そこは約束の地〜White SIDE


われは異郷にあり
あらゆる暗い破壊の岸辺から われらすべての解放の道を探す

ジョン・ミルトン「失楽園」より



そこは、広いと言えば広いと言えたし、狭いと言えば狭いとも言えただろう。
石造りの壁が迫り上がった先の天井は、とても高い。分厚い石を積んだ重厚な床は、ふかふかした絨毯を敷き詰められていて、少しも硬さを感じさせない。そこここに置かれた調度も全て、実用品の域を脱して、既に芸術品だった。
彼は、室内を一渡り見渡した後、そっと顔を伏せた。もう、どれほどの間、ここにいるのか判らない。そして、後どれだけの間、ここにいなくてはならないのか。
彼に与えられた広々としたこの部屋には、窓がない。扉すら塗り込められて、食事を差し入れるための小窓があるばかり。ただ、この部屋だけが、彼に許された世界の全て。
彼は絨毯の上で、胎児のように身を丸めて横たわる。既に、言葉を発しなくなって久しい。返るいらえはないのだと、よく判っていたから。より一層、身を縮めて、己の肩を抱く。寒かった。温度を一定に保たれた室内だというのに、例えようもなく寒かった。
幼い日、彼が育った家よりもずっと広い部屋。小さな小さな彼の世界。
そこは、とてつもなく豪奢でこの上なく冷たい、牢獄だった。
ここでは、うつらうつらと時間が流れる。もう何年も前だったろうか、それとも数日前?一度、小窓から子供の顔が覗いた事があった。夢を見ているのかとぼんやりと見返す内に、すぐに小窓は閉じて、生き生きとした好奇心に満ちたその顔も失われてしまったのだけれど。…実際、それも夢だったのかもしれない。こんなにも子供の顔は、鮮明に脳裏に焼き付いているというのに。
彼は、子供の顔を思い起こす。それは、まだ自分が自分である事を確認する作業にも似ていた。
紅玉のようにきららかな瞳。青みがかった銀の髪。
とても、綺麗な子供だった。…確かにそれは、夢の産物としては相応しかったかもしれない。
その時だった。永遠に続くだろう日常に割り込んできた、非日常。
頭上から、音が降ってきた。
「おやおや。これはまた、随分と可愛らしい器を選んだものだ」
彼は、しばらくの間、身じろぎひとつしなかった。何が起こったのか、よく判らなかったのだ。冷たい沈黙が支配する彼の世界には、ついぞ存在しなかった音。それは、人の声だという事に思い至るまで、随分と時間がかかった。のろのろと頭を巡らす。天井と彼との間に、人の顔がある。
男。若いようにも、随分と年寄りのようにも見える。今まで、一度も会った事はない。見た事も。目を瞬く彼の前で、男は口角を吊り上げる。
「子供。今の名は、何という?」
今の名。今の名とは、どういう事だろう。しかし、疑問は一瞬にして氷解する。自分はそのうち、自分以外の存在へと変貌してしまうのだという事。何故、それを知っているのか。服の上から、そっと己の胸へと手を這わせる。その左下に、大きく十字に切り裂かれた跡が醜く肉を盛り上がらせている。それこそが、彼を彼でなくさせる要因。自分でもよく分からないところで、彼はそれを理解していた。
彼は小さく口を開く。しかし、言葉は出てこない。喉の奥に凝ったように、全く声は出てこなかった。胸の上で、ぎゅっと服を握りしめ、ただ口を戦慄かせる彼をどう思ったのか。男は微笑う。ほんの少しの暖かみも感じさせない、その微笑。
「まあ、いい。訊いたところで、意味はない。俺にとっても、お前にとっても、な」
言葉は、喉の奥に張り付いたまま、溶けて消えた。
男は、どこから現れたのだろう。入り口など、何処にもないこの部屋に。そんな疑問が気泡のように湧いて、消える。もう、どうでもいい事だ。彼は、男に消えてもらいたくなかった。もうしばらくは、夢から覚めてしまいたくなどない。
だけれども彼は、他者の存在、というものに慣れていない。それは、小さな恐怖心にも似た思いを起こさせる。この世界における男の存在は、はっきりと異物として認識できた。不安な気持ちを抱えたまま、ゆっくりと身を起こす。しかし、床に手をつき、ぺったりとへたり込んだまま、その身を緊張に強張らせて、それでも男から目を離さない彼に、男は告げた。まるで、どうでもいい事のように。まるで、何かのついででもあるかのように。
「お前をここから、解き放ってやろう」
彼は目を瞬く。男が何を言っているのか、よく理解できなかった。
「お前はこれから、ここを出る。外の世界は、白き羽を持つお前には厳しいだろう。お前にとって、ここでこのまま生き腐れていくのと、どちらがマシか、は難しい問題かもしれんが、少なくとも、最後の時まで、お前はお前自身として生きる事ができる」
じわじわと、その言葉の意味が脳を浸していく。それが指先、足の先にまで浸透して、彼はようやっと、目の前の存在の言う言葉の意味を理解した。
ここから出る。この牢獄から抜け出して、外の世界へと行く。
きっと男には、それができるのだろう。彼を外へと連れ出す事など、造作もないのだろう。
それでも彼は、ふるふると首を横に振った。それは、決してしてはならない事なのだ。
彼の反応を、怯えからと取ったのだろうか。男は、きつい目をして彼を睨み降ろした。
「俺は、そのような死んだ目をした『奴』の存在など、認めたくはないのだよ。例え、今現在は、覚醒してはいないとはいえ、な」
駄目なのだ。そんな事をしては、いけないのだ。彼は、必死の思いで目の前の物へと手を伸ばす。
「…お前?」
男の狼狽したような声が聞こえる。目の前の男の存在が、そして何よりも彼の発する禁忌の言葉が恐ろしくて、固く目を閉じたまま身を縮こませて、片手でマントの端に縋り付いて、それでも首を横に振り続けた。貧相に痩せた、ちっぽけな子供である自分が、明らかに戦士として名を馳せた人物であろう目の前の男を心配する、という行為は、身の程知らずで、しかも邪悪極まりない。自覚はあったけれども、それでも止められなかった。
それは、罪だ。彼がこの場に留まるというのは、既に定められた事で、そんな事をすれば、男に罰が下される。そんな必要はない。ただ、彼がここにいれば、それですむのだから。
何を思ったのか、男は静かに、彼の目の前に膝をついた。自然、マントも床に落ち、彼の握り拳も床に沈む。そして、男は告げた。その口調は、厳かですらあった。
「俺は、世の理には縛られない存在なのだよ。何をしても、許される。例えそれが、黒き聖母の意に反する事であろうとも」
そしてそのまま、呆然とした彼には目もくれず、今までずっと胸元に握りしめられていた拳…それは、服に力の抜けた腕を縋らせているに過ぎなかった…を無造作に剥ぎ取った。そこには、無防備な彼の体がある。その時、男は愛おしげに目を細めた。彼が男の感情の籠もった表情を見たのは、それが初めてだった。
男には判るのだろうか。切り裂かれた胸の十字。彼の物ではない、それでも現在、密やかに息づいている、彼自身の物でもある心臓。
男は、服の上からそっと、その唇を押し当てた。瞬間、錐で突かれたような痛みが胸を走る。泣き出してしまいたいような、情動。それが、『切ない』という感情なのだという事など、まだ彼には判らない。ただ、想いの欲するままにぽろぽろと涙をこぼす彼に対して、男はほんのりと微笑った。
「今度会う時、お前はもう、お前ではないだろう、子供よ。その時が来れば、お前の魂など、『奴』のあまりにも強大な魂に押しつぶされて、果ててしまう。それでも、お前の事は覚えておこう。お前が、お前自身であった時のお前を。悠久の彼方にまで、持っていってやろう」
その微笑みが、優しさが哀れみだったとしても。
彼は、嬉しかったのだ、その時。何もない、誰もいないこの世界で、たったひとり、緩やかに変貌していく自分を見据えなくてはならない彼は。誰にも「いらない」と、断じられたも同然の『彼』は。
「…僕の名は、アベルです」
囁くような声だった。実際、長い事使われなかった声帯は、随分と退化していたのかもしれない。
「僕の名は、アベルです」
そして、微笑み。笑い方など、とうに忘れ果てたと思っていたのに。それでも、口元が引きつった。今にも、泣き出してしまいそうだった。悲しくなどないのに。こんなにも、嬉しいのに。
「貴方の名前を、教えてください。僕も、覚えていたいです。最後の時まで」
男は、そっとアベルを抱き寄せた。それは、この上なく優しい所作で、今までついぞ与えられた事のなかった、彼を包み込むような暖かな体温に、またアベルは泣きたくなった。耳元に、吐息に乗った呟きが流れ込む。
「ファウスト」
思わず、相手の背中に縋り付くように、腕を回す。
決して、忘れたくない。決して、忘れない。自分が自分でいられる間は。
そう思った。



END







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