カードの裏側 +++ act.4


新たな陶酔

(6のお題 キスの甘さ/「as far as I know」様)


初めから。
そう、初めから、だった。
普通だったら耐え難い、そんな行為を押しつけられて、それでも俺は甘受した。相手が、あの人だったから。
絶対に嫌だと拒絶する事だってできただろう、少なくとも、その意志は示せたはずなのに、俺はそれもしなかった。相手が、あの人だったから。
最初から、俺は、あの人を許していた。

あの人にとって、これはただの遊びだと判っているのに。





「そろそろ、休憩にしましょうか」
「はい。じゃあ、俺、お茶入れますね」
僕が入れるから、いいですよ、と微笑むだろう七条の言を察し、「今、練習中なんです。是非、入れさせてください」と続ける。にっこり笑顔で、しかし、そうしたいのだとの自分の意をはっきりと滲ませて。
すると、七条は、少し困った風に微笑って、
「…それでは、お願いしてもいいですか?」
それでも、柔らかく言葉を繋いだ。気を遣ってくれただけかもしれないけれど。
「勿論です」
啓太は、嬉しそうに晴れやかに、笑ってみせた。
七条は、他人にお茶の用意をさせるのが好きではない。ただ単に、自分で入れた方が好みの味にできるからかもしれなかったし、実際、啓太が入れるよりも七条が入れた方が、ずっと美味しいお茶になるのだけれど…全く同じ茶葉、同じお湯を使って、同じ手順で入れているのに、何故、味が違ってしまうのか、啓太には判らない…、啓太には、それは彼が己のフィールドから他者を排している、その象徴のように感じられる。
お客さんにお茶の準備はさせられない、という彼の言葉は、いつも啓太をほんのり寂しい気持ちにさせる。
だからこそ、啓太は会計室では、率先してお茶を入れる。それが、己の我が儘なのだと、知っているけれど。
コンロにかけたケトルが、ふんわりとした湯気を立て始めた。紅茶に必要なのは、充分に沸騰したたっぷりのお湯。今日のお茶は、何がいいだろう。
七条は、今日は、少し疲れているように見える。現在、会計部が、臨時に飛び込んだ作業の真っ最中なのは、学生会をも掛け持ちで手伝っている啓太は知っていて、だから、そのせいなのだろうとは思っているし、実際、そうなのだろう。
口当たりの柔らかい、ミルクティの方がいいかなぁ。だったら、茶葉はアッサムか。
アッサムティは、癖と渋みが強くて、啓太がストレートで飲むにはきついのだが、ミルクを注ぐと、その渋みがミルクに負けずに丁度いいのだ。
会計部に出入りするようになって、今までだったらあり得ないような知識を身につけている自分に、ちょっと笑ってしまう。
お茶請けには、小さなドラジェ。アーモンドを包んだ砂糖菓子は、ほんのり甘いミルクティによく合うから、お茶に砂糖は入れなくてもいいだろう。
行儀悪いと思いはするが、自分の分にちょっぴりだけ口を付けて。
「うん。上出来」
これなら、そんなに悪くはない、と胸を撫で下ろす。
二客のカップを盆に載せると、啓太は静かにこれを捧げ持った。七条の姿勢の良さ、足運びの独特の滑らかさは、盆に茶を一滴も零させない、そんな環境が作ったのかもしれない、と思いながら。



和希と一緒に出かけた翌日、学生会室に、怖ず怖ずと現れた啓太に対して、中嶋はまるで何事もなかったかのように振る舞った。入室するなり書類を渡されて、慌ただしくそれを受け取りながら、啓太はただ、胸を撫で下ろしていた。丹羽はいなくて、前日がどんな様子だったのか聞けもしない状況だったけれど、それでも、仕事は上手く進んだんだろうと思う。自分がいなくても、仕事に支障なんかないんだ、という事実は、ほんの少し、啓太の胸を締め付けはしたのだけれど。
己の我を通して来なかったというのに、それを寂しく思うなんて、理不尽だ。それはよく、判っている。だから、それを振り払うように、啓太は一心に働いた。
3日間、啓太は学生会室へと通い、急遽発生したという飛び込みの仕事を手伝って、処理が会計部へと下るのと共に、その居場所を移して。
現在では、会計部へと仕事を手伝いに来ている。
かと言って、啓太がイレギュラーな作業を受け持てるという訳ではない。多額の金銭を扱う会計部において、臨時業務といったら、一度決定した予算を見直して、どこから資金を捻出するか、細かな調整を必要とするというのも、それには業務全般に通じた視点が必要であるというのも、啓太にだって容易く想像できるところだ。しかし、それでも日々、既に決められた処理というものは発生するのだし、定型業務だったら、少しは手伝えるだろう。
会計部の負担を軽くするために、啓太にも、できる事があるのなら。
「…猫の手くらいには、なれたらいいなぁ」
なんて。
思っている訳なのだ。
七条が、くすりと笑う。
「とても助かっていますよ、伊藤くん。本当にありがとうございます」
啓太は、口を付けていたミルクティをごくりと飲んだ。
どうやら、思考が外に洩れてしまっていたらしい。目をぱしぱしと瞬く啓太に、七条は面白そうに、ふふ、と微笑う。
七条はよく、啓太に対して、こんな微笑い方をする。子犬か子猫を見ていて、思わず零れるとでもいった風な微笑み。
マイナスの感情はないみたいだし、嫌われている訳ではないんだろうと思うから、いいんだけれど。
…いいんだけどさ。
少々、複雑な心境ではある。けれど、そんな啓太の気持ちも、彼にはすっかり伝わっているのだろう、七条は笑みを深くする。それを受けて、啓太はつい顔を赤らめて、それでますます、彼を微笑わせてしまうのだ。
啓太にとって、七条は不思議な存在である。
今、確かに目の前にいるのに、手を伸ばせば届く位置に在るのに、まるでテレビの中の人を見ているような気がしてしまう事がある。
言葉遣いが柔らかくて、すんなりと伸びた姿勢もよくて、物腰が優雅で。
何だかとても、綺麗な印象を抱かせる人で。
少なくとも、これまでごく平凡な子供で、何処にでもいる中学生で、今でも、周囲の環境はもの凄いが、当人は全く一般的な高校生であるつもりの啓太にとっては、あまり縁のないタイプであったので、その耐性のなさ故に、何かというと彼の前で顔を赤くしてしまう。
そんな啓太が、面白いんだろう、と思う。こんな己の振る舞いは、自身でも挙動不審だと思うくらいなので、面白がられるくらいで済んでるのは、よかったとも言えるだろう。
七条さんって、すごく冷静、というか。動じない人だよなぁ。
ミルクティを飲むふりをしながら、上目遣いに彼の様子を窺うと、その行動すらもがお見通しとでもいったところか、ばっちりと目が合ってしまって、微笑む視線に改めて赤面。
何だか、甘い空気が流れているのを感じる。こんな風に彼と二人だけになってしまった時、時折、ふわりと薫るようなそれは、妙に啓太を身の置き所のない気分にさせる。勿論、気のせいなんだし、そんな風に感じる自分がおかしいのだと判っている。だからこそ、自意識過剰な己が恥ずかしくて、色々、困ってしまうのだ。多分。
「あっ、あのっ」
このままでは、俯いてもじもじし始めてしまうと、啓太は顔を上げる。が、その声は見事にひっくり返ってしまった。
こほん、と小さく咳をひとつ。そして、こっそり呼吸も整えて。
「西園寺さん、遅いですね」
顔は赤いままだけれど、にこやかに笑う事ができた。
「ええ、各部連を回ってから、学生会室にも寄ると言っていましたから」
予算関係の通達、それも一部変更を伴う、となると、トップの西園寺の話抜きには納得しない者もいるだろう、と言っていた。それ以前に、西園寺が直接顔を見せるだけでも、話は円滑に進む可能性が高いのだと、そう補足した七条の説明もまた、啓太を深く納得させるものだった。
運営というものは、結局のところ、人が人を動かすものだから。
こちらから、その意気を示すというのは、相手に協力を要請するのに、とても大切な事だ。
ごく自然にそういう事が判っていて、ごく自然にそういう風に動ける人達なのだ。会計部の二人も、学生会の二人も、そして勿論、学園理事である和希も。

近づきたい、とそう思う。
彼らの居る場所まで、いつか行くことができたら、と。
それは、啓太の今の目標であり、もしかしたら、一生の目標になるのかもしれなかったけれど。
諦めなければ、ずっと歩いていけるのだと、思うから。

自分で、壊してさえ、しまわなければ。

「学生会室にだったら、俺が行ったのに…」
西園寺は、学生会室があまり好きではない。
煙草臭い、とか、埃っぽい、とか、整理整頓がなっていない、とか。
時たま、あの部屋に行く機会があった時に、よく言っているから、啓太はそれを知っている。
西園寺による説得と請願を必要としない場所なのだから、啓太が代われる部分は代わるのに、と溜息混じりに啓太が言うと。
「伊藤くんは、行かせたくなかったんですよ」
さらり、と返した七条の言が、あんまり自然だったから、つい頷きかけて。
思わず、彼の顔をまともに、まっすぐに、凝視する、といった状態で、見返してしまった。
「伊藤くんがきちんとお仕事をしてくれているのは知っていますし、その事を心配している訳じゃありませんよ?」
相変わらず、啓太の心情を読んでいる、としか言い様のない七条は、そんな言葉で啓太をフォローする。
「…えっと」
ならば、どのように捉えるべきか、と困惑する啓太に。
「やっと伊藤くんを、学生会から取り返したんですから、ね」
七条は、ふんわりと微笑んで見せた。



ますます判りません。どう捉えたらいいんでしょうか。
今、啓太の顔は真っ赤になっているに違いない。
目を白黒させる啓太に、七条は微笑う。その視線を甘く感じるなんて、気のせい。きっと、気のせい!
「僕が行っても、よかったんですけど」
付されるべき目的語は、学生会室には、だ。
啓太の困惑に配慮してくれたのか、七条は先の言葉を掘り下げる事はなく、勿論、啓太も追求する事はなく。
にこにこしながらの七条の言を、ただ、啓太は神妙に聞く。ついうっかり、話が前に戻ってしまって、またあの微妙な空気が漂ったりしないように。
そんな啓太に、七条は笑みを深めて。
「学生会室に行ったら、僕が帰ってこないんじゃないか、なんて言うんですよ。酷いですよね」
付されるべき主語は、明らかに、郁が、だ。
言葉は、理解できた。言葉の裏側も完全に読み取れた。つまり、楽しくて時間も忘れる、とか、そういった肯定的な意味合いでは決してないという事は、きっぱりと。
学生会室における怪獣大決戦を、うっかり想像してしまった啓太は。
「あは。ははは、は…」
取り敢えず、笑っておくしかない。
「その点、郁だったら、大丈夫です。今日も丹羽会長は不在でしょうし、ならば学生会室に行っても、極端に機嫌を損ねるという事もありません」
学生会室には、本来の主である丹羽は、滅多にいない。その事実を踏まえての七条の言葉。
「あ、でも」
啓太は思わず、口を挟んだ。丹羽が怠け者だと思われてしまっているのを感じて、だけど、それは誤解なのだと言いたくて。いや、ある意味、それが正しいという事は知っているけれど、でもそれは全部じゃないのだという事もまた、啓太は知っているから。
「最近は、王様だって学生会室に来てるんですよ?…ずっといる訳じゃないけど」
最後の台詞は、我ながらごにょごにょとしたものだった。機能性、効率性の権化といった様子の会計部から見たら、そして普段、学生会の業務を一身に受けている副会長からしても、いたうちに入らないと称すだろう、それは代物だったので。
啓太が学生会室に詰めていた時は、啓太を労いに、そして啓太の顔を見に来た、と、まるで遊びに来たとでもいった風情で、啓太の入れたコーヒーを飲んで、中嶋が差し出す必要最低限の書類に目を通して、意見を言ったり、指示を出したり、認印を押したりして。
正味30分もいないだろう、またふらりと外に出て行ってしまう。啓太に「じゃあな」と声を掛けて。
そんな丹羽の後ろ姿を見送るのが、啓太は実は好きだった。丹羽が、学生会室に帰ってくるのだという事はちゃんと知っているし、丹羽が帰ってくる場所に自分はいるのだと、実感できるからかもしれない。
だけど。
俺は、王様を庇えるような立場じゃないもんなぁ。
気持ちそのままに、啓太の頭は徐々に落ちていく。
正式に学生会の人間という訳でもなく、会長という職にある重責をきちんと理解している訳でもない。判ったような気になっているだけで。
だけど、せめて丹羽を嫌わないでほしいと思うのだ。啓太よりも、ずっと丹羽との付き合いが長い七条に対して、僭越だと知ってはいるけれど。
しん、とした沈黙が降りた。
気を悪くさせたか、と啓太が落としかけていた顔を上げた。その時。
「…妬けますね」
いつものように柔らかな七条の、だけどいつものようでない響きの声が、降ってきた。



廊下を駆け抜ける時、すれ違った白い学生服と問うような呼びかけと。
気づいていたけれど、啓太はそのまま、走り続けた。
不意に引かれた腕と傾く体と。
広い胸にぶつかった啓太が、謝罪の言葉を口にして、慌てて身を引こうとすると、それを阻むように、やんわりと肩に掛けられた力。
なんて事ないのに。冗談なのに。
何でもそんな風に感じるようになっている。
今の啓太は、知れたらきっと彼に忌避されるだろう事を、秘密として抱えていたりするから。
嘘をつきたい訳じゃない。だけど、嫌われたくない。だから、気づかないで。
そんな気持ちの生み出す、自意識過剰。
その証拠に、びっくりして固まった啓太の背中を軽く、宥めるようにさすって、それだけで彼は解放した。その微笑みも、落ち着いた物言いも、全く変わらなかった。
自分だけが、勝手に動揺している。

あの暖かな手に。こめかみに掠めて触れた柔らかな唇に。





気まぐれに優しくして。
唐突に突き放して。
あの人は、俺を支配する。

大切なものに触れるかのような暖かな手と、緩やかに優しい柔らかな唇。そんなものは、決して与えられないと知っている。

指の跡が残りそうな程にきつく握りしめる、その手と。
何かを奪い取ろうとするかのような、唇。
それが全て。

だけど、それだけで充分だった。

いつものように、扉をノックするために挙げた手を、何故だか振り下ろせなくて。
いつまでもこうしていたら、誰かに変だと思われる。
判っているのに、扉を叩けない。

少しの間の逡巡は、廊下の角からやってくる人の気配が断ち切ってくれた。
戻ってきた、誰もいない自室は、白々とした人工灯に照らされて、ひどく寒々しい。

指の跡が残りそうな程にきつく握りしめる、その手と。
何かを奪い取ろうとするかのような、唇。

それだけで充分だったのに。



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