ひとひらの魔法

多くの危険や苦悶や誘惑を
私は乗り越えてきた
恵みはこんなにも安らぎを与え
還るべき家へと導いてくれる
アメイジング・グレース(邦訳)

空は低く、灰色に煙って、世界にのし掛かるかのように見えた。
その日は朝から、アベルの様子がおかしかった。こういった表現が許されるのならば。
アベルという少年の挙動は、ゼロの目には、いつもどこかしらおかしかったのだが、いつもとはまた、違ったおかしさ、だったのである。
凍えるような朝だった。反面、底冷えする寒さのため、目覚めてからずっと焚き続けている暖炉のおかげで、現在、彼らのいる居間は、春のように暖かだった。
窓に嵌ったガラスは、外気の温度差を示して、白く煙り、水滴を滴らせている。そのガラスを指先で拭い、期待を込めた目で空を見上げては、がっかりしたように窓から離れる。手にした箒で、既に埃ひとつない床を掃き清め、そして、これは特に綺麗になっている窓の下の床を掃くような素振りで、再びどころか、もう朝から何度目だか判らない、外を覗き込む、という作業のために、窓際へと近づいていく。
「ああ、もう」
ゼロが何も言わなければ、彼は永遠にその動作を繰り返したのではないだろうか。
「えっ。あ、ゼロ様」
びくり、と肩を強張らせて振り向いた。そんな挙動さえ、腹立たしい。
こいつは、すっかりゼロの存在を忘れていたのだ。
「茶!茶が切れてる!」
「あ。ごめんなさい。今、持ってきます」
仏頂面のまま、マグカップを彼の方へと突き出すと、アベルは慌てたように、台所へと走っていった。
今日は、ゼロの試合もない。いつもだったら、訓練場へと出かけるところだったのだが、あまりの寒さに気力も萎えた。自室でもできる程度の基礎訓練は、この後、するつもりではあるし、今日はゆっくり家にいてもいいか、と、ある意味、自分を甘やかしていた事に対する自覚もあるゼロの目には、居間にくつろぐゼロを気にも留めず、外の様子ばかり窺うアベルは、まるで自堕落なゼロを糾弾しているようにすら、映る。
「お待たせしました」
あっという間に戻ってきたアベルが、ゼロのカップに、淹れたてだろう香りも高い紅茶を注ぎ入れる。ゼロの好み通りの少し熱い程度の温度も、完璧である。
そして、またしても箒を抱えて、ふらふらと窓際へと…。
「…いい加減にしろーっ!」
「…だから、一番、最初に降った雪に願いをかけると叶うっていう、おまじないがあるんです」
なるほど、確かに如何にも雪の降りそうな空模様ではあるのだが。
ゼロは、己のカップの紅茶をずるずると啜った。既にぬるくなっているので、そのような飲み方をしても、火傷の心配もない。
こいつ、どこまで本気だろう。
ちらり、と目の前に神妙な様子で座ったアベルを見やる。
多分、全部、本気だろう。
紅茶をもう一杯淹れさせて、目の前の椅子に座らせて、淹れたばかりのそれを飲むように強要して、「俺の言う事が聞けないのか」と半ば脅しつけて、そうしてアベルはようやっと、その重い口を開いた。
しかし、強引に絞り出させた言葉が、コレだった。
オマジナイという単語自体が、ゼロには理解の範疇外にある。
確かに、そのような迷信の類が、どこかにあるのだろう。こいつは、知識量だけは凄いから。
しかし、あくまでも『だけ』なのだ。
あれだけ、色々な事を知っているくせに、何故、オマジナイなんてものは何の役にも立たない、という事が理解できないんだろう。
お義理のようにカップを口に運ぶ彼を観察しながら、それでも、ふと気づく。
「…最初の雪って、そりゃ『その冬初めて』か?それとも、『その年初めて』か?」
どちらにしたって、もう条件にはそぐわない。何といっても、既に冬も終わりに近い。この冬は、特に寒さが厳しく、雨さえ少ないこの地にも、珍しく雪が降り続いた。
年明け前の冬の初め。年の明けた冬の半ば。どちらも、だ。
しかし、ゼロの疑問に含まれた意地悪に全く気づかないかのように、
「『ゼロ様と会って初めて』の雪だから、だから、最初なんです」
彼は告げた。まるで当然の事のように。
「それで、こう、雪像を作って、ですね、それに願い事をかけるんですけど、それは絶対、他の人に知られちゃいけなくって…、………ゼロ様?」
何だって、こいつはこうなんだろう。
「顔、赤いです。風邪引いたのかな。熱ありませんか」
どうして、こう、こっ恥ずかしい事をさらさらと口にするんだ。
「あの、もっと暖かくして…。あ、今日はもう、寝ていた方がいいのかも。試合、ないんですよね」
それとも、こんなに恥ずかしいのは俺だけなのか。こんな、たった一言で狼狽して、赤くなって。
「すぐ、寝床の支度します!」
馬鹿みたいじゃないか、俺。
「…訓練場に行ってくる」
最初から、こうしていればよかったのだ。
「体の調子が悪いのに」と、おろおろと引き留めようとするアベルを、「風邪なんか引いてねー」と振り払って、玄関前で、外の寒さに耐えるための多少の心構えの時間を取り、後は一息に扉を開ける。
その時、まるで風に舞い踊るように、目の前をふわりと白いものが横切った。ゼロの手にかかり、その体温で一瞬のうちに溶けていく。
「…雪だ!」
玄関口まで見送りに出ていたアベルの、華やいだ声。
「凄い!ゼロ様、最初のひとひらを手に取れたら、それが一番、願い事を叶える力が強いんですよ!」
何を願うんだろう、と、心底わくわくしたような視線が語る。それを見て、また疲れたような気分になってくるのも、己だけだろうか。
「…そーかよ」
そんな一言のみを残して、ゼロはともすればへこたれそうになる己自身を叱咤しつつ、寒風吹き荒ぶ外へと足を踏み出した。
願い事、ねぇ…。
アベルの言を信じる訳ではなかったが。
ゼロは、願いなどというものは、己の力で叶えなければ意味はないものだと思っていた。願いそのものよりも、それを叶える力を手に入れる事の方が大事だと、そう思っていた。
そこで脳裏を過ぎったのは、如何にも楽しそうに空を見上げていた白い羽の少年の姿。
…いろんな事を信じていられるというのは、ある部分においては、めでたい事なのかもしれない。
最初のひとひらへの神頼み。
アベルの言を信じる訳では、決して決してなかったが。
あの馬鹿な少年が、馬鹿のままでいられるように。
彼がずっと、微笑っていられるように。
ただ、それだけを願う。
そうであれば、きっと、己も笑っていられる。願いを叶える力は、自分で掴み取るけれど、こればかりは、力ではどうにもならないものだと、そう知ってはいるから。
…そういえば、あいつの願い事って何なんだ?
聞いていなかった事実を思い出し、帰ったら締め上げてやろう、と決心する。帰宅後の楽しい仕事を見つけ出し、ゼロはにこにこと上機嫌で雪道を歩く。
世界を埋めるように降り積もる雪。
それでも、背後には暖かな家の光がある。
END・
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