水妖記


善人だろうと 悪人だろうと 変わらない
人は 必ず 嘘をつく
精霊の姫には それが理解できなかった



少女は水の精霊。人里離れた深い森の奥、大きな湖のほとりでひっそりと暮らす、人間の漁師の老夫婦の養女として育ちます。
そんな、続く平穏な日々を破るようにして現れた、遍歴の騎士。
少女は、一目で恋に落ちます。そして騎士もまた、天衣無縫の彼女に心を奪われてしまうのです。
騎士の貞節を疑い、この恋に反対する水界の王。しかし、少女は王の反対を押し切って、人界へと嫁いでいきます。もし、騎士が彼女を裏切ったら、王は騎士の命を奪ってもいい、という契約を取り交わして。
しかし、精霊である少女が、宮廷生活に馴染めるはずもなく、貴婦人ならば知っていて当然の礼儀作法も何も弁えない彼女は、次第に騎士の重荷となっていきます。
やがては、少女を疎むようにさえなった騎士の心は、既に彼女の上にはなく。
彼が許婚者の元へと帰りたがっていると察した少女は、言います。
「私、他に好きな人ができたの」

   彼が私を裏切ったのではないの。
   私が彼を裏切ったのよ。
   王よ、水界の王。
   貴方に、彼の命を奪う事はできないわ。





「バカじゃねーの?その女」
そう言うと思った。
ゼロが、何か話をしろ、と言い出した時から、彼が喜ぶような話は己にはできないと判っていて、それでも、この話をしてしまったのは、アベルの中のどこかに深く染みついた物語だったからだろうか。
古い本の山の中に埋もれた、古い古い戯曲。
禁断の『愛』を語る騎士と、人間ではない娘。
埃とカビの匂いの中、ページを繰りながら、夢のように不可思議で、それでも切なく哀しく、何よりも美しいと感じた世界。
「裏切り者には、死の制裁ってのは、当然だろうに」
言いざま、ゼロは寝返りを打つ。
ソファは置かず、ラグを敷いた床に直接クッション。
前の家主が置いていったソファが、とても使えるような状態ではなかったが故の苦肉の策だったのだが、当のゼロは、その様式をいたく気に入ったらしい。彼は最近、床に転がる事が多くなった。アベルがきちんと掃除をしていると知っている、という事もあるのだろうが。
「欲しいものは、奪い取るのが当たり前だ。そういう意味では、許婚者の方が正しいな。水の精霊追い落として、しっかり男を取り返したんだから。そこからまた、精霊が男を取り返さないってのは、元々、それほど欲しかった訳じゃないって事だろう?」
多分、彼の言う通りなんだろう。
いや、明らかに言う通りだ。
これまで育ってきた中で、一般常識を培う機会をあまり持てなかったアベルではあったが、それが皆無であったという訳では決してなかったので、考えた末にそれに気付く、という事もないではなかった。今回もまさに、そうだった。
欲しいのならば、奪い取る。そうされたくないのならば、相手より強くなればいい。
そうして、全ての生物は前へ進んでいくのだから。
その『常識』に照らせば、精霊の少女は弱かったのだ。
何とはなく、しゅんとした気分になって、アベルは膝を抱え直した。
隣で寝ころんでいたゼロは、肘をついて半身を起こしている。アベルを見上げるような格好だ。
「でも、お前に似てるかもな、その女」
森の中で育った精霊の娘。
自然の祝福を一身に受け、嘘など全くなかったが故に、人間の中で孤立した。
彼に『バカ』と言い切られた少女。
「…誉められてないですよね」
「誉めてねーよ」
いつもながらの即答。
ますます、しゅんとした気分になってくる。
しかし、そんなアベルの羽の端を掴んで、ゼロは笑った。
「また、羽、垂れてる。…お前って、ほんと、嘘付けないよな」
慌てて、羽の位置を共に戻そうと思っても、彼が握り込んだままなので、いかんともし難い。
「…ゼロ様」
困ったように、たしなめるように呟くと、ゼロは更に笑った。面白がって、ますます強く引っ張ってくる。
子供みたいだ。
思ったけれど、口には出さない。怒るだろう、と思った部分が少し。そして何より、指摘してしまったら、これからは二度とそんな顔は見せてくれなくなるだろう、というのが、大部分。
無言の引っ張り合いっこの末、遂にアベルの羽を自由にする権利を勝ち取ったゼロが、意気揚々と羽根先を弄くりまわす。それに対して、アベルは既に、されるがままの体(てい)である。暇つぶしにと乞われた話も、その役に立たなかったようだし、ならば、別の手遊びを提供する義務があるのかもしれない、とも思ったので。
「…結局、最後、どうなったんだ?その女って」
何気ないその言葉に、つい彼を見下ろす。
そうは見えなかったのだが、本当は気になっていたのだろうか。それとも、アベルに気を遣って?
主人公の少女が、アベルに似ているから?
「……誤解も解けて、幸せに…」
「はっ。陳腐な話」
言いながら。
鼻で笑った彼が、どこか安堵したように見えたのは、錯覚だろうか。
彼がアベルの羽根を、きつく握りしめる。それは、まるでアベルの存在そのものを確かめているかのようでもあった。
「…ただのお話です、ゼロ様。僕は精霊じゃないし、消えてなくなったりしません」
「当たり前だろ、何バカ言ってんだよ」
そもそもお前、女じゃねーだろ、と続けながら、ゼロは更に、アベルの羽根を引き寄せた。
アベルは、か弱い精霊ではない。ゼロも、不実な騎士ではない。
彼女の嘘が暴かれ、騎士は精霊である元の妻の正体を知り。
狂気に陥った騎士の命が水界の王に奪われた後、少女は人界での記憶全てを失って、仲間達と共に水界へと帰っていく。
まるで、何事もなかったかのように、笑いさざめいて。
そんな結末は、迎えない。絶対に。
「…ゼロ様、寝ちゃったんですか?」
ゼロは動かない。どうやら、本当に寝てしまったようだ。
これから、家事の予定のあったアベルは、少し考える。
ゼロが羽根を握りしめたままなので、この場を動けない。
「……………」
どうしよう。
考えているうちに、彼は白い羽根に顔を埋めてしまった。動いたら、目を覚ましてしまうかもしれない。
「……………」
少しくらいだったら、平気かな。
傍らに蹴飛ばされた肌掛けを引き寄せて、ゼロに掛けると、アベルは彼の横に、同じように寝転がって目を瞑った。



眠ったと思っていたゼロが本当は目を覚ましていた事や、肌掛けの押し付け合いが始まった事、ああだこうだの押し問答の末に、一緒に掛ける、という譲歩が成立する事になるのもまた、いつもの話。



世界は、常の如く平和だった。



END






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