カードの裏側 +++ act.1


軋む音がする

(6のお題 キスの甘さ/「as far as I know」様)


授業が終わってすぐの教室の空気は、ひどく忙しない。HRを終えて、部棟へと移動する者、寮へと戻る者、人によって様々なれど、あらかたの少年達にとって、一日の本番はこれから、なのだ。
「啓太、今日はどこに行くんだ?」
和希の言葉に、啓太は軽く小首を傾げる。
「んー。学生会、かな。書類が溜まってるみたいなんだ。俺でも手伝える事がありそうだし」
「そっか。大変だなぁ」
「そんな事ないよ。みんな、忙しいんだし、俺は手が空いてるし。仕事も、今何をやってるのか、判ってくると、段々楽しくなってくるしね」
朗らかに笑う啓太の表情に、嘘はない。多分、本当に楽しいんだろうと思うから、和希は少々、複雑である。どちらか片方だけでも大変な仕事なのに、頑張り屋の啓太は、学生会と会計部両方を行き来しているのだ。無理をしていないだろうか、疲れはしないだろうかと気はもめるし、あの海千山千の濃すぎるメンバーに、可愛い啓太をあまり近づけたくないというのも、また被保護者を溺愛する男の正直な心情というもので。

   だって、啓太があの連中に染まっちゃったら嫌だもの。

だけど、そんな和希の思いとは裏腹に、その業務と経験が、啓太の成長の役に立つというのも、本当で。
和希としては、色々と板挟みな訳なんである。
が、しかし。
「それにさ。学生会と会計部の仕事って、和希の仕事とも、関わりがあるだろう?和希が普段、どんな事をやってるのかって、判るじゃないか。それもね、面白いなぁって」
こんな事、頬を染めつつ、照れたように言われたら、もうお手上げで。
「そっか」
啓太と同じように頬を染めて。
「そうだよ」
返る笑顔への愛おしさ。

和希は今日は、部活?だったら、夕飯は一緒に取れるかなぁ。うん。あんまり遅くはならないと思うけど。帰ったら、会いに行くよ。それじゃあ、行ってくるね。

手を振る啓太に、手を振り返して。
周囲の色さえピンクに染め変えてしまいそうな二人の遣り取りも、級友達にとっては、いつものことで。もう慣れた、とばかりに、彼らの会話など気にも留めない。
結局のところ、オープン過ぎると、突っ込むのも馬鹿らしくなる、という事なのだけれど。



「…随分と機嫌がよさそうだな」
「え?そうですか?」
「ああ。語尾がうきうきしてるぞ。なんか、いい事あったのか?」
中嶋からの、常の如く感情を交えぬ言を受け、使用済みの資料をバインダーに閉じる作業を続けていた啓太は顔を上げる。その応えは、続く、珍しくも学生会室での日常業務に励んでいた丹羽の指摘を聞くまでもなく、喜びに溢れかえっていた。
「『いい事』って…。…うん、俺にとっては、いい事、かな…」
えへへ、と照れ笑うと、途端に丹羽が苦虫を噛み潰したような顔をした。
「だーっ。どーせまた、遠藤絡みなんだろー」
聞きたくねー、と、丹羽が耳を塞ぐ。日光にある有名な猿のアレの姿である。
が、しかし。
結局、すぐに耳の蓋を外した丹羽は、いかにも嫌々ながら、といった様子で、口を開く。
「で。今度は遠藤がどうしたんだよ」
遠藤が、の部分を全く否定もせず。
「えー。どうもしませんよー。ただ、今日は一緒に夕ご飯食べようねって約束しただけで」
啓太は、ぽえぽえと顔を赤らめたまま、そう言った。
「…………………それだけか?」
「それだけですよ?」
ちょこん、と啓太が小首を傾げる。本当の本当に、それだけだった。
口にしてみたら、本当に小さな事で。

わー、何だか本当にちっちゃいなー。
ちっちゃい事で幸せになってるなー、俺。

我ながら、ちょっとびっくりしてしまう。
「………そーデスカ」
丹羽も、ぐったりした風に、机に懐いてしまった。どうやら、呆れられてしまったらしい。
「…伊藤」
「はい」
丹羽との和やかな会話を遮る声に、啓太は中嶋へと振り返る。
「会計部だ」
書類の束を差し出しながらの言も、既に慣れたものだった。
「はい。定期便ですね」
業務毎に仕分けられ、クリップで纏められた書類の数と各枚数とをざっと確認して。
「えーっと、分類3つ、各5頁づつで、いいんですよね?」
漏れがないかをチェックするのを兼ねて、書類の概要を中嶋へと告げる。
「ああ。メモがついている物は、イレギュラーの処理があるから」
「はい。伝えておきます」
神妙な様子で頷いた啓太は、いつものように学生会室を後にした。



「何か、いい事がありましたか?」
会計室に行ったら行ったで、またどこかで聞いたような事を言われてしまった。
苦笑した啓太は、「ええ、少し」と、目の前の七条に微笑みかける。そのまま、中嶋から預かった書類の説明をしようとしたら。
「今回は、遠藤君がどうしたんですか?」
…また、言われてしまった。
「うー。そんなに分かり易いですか?」
王様にも同じ事言われたんです…、とぼやく啓太に、七条は目を細める。
「ええ、そうですね。伊藤くんは、正直ですから」
全部、顔に出ている、という事らしい。
啓太は、ほんわりと笑う。
和希に関する事では、特にそうだ。啓太は、それを自覚している。
「でも、本当に、なんて事ないんです。七条さんには、呆れられるかも…」
「そうだぞ。夕飯が楽しみってだけらしいからな」
割り込んだ声に、びっくりして振り向くと、会計室の扉を開けて、丹羽が入室するところだった。
「ノックぐらいしろ」
いかにも嫌そうに、西園寺が顔を顰める。
丹羽は、啓太はにっかりと笑いかけると、まっすぐに西園寺の元へと歩み寄った。
「おう。書類に追加だ。啓太が出てからできた分。今日はこれで終わりだからよ」
「…全く。お前達は」
仕事が終わってもいないのに、勝手に終わりにするな、と、正論に基づく説教を始めた西園寺に対して、軽く宥めるような事を言いながら、丹羽は楽しそうだ。いつも冷たくあしらわれているから、ちょっとでも構ってもらえるのが嬉しいのだろう。
丹羽が西園寺の事を好きだというのは、公然の秘密ですらない、周知の事実というもので、勿論、啓太もそれを知っている。
「啓太も、もう上がっていいぞ。ヒデへの報告は、俺が一緒にしとくから」
丹羽は、西園寺に向かったまま、手をひらひらと啓太の方へとひらめかす。
「はい。じゃあ、これで失礼しますね」
七条と西園寺に、丁寧に一礼すると、啓太は会計室の扉を閉めた。



「何かあったのか?」
…また聞かれてしまった。だけど今度は、何かいい事が、とか、遠藤と何か、などと問われる訳ではない。問うているのは、当の和希であったから。
食堂の片隅で、和希と向かい合って座って、夕飯を食べている。おかずは、和希の好きなアジフライだったから、微妙に嬉しそうな顔をした目の前の人を観賞する、というおまけもあったりして、啓太にとっては今日の夕飯は、いつもの2倍くらい美味しい。
えへへ、と笑うと、和希が不思議そうな顔をする。
「今日、3回目だよ、それ聞かれたの。そんなに『いい事』あった顔してる?」
「今は、ね」
不可解なことを言う和希に、小首を傾げると、和希は軽く笑う。
「ちょっと疲れてるのかなって顔してた。けど、今は楽しそうだ」
「うん。今日のご飯も、美味しいしね。この学園、本当にご飯美味しいよね」
啓太の全開の笑顔に、和希は苦笑混じりだったけれど、それだけじゃなく笑ってくれたから、もっと嬉しくなって、啓太はえへへ、と笑う。
「だけど、疲れてはいないよ?今日の仕事、早めに終わったんだ。んー、本当は終わってないんだけど、終わりにするって王様がね」
全く、あの人はなぁ、と苦笑する和希に。
「疲れるなら、和希の方だよ。やる事いっぱいあるだろう?」
啓太は、眉をハの字に落とした。
理事長本来の仕事、手芸部の活動、学生としての日々の授業と課題。幾つもの顔を持つ和希の方が、啓太よりもずっと大変なはずだ。
「大丈夫だよ。俺はね」
軽く言っても、まるっきり信じていない啓太の目に合って、和希は目端で微笑ってみせる。
「啓太が笑った顔見せてくれたら、それで疲れなんか吹っ飛んじゃうよ」
はい、と差し出されたのは、フルーツサラダの中に入っていた一粒の苺。啓太の好物である苺をフォークに刺して、差し出して。
これあげるから、笑って?
和希の目が、そう言っている。
何だかもう、俺ってすごい単純だと思われてるのかなぁ、なんて思いながら。
何だってこんなに暖かい気持ちになってしまうんだろう。何だって、和希はいつも、こんなに暖かい気持ちにさせてくれるんだろう。
テーブル越しのフォークを、ちょっと身を乗り出して、ぱくり。口にする。季節外れの苺はちょっと酸っぱくて、だけどとても幸せな味がする。
えへへ。
照れたように笑ったら。
和希もまた、満ち足りたような、幸せそうな、そんな顔をして、笑った。

ああ。いいな。
いいよね。こういうのって。
俺が笑ったら、和希が嬉しくて。
和希が笑ったら、俺が嬉しい。
それって、すごくすごく、幸せだよね。
もう、ちっちゃくったって、いいや。ちっちゃい幸せ万歳。

啓太のそんな、ほえほえ気分を破ったのは、呆れ返った風な人の声。
「何だ、お前ら。結局、夕飯デートかよ。ほんと、飽きねーなぁ」
「デートって何ですかー。そんなんじゃありませんよー」
むくれつつ振り向いたら、丹羽と中嶋がトレイを持って立っていた。
和希と啓太が一緒にいると、何故か周囲には人がいない事が多くて、夕食時にも関わらず、今回も二人の隣の席は開いていた。丹羽と中嶋が、その席の椅子を引くと、それでも同じテーブルにいた少数の人達が、慌てたようにトレイを手に立ち上がる。
ますます、周囲の人口密度は低くなってしまった。
濃度はとんでもなく高くなってしまったけれども。
「今日は、ちゃんと仕事してたらしいですね?」
啓太に聞きましたよ、と和希が丹羽に、揶揄するように言った。
言葉遣いは丁寧だったけれど、それは、一年生の遠藤としての言葉ではない。
理事長として、といった風でもなく、ただ、年上の者から、といったような言葉。
それは、和希の正体を知る彼らに対しての、和希のスタンスそのものを示している。
「明日もするぜ?」
それを、すんなり受け取っているらしい丹羽は、どうだ、と言わんばかりに、胸を張った。
「郁ちゃんと約束したからな」
「………約束なんかしなくても、仕事をするのが当然だろう」
和希の隣に座った中嶋が、ぼそりと呟いた。正論である。しかし、丹羽を見ていると、正論が正論と思えなくなってくるあたり、不思議なところだ。
困ったように笑う啓太の上に。
「今、お食事ですか?」
今、この状況で聞くには厳しすぎる、穏やかに優しい声が降ってきた。
ぱしん、と。
空気の鳴る音がした。確かに聞こえた。絶対だ。
「伊藤くん。明日は、会計室に来てくれますか?美味しいお菓子が手に入ったんですよ」
「無理だな。今日の仕事が、まだ終わっていない」
「おや、副会長。いらっしゃったんですか。目に入っていませんでした」
七条が、ふんわりと微笑む。
「ですが、今日すべき仕事が今日終えられない、学生会の手際の悪さを、伊藤くんが埋めなければならない道理もないでしょう。基本業務はあくまでも、そちらでやっていただかないと」
ふんわりと微笑んだままのこの口撃に、中嶋の目がきりきりと引き絞られていく。
「ほう。人がましい事を言うものだな、犬風情が」
暗黒面に引き込まれてしまいそうです。フォースが足りません。もっとフォースを。
…って、何で俺、この二人の間にいなくちゃいけないんだろう。
何だか涙が出そうになってきた啓太の前で、和希は深々と溜息をついた。周囲に聞かせるためである事はすぐに判る、大仰な様子で。
「……王様。西園寺さん。どうにかして下さい。食事中なんですから」
いかにもうんざりしたといった和希の言に。
「…臣」
「止めとけよ、ヒデ」
王様と女王様と呼ばれる二人の言葉。
アノ二人の冷戦を止められるのは、常に対として語られる二人だけ。
鶴の一声、とまでは、いかなかったけれども、程なくして、凍り付きそうだったその場の空気は、溶解した。
会計部の二人が、彼らと同じテーブルを使おうとしなかった事だけが、救いだったかもしれない。
「…じゃあ、俺達はそろそろ、失礼します」
啓太、と声をかけた和希に、ぼんやりと二人の背を見送っていた啓太は。
「え?!」
びくりと背を震わせて、振り返る。
「そろそろ、部屋に戻ろう?」
苦笑して、トレイの上の空っぽの食器を指し示す和希に顔を赤らめて。
「そうだね」
啓太は、トレイを手に立ち上がった。





あの人は、いつもと同じ顔。
俺があの人の部屋の扉を叩く、その時までは、ずっといつもと同じ顔。
開かれた扉は、いつも無感情で、俺もただ、通り抜けるだけ。それが、昼間の世界と隔絶した場所に至ると知りながら。何の感慨もなく。
だけど、今日は少し、違ってた。
無言で引き寄せる腕は、何だか苛立っているようで、妙に乱暴で。
痛い、と言ったら、噛み付くようなキス。

おかしいよ。
貴方が彼を大切に思っているように、俺は和希が大切なんだ。
それの何処がいけないの?

俺の問いに対する答えはない。いつだって。
ただ、引き寄せる腕が、肌を這う乾いた手があるだけ。

軋む音がする。これは、ベッドの音?俺の心が立てる音?

貴方は、彼が好きでしょう?俺は、和希が好きなんだ。

暗い暗い闇の中で、ただ、それだけが、一筋の光のようだった。



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