秘密


至高の恵み 何と優しき響きか
私のような者さえも救われる
暗闇を歩いてきた私に手が差し伸べられた
盲人に一筋の光が与えられたように

アメイジング・グレース(邦訳)



冬の空気はぴんと澄んで、ごった返した人いきれを中和する、不思議な作用があるようだ。
寺へと続く仲見世は、ひどく活気づいて、新しい年の初めを祝う。まだ、朝も遠いのだとは思えぬ程に、周囲の空気は何やら落ち着かぬ、肌を刺すような興奮に充ち満ちていた。
しかし、そんな周囲もほとんど、目には入らない。ただ、目の前にある振り返らない背中に遅れぬよう、アベルはひたすら歩いていた。
彼の背中は、周囲の全てを跳ね返すかのように、孤高、という言葉の代名詞のように、アベルの目には映る。
アベルが彼と共にいる事を、他の友人達はひどく驚いていた。あまりにもそぐわない、と、誰もがそう言った。
どこででも、普通より少し上、とランク付けされる、ごく目立たない生徒でしかない己と、不良学生、とレッテル付けられた彼。
学校では、滅多に言葉を交わさない。彼が、学校に滅多に出てこないという事もあったのだけれど、それでも、引き合う磁力のようなものをアベルは感じていて、そして多分、彼も幾らかは感じてくれていて、だから、学校も休みに入った年の暮れ、不意に彼が現れて、「出かけるぞ」と言った時も、何の疑問もなく、ついてきてしまったのだ。
何もかも、頭の中からは消えていた。これまで一度の例外もなく、共に年を越してきた兄の事も。一緒に初詣に行こう、と約束していた友人達の事も。
悔い改めよ、と、音の割れたスピーカーががなり立てる。
家族への愛、友人への愛。すべての人々への、そして、神への愛を祈れ、と。
「寺の前で、教会の宣伝カーって、反則だよな」
苦笑混じりに、彼が呟いた。アベルの同意を求めている訳ではない。半ば、独り言のように。
心清き者だけが、神の国へと入る事を許される。終わりのない浄福の世界で、永遠の命が与えられる。
「…馬鹿みたい」
ぽつり、と呟いただけだったのに、彼に届いてしまったようだった。
「お前だったら、天国行けそうだけどなぁ?」
天を仰いで息を吐き、振り向くともなく、言葉を紡ぐ。揶揄するようなその調子も、全て、己の耳に入る。たくさんの人で溢れたこの世界で、ただ彼の言葉だけが、意味のあるものであるかのように。
彼の目に、己はどう映っているのだろう。友人達に囲まれて、いつも穏やかに微笑って。
優しいアベル。大人しいアベル。いいつけをよく守る、いい子のアベル。同じ顔の兄と比べられるためか、物心ついて以来、ずっとそんな形容をされてきた。
白い羽をつけたような優等生。
それが、周囲の人々の知るアベル。
「行けないよ」
アベルは返す。
「僕は、地獄行きに決まってるんだ」
ただ、事実を告げるのみの淡泊さで。
天使なんかじゃない。心清くなんかない。神の国になんか、入れない。
問題ばかり起こす、とずっと親の頭痛の種で、それでも、アベルよりもずっと親に愛される兄。なのに、口先では己ばかりを褒めそやす両親。彼の事を悪く言う大人達。「あんな子とつき合ってはいけない」と、解ったような事を言う教師達。僕と彼とを引き離そうとする友人達でさえ。
みんなみんな、いなくなればいい。
僕らを否定する世界ごと、消えてしまえばいい。
そんなドロドロとした呪いを抱えた己は、きっと地獄に堕ちるのだ。
「おいおい」
アベルの答えを、だろうか。それとも、冗談口を真剣に受け取るアベル自身を、だろうか。彼は笑う。屈託のない子供のように。アベルしか知らない、純粋な笑顔で。
彼は知らない。
彼が「美人だ」と言った女の子達を全て、消してしまいたい、と思う、そんな己の心など。
「お前、本当に変だなぁ」
呆れたように、それでも面白そうに笑って。
「…ま、いいか。最後まで、腐れ縁ってのも。つき合ってやるよ、地獄でもさ」
どうせ、俺も天国なんざ行けないしな、と軽くいなした。彼にとっては、ほんの戯れ言。
だけれど、そんな言葉さえもが、嬉しかった。
刺すように冷たい空気の中、彼の背を追って、アベルは歩く。白い息が霧のように煙って、彼の背中を遠くさせる。追いつかなければ、と彼のコートへと伸ばした手が、先を急ぐ人にぶつかって、少し、足下をよろけさせ、人の波に押されて、一瞬、彼が見えなくなって、慌てて、人をかき分けるようにして、また後を追いかけて。
「ああ、もうしょうがねーな」
少し離れた場所で待っていた彼は、大仰な息を吐いて、アベルの手を握って引いた。



ただ、握り締めた手だけが、世界の全て。
それ以外には、何もない。
たったひとりの永遠の天国よりも、共に堕ちる地獄の方が、どれだけ嬉しいかしれない。
彼は、何も知らない。心清き人は、何も気づかない。
気づかないでほしい。汚れた己の姿になど。
本当に天国に相応しい人を地獄へと引き込もうとする、己の醜さになど。
三廻り目の至福千年紀だ、とスピーカーが誇らかに告げる。
神の国を来たらせたまえ。
神の名を崇めさせたまえ。
天に神の栄光があるように、地にも成さしめたまえ。



神の国など、もういらない。



だけど、それは永遠に秘密。



END






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