そこは約束の地〜Black SIDE


われは異郷にあり
あらゆる暗い破壊の岸辺から われらすべての解放の道を探す

ジョン・ミルトン「失楽園」より



決して近寄ってはならない、といわれた廊下の突き当たり。そこは、扉のあるべき場所にただ一枚の厚い戸板だけが填め込まれ、塗り込められた場所がある。
しかし、取っ手のない扉の下の方に、小さな小さな窓がある事を、彼は知っている。そして、その扉の向こうには、人がいるという事も。
彼がそれを知っている、という事は、当然、周囲の大人達には秘密だった。何しろ、「近寄ってはならない」廊下の奥の部屋の話なのだから。それでも、彼の周囲の子供達の間ではいつだって、「近寄ってはならない」廊下の話で持ちきりで、大人達の隠すそれを、自分がどれだけ知っているか、というのが、彼等の間のステイタスを決定する。
今日も、大善神ハ・サタン様への食前の祈りを捧げた後、神妙な様子で食事に手をつけ出した子供達をしばらく見守って、満足そうに頷いた大人が食堂を出ていく。それを横目で確認してから、数分間。大人がもう戻ってこない事を確信したらしい少女が、パンを握りしめたまま、テーブル越しに身を乗り出した。
「今度は、確実な情報よ!」
少女は、ふわふわとした金髪を振り立てながら、得意げに笑う。
「あの廊下の向こうからはね、『時が満ちれば、高貴なるお方が姿を現す』んですって!」
「あんた、この前には『廊下の向こうには、お化けがいる』とか言ってたじゃない」
鼻で笑ったのは、彼の姉。威張りんぼうで、彼に対してもすぐに姉貴風を吹かす彼女は、周囲の子供達にも受けが悪い。特に、この金髪の少女とは犬猿の仲だ。当然、むっとしたように少女は姉を睨み付けた。
「廊下の向こう、なんて、くだらない。結局、何もないに決まってるじゃない」
廊下の向こうは、くだらなくなんかない。そこは、彼等にとって、行ってはならない世界の果てだ。だけど、金髪の少女の言うように、「お化け」もいなかったし、「高貴なるお方が」やってくる場所なんかでもなかった。行ってはならない世界の果てに足を踏み入れてしまった彼には、そこは既に秘密の場所ではなくなってしまった。
あそこにいるのは、彼等と同じ子供。ただし、彼等とは違う、白い翼を持った。
あの時。彼が廊下の近くを通りかかった時。そこに、いつもならいる大人が誰もいなかった。だから、恐る恐る廊下の向こうを覗いてみたのだ。廊下の向こうは薄暗く、冷たく闇に沈んでいて、「お化けがいる」というのも、あながち嘘ではないかもしれない、という気を起こさせた。それだけで、その場を離れようと思った彼の耳に、大人のやってくる足音が届いたのはすぐの事だった。
びっくりした。そして、頭が真っ白になった。彼が廊下を覗いていた、というのは、すぐにバレてしまうだろう。そして、こっぴどく叱られるに違いない。彼は、隠れなくてはならなかった。しかも、早急に。なので、その廊下に飛び込んだ。そして、奥へ奥へと走ったのだ。ただ、大人に見つからない事だけを願って。
廊下は、随分と奥まで続いていた。必死に走っていた彼が、冷静になり、並足で歩むようになっても、まだ先があったくらいに。灯りひとつないその場の重圧感に、気後れし始めた頃、廊下の突き当たりに行き当たった。
重そうな扉は、決して開かない。何せ、開けるための取っ手がない。壁との隙間も綺麗に埋められていて、これでは何のために扉があるのだか判らない。しかし、その扉には、床すれすれに不思議な小窓が付いていた。
そっと小窓に手を伸ばす。彼の意に反して、その窓はあっけないくらい簡単に開いてしまった。一瞬躊躇したものの、結局彼は、廊下に這い蹲って、そこから中を覗いたのだ。
始めに目に入ったのは、白。白い羽。
そこにいたのは、彼自身よりもいくらか年上のようではあったけれども、確かに彼と同じ子供。
子供は、彼と同じ目線に存在した。つまり、子供も寝っ転がっていた訳なのだけれども、そんなものが見えるとは全く思っていなかった彼は、かなりびっくりした。しかし、子供にとっては、そうではなかったらしい。まるで、夢見るような瞳で彼を見返した。少し、不思議そうな様子で。
子供の唇が、小さく動いた。音には発せられなかったけれども、「ダ・レ」と、確かに形づくられた。それで、彼は急に怖くなった。彼がここに来た事が、子供の口から大人に語られたら、やっぱり彼は大人に叱られる。彼は、大急ぎで小窓から顔を引っ込めた。そして、それを元通りに閉じると、来た道を一目散に駆け戻ったのだ。運良く、廊下から飛び出した彼の姿を目撃した者は、大人にも子供にも存在しなかったらしい。しかし、その日の学業の時間は、散々だった。誰かにバレたのではないか、白い羽の子供が大人に告げ口して、今にも彼に懲罰を与えようと大人が姿を見せるのではないか、とそわそわして。
結局、白い羽の子供は何も言わなかったらしい。あの冒険行から何日か経った後、彼はそう結論づけた。
その男気に、彼は白い羽の子供を見直した。それから後は、白い羽の子供の事が、何故かとても気になった。
彼は、ずっとひとりであんな場所にいるのだろうか。寂しくはないのだろうか。
夢見るような蒼い瞳。それに、彼だけを映して。
今まで、子供の中で、男は彼一人きりだった。白い羽の子供は、彼にとって、唯一の同胞と言って過言ではない。
彼は、神妙な様子でパンを目の前のスープの皿に浸した。目の前では、金髪の少女と姉との睨み合いが口論に進展している。そのうち、また掴み合いにまで発展し、大人が彼女達を引き離しにやってくるだろう。それまでに、食事を済ませてしまいたかった。
彼は、心に決めた。今度のおやつの時間のお菓子を、いくつか取っておこう。またあの廊下の奥へと進むのだ。あの小窓を開けて、お菓子を差し入れて、「逃げたりして、ごめん」と謝ろう。そして、言うのだ。
「僕の名前は、ゼロだよ」と。
友達になりたいのだ、と告げるのだ。
そうしたらきっと、白い羽の子供はびっくりしたようにあの蒼い目を見開いて、それでも、嬉しそうに頷くだろう。
ゼロは、自分の空想に至極満足した。そして、計画実行の時期を狙って、あの廊下の周りに大人がいなくなる時をひたすら待った。
廊下の辺りが騒然とした空気に包まれ、常に大人が出入りを繰り返すようになったのは、それからしばらく経ってからの事。
それがまた、元通りの静けさを取り戻すようになるまで、更に幾らかの時を有して。
ようやっとゼロが、あの小窓を開けた時。
そこにはもう誰もいなかった。



END







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