サザンの「TSUNAMI」を聴いてたの


鏡のような夢の中で 微笑みをくれたのは 誰

TSUNAMI/SOUTHERN ALL STARS



「……なにか用か」
ゼロが立ち止まり、ゆっくりとした動作で振り返る。しかし、アベルへと向けられた顔は、何の感情も浮かべていない。
彼は、ずっとそうだった。パンデモニウムの闘技場で初めて会った時から、アベルを取るに足らないものとしてしか見ていなかったように思う。何故だろう、共に旅する仲間達には、そんな態度は全く見せない。確かに、孤高を貫いてはいたけれども、時には生真面目な思いやり、といったものさえ、覗かせるような人なのに。
アベルには、アベルにだけは、ただ静謐なだけの、まるでガラスのような瞳を向ける。
心の臓をぎゅっと絞り込まれるような感覚に、アベルは唇を噛み締めた。
ただ、己が心の指し示すままに追ってきたなどとという真実は、多分、ゼロにとっては、迷惑なだけだろう。だけど、気の利いた理由をすぐさま口の端に乗せられるような臨機応変さを、生憎、アベルは持ち合わせていない。
幾度か、口を開いては閉じる、という一連の動作を繰り返し、結局、一言も発せぬまま、アベルはただ、ゼロを見つめた。目を逸らそう、とは思わなかった。…そうしては、ならないような気がしたのだ。
「…変わらないな、お前は」
ぽつりとゼロが呟いた。よほど注意しなければ聞き逃してしまうだろう程の、吐息混じりのそれは、それでも、辛うじてアベルの耳に引っかかった。
「で。何も用はないんだな?ただ、追ってきただけで」
改めて、という調子で、彼はアベルに向き直る。断定調の詰問だったが、アベルは正直に頷いた。何で判るんだろう、と思いながら。
自慢ではないが、アベルの行動様式を理解してくれる人間は、数少ない。現在、共に旅する仲間達も、出会った当初はかなり面食らった事だろう、と他人事ながらに同情するほどだ。今では随分と慣れて、判ってくれるようになったので、却って、恐縮してしまうのだが。
目の前の彼からは、呆れたような溜息。それでも、怒っているふうではない。
今日の彼からは、いつものようなマイナスの意識を感じない。その瞬間、アベルは、周囲に彼と自分以外、誰もいない、という現状を強烈に意識した。彼を追って、随分な距離を歩いてきてしまったらしい。
そう言えば、彼と二人きりになる、というのは、掛け値なしに初めてだ。
「…どうしたよ」
深呼吸を繰り返すアベルの姿は、かなり不審であったらしい。身を固くしたまま、小刻みに首を横に振って、アベルは小さく口を開いた。
「何だか、緊張してきただけ」
急に、ゼロが口元を押さえた。長めの前髪が、俯き加減の彼の表情を覆い隠す。その肩は、小刻みに震えていた。
「…あの?」
彼が、大きく咳き込んだ。一際大きく、その肩が揺れる。
「だ、大丈夫…」
思わず、差し出されたアベルの手は、彼に届く前に止まった。彼は、ついに堪えきれず、といった様子で、吹き出したのだ。
そこにあるのは、芯からの笑い。何の裏心もない事は、一目瞭然だった。一体、何がそんなに可笑しかったのだろうか、アベルにはさっぱり判らない。しかし、過去の経験を顧みて、己の言動に何か変なところがあったのだろう事は、想像に難くない。
「………」
ゼロは、涙が出るほどに笑っている。
「………」
アベルは、まぁいいか、と思った。ゼロが微笑っているなら、それでいいや、と。



「…お前、昔の記憶がないんだって?」
彼とまともに話しをするのも初めてだな、と思いながら、アベルは怖ず怖ずと頷いた。しかし、それだけでは会話にならない、という事実の前に、何とか言の葉を紡ぐ。己の口下手、話し下手に対する自覚はあったが、せっかくの二人だけの時間だったし、和んだ空気を壊したくはなかった。
「だけど、困ってたり、辛かったり、心細かったりって事はないんだ。…俺って少し、変なのかな」
辛いだろう、と皆が同情してくれる。だけど、本当はそんなに辛くないし、心細くもない。そんな事は、とても言えないけれど。
「…違うだろ」
彼の返答は、小さく掠れていた。何故か、と思う間もなく、更に続く言葉。
「……それは、必要ないから。お前が『いらない』と思っているからだろ」
過去の記憶なんて、必要なかった。それより、もっと大切なものが、大切な人の記憶があるから。
アベルにとっての始源の記憶。それは、彼を心配そうに覗き込む顔。そして、彼が目覚めたことを知った瞬間、花開くように綻んでいった、その表情。
優しく、暖かく、アベルを丸ごと包み込むかの如き柔らかさ。
それが世界そのものであり、それ以外のものは、アベルの中には存在しなかった。存在しなくても、いっかな構わなかった。いや、それでこそ、だったのかもしれない。彼女だけしかない、というのが、却って嬉しかったのかもしれない。
無意識のうちに、口元が微笑を形づくる。多分、それは誇らしげな…。
今まで二人を繋いでいた糸が、いきなり解けた。暖かだった空気は、急速に冷めていく。
これで馴れ合いは終わり。
彼がそう思っているのが、何故か、アベルにははっきりと判った。
目の前には、いつものように硬質な瞳でアベルを見下ろすゼロが立っていた。
「もう、俺には近寄るな」
「何故?」
解けた糸の端を慌てて捕まえる。慎重に手繰って、何とかもう一度、結び合わせられないか、と願う。
「俺、ゼロと一緒にいると、すごく落ち着く。色々話したいよ。そう思うのは、いけない事?」
しかし、アベルの願いは、願いでしかない。切れた糸は、決して元には戻らない。
「甘ったれた事言ってんな」
ゼロは、冷たく言い放った。既に、二人の間の亀裂は、大きく広がっている。もう、おいそれと踏み越える事などできない程に。
「お前は元々、自分を守ってくれる相手だったら、誰だってよかったんだろう。『ご主人様』が大切なんだ。相手自身じゃなくて」
「違…」
「本当に違うって言い切れるのかよ」
アベルは、何度か口を開いたが、結局、言葉はひとつも出てこなかった。
アベルを糾弾する言葉の数々は淡々としていたけれども、反論しようにもできない力に満ちている。
だけど、何故だろう。
「お前は、いつもそうだ。自分は何も悪くない、という顔をして、それを相手がどう思うかなんて、考えた事もないんだろう」
アベルを責める彼の方が、何だか辛そうだなんて、何故、思うんだろう。
「…一体、俺の何を知っているっていうんだ…」
声は震えた。彼の言は間違っている。だけど、多分、幾ばくかの真実もまた、含まれている。だって、アベルには彼女しか居なかったのだから。彼女しか知らなかったのだから。
それでも、言わなければならなかった。何よりも、彼女に対する想いの真実、そして彼女の名誉のために。
「それとも」
アベルの思惟の中に、ふと、生まれた考えは、ひどく夢想的だった。もしかしたら、という思いは、そのまま、口をついて出る。
「俺の事、知ってたの?」
一笑に付されるかと思った。偶然、出会った人が過去の知り合いだったなんて、そんな都合のいい話があるだろうか。だけど、ゼロは笑わなかった。
「…だったらどうする?」
何の興味もないような視線は相変わらずだったけれども。
「もし、知っているなら、教えてほしい」
「…『いらない』くせに」
その時、ほんの一瞬、ゼロの瞳は感情の色を露わにした。
怒り、悔しさ、恥辱。そんな諸々のない交ぜになった混沌。そして、その後に閃いたのは、悲しみ?
アベルがはっとした時には、もう彼の瞳は、冷たく硬い紅玉に戻っていたのだけれど。
「俺の事、知ってるの?!」
再度、繰り返すアベルに、ゼロは皮肉っぽく微笑んだ。
「知らない」
言うなり背を向けたゼロに、反射的に手を伸ばす。彼の腕を掴み、…そこで、彼が振り向いた。アベルの手は、乱暴に振り払われる。しかし、そこから先は、アベルの予想の範疇外だった。彼の手が、反対にアベルの肩を握りしめ、引き寄せた。勢いのままに、彼の胸の中に倒れ込む形になったアベルは、それでも反射的に身を離そうとする。が、ゼロの力は強かった。頬に押し当てられた胸は、思ったよりもずっと厚い。アベルを押さえ込む腕も強く、固かった。そういえば、彼は戦闘を生業とする人だったのだ、と、今更ながらに思い出す。
「もう、お前なんか、知らない。どうでもいい。…お前が何をどう思うか、なんて」
頭上から届いた囁きに潜んだ苦しげな色に、アベルは顔を上げた。しかし、結局、その表情を窺うことはできなかった。気づいた時には、彼の顔は、あまりにも近くにあり過ぎたので。
寄せられた唇は、ひんやりと冷たい感触だけを残して、消えた。
アベルには、何が起こったのか、全く理解できない。ただ、彼を見返すしかできないアベルをどう思ったのか、ゼロは歪んだ笑みを浮かべる。
何だか、泣き出す寸前の子供のようだ、とアベルは、痺れてしまって、いっかな動こうとしない脳裏の何処かで思う。
そのまま、突き放されて、ゼロが何事もなかったかのように去っていって、それでも、アベルは呆然と、その場に突っ立っていた。



くるくるとその表情を変える紅の瞳。裏表ない笑顔。
『お前は、俺の物なんだからな』
そんな、拗ねたような口調なんか、聞いた事はない。彼はいつだって冷静で、感情に揺れることなど全くない瞳でアベルを見据えた。
だったら、あれは誰だったんだろう。
遙かな昔、アベルが今のアベルではなかった頃。今のアベルにとって、彼の片隅に眠るそれは、まるで生まれる前の記憶。
アベルは、そっと瞳を閉じる。浮かんでくるのは彼女の微笑。
現在、アベルの中に存在するのは、彼女だけだ。
『お前は、俺の物なんだからな』
そう言ったのは、深く深い霧に包まれた、もう決して触れられない、過去の亡霊。
それが、ゼロの声に似ているような気がするなんて、錯覚だ。



大切な大切な大切な人。彼女のためなら、己はどんな事でもするだろう。
彼女がそこに居てくれれば、それだけでいい。その微笑みを思い浮かべれば、いつだってどんな時だって、暖かな気持ちになれる。






だけど、今日は何故だろう。





涙が止まらない。



END







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