100粒の涙


心に棘が刺さった夜は
指折って数え 100日待つのです
忘却という薬を飲んで
「あんな人 嫌い 嫌い 嫌い」って
いつしか痛みも薄れます

100粒の涙/薬師丸博子



アベルの様子が何だかおかしいと気づいたのは、やはり、ピリポが最初だった。少なくともピリポには、他のメンバーは気づいていないように見えた。彼等は、ピリポのようにはアベルを見てはいなかったから。
ピリポは、いつものようにアベルの様子を窺い見る。周囲から離れて、山肌の草むらに腰掛け、アベルはどこか放心したような顔で、遠くを見ている。この旅の間に多少長くなった栗色の髪を、風がなぶって通り過ぎていった。
ピリポはそっと、彼の隣に腰掛けた。その物思いを邪魔などしないよう、できるだけ静かに。
それもあまり意味のない事ではあったが。
一人でいる時のアベルは、いつも何も見ていない。何も聞いていない。自分の心の奥底に沈み込んで、周囲を閉め出して、そして、独りになる。
それを悲しいと思いながら、それでもピリポには何も言えないのだ。『あの人』のための場所を空けてほしいなんて、言わない。ただ、ほんの少しでいいから、その心に入れてほしい、と思いながらも、それが決して叶えられないという事実をよく知っていたから。
大好きなアベル。優しいアベルは、きっと困ってしまう。そう理由付けしながら、結局のところ、自分が傷つきたくないだけだ。
ピリポの気持ちを負担に思って、そして彼は笑いかけてくれなくなるだろう。それが怖い。
実際、本当に自分は弱虫だと思う。
しかし、それでも。
「ねぇ、アベル。アベルは、彼が嫌いなの?」
それでも、こんな時のアベルに囁くように問うても、拒絶はされない。言葉少ななこの少年は実は結構な人見知りで、本当の自分を他人にさらけ出すような事はしない。しかし、ピリポには、自分は他の人よりもほんの少しだけ、たくさん受け入れてもらえている、という自負がある。
そして、それを裏付けるように、アベルがゆっくりとピリポの方へと顔を向けた。
「嫌いだよ」
間髪入れずに、アベルは言った。相変わらずの夢見るような瞳で、それでもピリポの質問にある『彼』というのが、一体誰のことなのか、理解しているという事は判る。ピリポも小さく頷いた。
彼と視線が合いそうになると、巧みに反らす。彼の側には、極力寄らないように努めている。それだけ見ても、嫌い、もしくは苦手なんだろうというのは、判る。
「でも、どうして?」
それがピリポ当人だったのなら、判る。己の弱い心に対しては自覚があったし、彼はひどく凄絶な雰囲気のある人で、実際、ピリポは彼が怖かった。
しかし、それはアベルらしくない。全く、アベルらしくない。
当のアベルは、そんなに突っ込んだ事を訊かれるとは、思っていなかったのかもしれない。蒼い瞳が、徐々に焦点を取り戻して、真っ直ぐピリポに向けられる。その表情に見え隠れする、ほんの少しの困惑と、忌避。嫌がられた、という思いは、ピリポの心臓を鷲掴みにして、そのまま口を噤ませるには充分だった。しかし、一度発してしまった言葉は、もう消えない。
「アベル、初めは彼と仲良さそうだったのに…」
俯いて、言い訳するように呟く。
だけど、本当にそうなのだ。当初、アベルは彼にひどく心惹かれた様子で、それもピリポに小さな妬心を起こさせたものであったのに。
対するアベルは、微苦笑を洩らした。それは、彼の中に存在するラインに無遠慮に踏み込んだ闖入者を排斥するようなものではなかったので、少なからずピリポはほっとした。更に踏み込んだ問いを発してしまったのは、だから、だったかもしれない。
「『仲良さそう』っていうより、俺が一方的に懐いてたって感じだったろ?彼もね。『犬っころみたい』だって言ってた」
「…だから、嫌なの?」
「え?」
アベルの瞳に浮いているのは、純粋な疑問符。ピリポは、己の手を固く握りしめた。
「だってアベル、理由もなく人を嫌ったりしないじゃないか、いつも。だから…。彼が何かしたの?だったら僕、言うよ。彼に『アベルに謝って』って。だから」
そうではないのか、という疑問は、口にする端から、そうに違いない、という確信に繋がっていく。自分の台詞に煽られるように、徐々に激していくピリポには、いつもならば決してできないだろう事も、今ならばできるような気がしてくる。
彼と対峙して、彼に抗議する、という事すらも。アベルのためならば。
しかし、アベルは頬を紅潮させたピリポの熱を覚ますように、きっぱりと首を横に振った。
「彼は悪くない。…何もしてない。全部、俺のせいだから」
それでも、ピリポがその言を全く信じていないと、アベルは判断したらしい。そしてそれは、全くその通りであったので、ピリポも無言でアベルを見つめ続ける。
ほんの少しの沈黙の後、小さく吐息を洩らして、アベルは言の葉を紡ぎ出した。
「……彼といるとね。俺は、いつもとても暖かな気持ちになる。ずっと、このままでいられるといい、と願う。そして、『あの人』がすうっと遠くなる。…何でかな。そんな風になんて、なりたくないのにね…」
初めて会った日、アベルの語った、彼にとっての永遠の少女。『あの人』が笑っていてくれるなら、俺は何でもするだろう、と、そう言って微笑んだアベルはとても綺麗で。ピリポに、それが妄想であっても構わない、と思わせる程に、綺麗で。
今現在のアベルの表情は、その時とひどく似通っていた。…更に透明で、寂しそうではあったけれども。
「だから、俺は彼が嫌いだよ」
ピリポは、目の前のアベルに何を言えばいいのか判らなかった。
「俺は、ゼロなんて、嫌いだ」
アベルが再び呟く。彼はこんな風にして、感情を塗り込めてしまうのだろうか。「嫌い」と何度も呟いて、生まれたての想いを葬り去る。そんな事ができるだろうか。
ピリポも、アベルに倣って、立てた膝を抱え込んだ。
アベルは精神的にピリポよりもずっと大人で、たくさん物も知っている。だけど、そんなアベルにだって、自分の心を思い通りにできないのだ。
どうして、心は思い通りにならないのだろう。
どうして、変わっていってしまうのだろう。変わりたくなどないのに。今のままでいたいのに。
風が吹き付ける。忍び寄る夜気を含んで、少し冷たく感じられる風。派手やかだった茜色の空が、徐々に紫紺に染め変えられようとしていく。
しかし、彼等は二人、その場に座ったまま、ただ、落ちていく陽を見つめていた。いつまでも帰ってこない二人を心配して、迎え人が現れるまで、ずっと。



END







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