエットは強くて逞しい。啓太の目には、そう映る。
「思い込み激しいし、妙に行動的で。だーっと走っていってさ、どーんと当たってさ。怖くなかったのかな」
「恋は盲目って言うからなぁ…」
軽い調子のその言は、柔らかな微笑と相まって、余裕すら感じさせた。こんな時、ああ、和希は大人なんだ、と思う。年齢が、というだけではなくて、恋に恋する13才の少女を、しようがないな、と見守る、そんな感じ。和希にとっては、啓太も同じようなものなのだろうか。
その時、和希がふわりと微笑った。
「多分、命賭けちゃうくらい、ロミオが欲しかったんだよ。怖いとか、そんなもん超えちゃうくらいにさ。それは、凄いと思う。そんな相手がいるって、そんなに相手を想えるってのは、凄いよな」
その気持ちに嘘はなかったのだ。何を犠牲にしてもそれを欲しいと思う、そんな思いもあるのだという事は、啓太だって知っている。
欲しいという気持ちは、怖い。それは人を欲張りにする。欲望というものは底なしで、全部が欲しくて、失うのが怖くて。そこから、一歩も動けなくなる。
「…だけど、啓太は生きてなくちゃ駄目だぞ」
俯く啓太の顔を上げさせたのは、後に続いた和希の言葉。
言葉の調子の通りの表情をした和希は、更に続ける。
「啓太を好きな人間は、いっぱいいるんだから。啓太は、生きてなくちゃ駄目だ」
何言ってるんだよ和希、と笑おうとして。
ジュリエットの話だろう?と笑い飛ばそうとして。
啓太は、失敗した。

「…和希だったら、よかったのになぁ…」

多分今、泣き笑いのような顔になっている。だけど、和希は何も言わない。何も言わないでいてくれる。
「うん。だけど、ロミオが和希だったら、もっと上手い計画立てられたかもね。それで、駆け落ち成功したかも」
殊更に明るく言った。今度はいつもの笑顔が作れた。その事に安堵する。
和希は優しい。手芸部のみんなのように、和希の向こう側にいる人も。本当にみんな、優しすぎて。啓太にここにいてもいいんだと示してくれるから。
啓太は時々、不安になる。本当にここにいてもいいのかと。それは、許される事なのだろうかと。
ふと気がつくと、自分が独りで。周りには誰もいなくて。本当は初めからそうだったんじゃないかと思う事がある。足元にさえ何もなくて、何故、今まで普通に歩いていられたのか判らなくなるくらい。ふと、目の前が暗くなる。
「ぅわ?!ちょっと、和希??」
突如、わしゃわしゃとかき回された頭を抱えて、啓太が見上げた先には、和希の柔らかな、優しい笑顔。
「今日、課題が出てただろう?夕飯食べた後、一緒にやらないか?」
「あ!数学!」
言われて思い出した。今の今まですっかり忘れきっていたのは、啓太の苦手科目であるからか。答えがひとつしかない、正しいルールに当てはめれば答えが得られる、シンプルで分かり易い、数学はそんな教科なのだと、前に言っていた和希にとっては、得意科目だったりする。
一緒に課題をやることに対する恩恵を一身に受けるのは啓太ばかりで、和希にとっては一人でやった方が効率も良いだろうに、それでも啓太を誘ってくれるのは、和希の心遣いというもので。
だけど、それだけじゃないという事もまた、啓太は知っている。
『俺は傍にいるから』
無言の内に、そう言ってくれる。そんな和希の思いが確かに啓太に伝わっているから。
「うん。それじゃ、後で和希の部屋に行くね」
扉は開かれている。彼は、啓太を受け入れてくれる。その事が何よりも嬉しかった。



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