カードの裏側 +++ act.2


裾を掴んでた

(6のお題 キスの甘さ/「as far as I know」様)


夜、あの人の部屋の扉を叩く。それが合図。
扉が開かれれば、部屋に入る。開かれなければ、今日はいらない、という意味。
純粋に、部屋にいない時もある。あの人は、学園にとって重要な仕事を持つ、忙しい人だから。
そんな時は、そのまま部屋に帰る。いつもなら、あの人といるはずの時間を、参考書を眺める事やなんかで費やして。それから、ベッドに潜り込む。
時々、思う。何故、あの人は、俺とこんな事をするんだろう。
小さな疑問の辿り着く先は、いつも同じ。
あの人にとって、俺は珍しい玩具のようなものなんだろう。
今まで、あの人の傍に、俺みたいな人間はいなかったんだろうって事は、容易に想像がつく。
選ばれる事が当然である、この学園にいる事が当たり前のようなあの人と俺とでは、そもそも生きる世界が違う。俺は、たまたま間違って紛れ込んだようなものだから。
だから、ちょっと気を引かれた。それだけの事。
だけど、それは俺も同じだ。

ちょっと気を引かれただけ。ただ、それだけの、事。





キーボードを叩く音が淀みなく続く。会計部で聞く、流れるようなそれとは違って、少し固い。これが実際のペンであったら、筆圧が違う、とでも称するものか。
キータッチひとつとっても、性格って表れるものなんだなぁ、と、PCといったら、マウス使用が基本の啓太は、しみじみと思う。
実際、手は休みなく動いてはいるものの、プリントを各頁毎に割り振って、ホチキスで留めて、という単純作業を繰り返していると、色々なことを取り留めもなく思ったり考えたりするものだ。
今日もまた、良い天気だった。
暖かな日差しが差し込み、微風が窓のカーテンを静かに揺する。中庭で日向ぼっこをしたら、気持ちが良いだろうなぁ、と思って。
「王様、こないですね…」
日向ぼっこで連想した人の事をつい、口にした。返答を期待した訳ではないけれど。
昨日の夜は、仕事するって言ってたのになぁ、と思った啓太の思考を読んだ訳ではないだろう。いや。読んだのかもしれない。それくらい、この中嶋という人は、啓太の言外の思いをくみ取るのが上手い。
「別に、何時に来る、と言った訳ではないからな」
ふ、と、ひとつ息を吐いて、中嶋はその手を止めた。
「ごめんなさい」
かかる言葉に、更に顔を上げる。
「あの。お仕事の邪魔をするつもりはなかったんです…」
思考の淀みを示す、ほんの一呼吸。それで、啓太の言は中嶋の手を止めさせた事に対するものだと気づいたらしい。微苦笑して、返す。
「別に、お前のために手を休める訳じゃない」
ふわりと、風が通り抜けていった。

「じゃあ。コーヒー入れましょうか?ちょっと休憩しても、大丈夫ですよね」
啓太は、答えは待たずに席を立つ。
「もう飽きたのか?」
いつの間にやら、丹羽2世だな、と揶揄する声に、「当たりです」と軽く応える。部屋の隅に設置したコーヒーサーバーに向かう足は止めなかった。
サーバーにペーパーフィルターをセットして、挽いた豆を落とし込む。程なくして、香ばしい匂いが部屋中に広がり出した。
窓の外からは、運動部が活動に励んでいるのだろう歓声が、風に乗って遠く響く。穏やかな日差し。静かな時間。不思議に平和な午後だった。
中嶋好みの濃いめのブラック。できあがりは、上々だと思う。啓太自身は、ストレートのコーヒーは飲めないので、本当には味見もできないのだけれど。
いつものように、自分用には牛乳で薄めて、砂糖を落とそうとしたところを、背後から伸びた手が、カップを拾い上げた。
「…中嶋さん?」
「………今日は、これでいい」
中嶋はそのまま、啓太のカップに口を付ける。その事に、何故だかどきりとする。
「あっ、あの!じゃあ、俺がこれ、貰いますから!」
動揺を隠すように、慌てて中嶋のカップを掴み、一口。
「……にが」
砂糖を入れてもいない、正真正銘のブラックは、啓太の口にはあまりにも濃く、苦かった。
「…何をやっているんだ」
鼻先で軽く笑って、だけどそれは、冷笑でも侮蔑でもない。ひょいと、啓太の手元からカップは攫われ、そして、代わるように啓太へと押しつけられた、ミルクで割った砂糖なしのコーヒー。
ミルク入りのコーヒーが飲みたかったのに、啓太の代わりにいつものコーヒーを引き受けた。そんな様子の中嶋は、全く常の中嶋らしくなくて、それでいて、やっぱり中嶋らしくて。
「中嶋さん、そのコーヒーにも牛乳入れますから!」
啓太が、己の作業卓へと戻り掛けた中嶋の腕に手を掛けかけた、丁度その時、軽やかなノックの音がした。



「さぁ、さっさと入れ。全く、何故、私がお前を引っ張ってこなければならないんだ」
憤然とした様子の、それでも常に輝かしく美しい人。
「西園寺さん、こんにちわ」
開かれた扉へと向き直った啓太は、西園寺に笑いかける。
「王様連れてきてもらっちゃったんですね。ありがとうございます」
中嶋は既に、席へと戻ってしまった。届かなかった手は、自身の手で隠すように握りしめて。
殊更に明るく、何でもない事のように軽く響くように。そう願って。
「王様、駄目ですよー。西園寺さんに迷惑掛けちゃ」
悪戯めいて、笑ってみせた。
「けーたー、お前、そりゃねーだろ」
情けなさそうな顔をした丹羽に、軽やかに笑って。
まるで、不出来な芝居のようだと、そう思う。
「王様の分も、コーヒー入れますから」
飲み終わったら、お仕事しましょう?と、宥めながらもねだったら。
丹羽は、唇を尖らせて、それでも「しょうがねぇな」と言い捨てた。その事にほっとしつつ、啓太が書類棚隅の食器置きスペースから、丹羽のカップを出そうとしたところ、丹羽は、「俺、これでいいわ」と啓太のカップを取り上げた。
本日二度目のその状況に、啓太も苦笑するしかない。
ならば、丹羽のカップは、自分が使わせて貰おうと、そのまま取り出し、客用の予備のカップもまた、持ち出す。
「西園寺さんも、お茶いかがですか?緑茶もあるんですよ。今、入れますから」

緑茶なんか、あったかよ。
もー王様ったら。こないだ、和希がくれた饅頭食べた時、王様も飲んだじゃないですか。
…ああ、あの玄米茶か。

そんな丹羽と啓太の遣り取りをしばらく見つめていた人は、いかにも優雅な様で首を振る。
「いや、いい。それでなくても、予定外に時間を食ってしまったからな」
そう言って。
合理的に効率的に仕事を進める、己の時間を正しく支配する人は、帰っていった。
会計部で彼の帰りを待っているだろう人の元へと。
「さあ、きりきり働いてもらうぞ。すべき事は山のようにあるんだからな」
いかにも楽しげに笑う、中嶋のその様子は、嫌そうに顔を顰めた丹羽とは好対照だ。己と共にいる時とは、醸す空気が違う。彼らは確かに、対なのだ。
そう思ったら、ただ無性に、和希に会いたくなった。
今日の和希は理事長モードで、仕事が忙しいと言っていたから、多分、夜も会えないだろう。
だから、後でメールを打っておこう。

無理しないで。
仕事、頑張って。
会いたい、な。

忙しい人を困らせると判っているから、最後の一文だけは、本当には打たないけれど。
いつものように、触れたい。
微笑った顔が見たい。
そうしたら、きっと落ち着く。この寂しい気持ちもなくなって、悲しい事なんか何もないんだと、そう信じる事ができる。

「…啓太、またでれでれ笑いやがって、こいつ、また遠藤かよーっ」
「ええ、そうですよー。何か悪いんですかー」

悲しい事も辛い事も、何ひとつない。この世界には。





時々、思う。何故、俺は、あの人とこんな事をするんだろう。
小さな疑問の辿り着く先は、いつも同じ。

ちょっと気を引かれただけ。ただ、それだけの、事。



月の光が、窓から差し込んだ。眠るあの人は、まるで彫像のよう。
そっと手を伸ばしかけて。
静かな空気が動く事さえ恐れるように、密やかにその手を戻した。
触れてはならないのだと、判っていた。



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